第17話 親密度

 藤塚は椅子の背もたれに寄り掛かるようにして、しょんぼり俯いた。


「……ごめんね。なんか、むきになっちゃって」

「……あ、いや別に」


 正直、嬉しかった。


 僅かな沈黙が流れる。タイミングを見計らってか店員さんが俺が注文したコーヒーと藤塚が注文したミルクティーを持ってきてくれた。


 早速コーヒーをすする。苦味が口に広がり、のぼせていた頭が少し冷静になっていく気がした。


「正直ね、ちょっと……焼いちゃった」

「ごほっ……こほっ」

「えっ、大丈夫?」


 盛大にむせた。焼いたって、やっぱり焼きもちなのか? まじで?


 心配そうな顔で紙ナプキンを差し出す藤塚の顔をじっと見つめる。すると、彼女の顔がまた一段と赤く染まった。可愛い。


 早く取って、と顔を背けながら言われ、あわてて紙ナプキンを受け取る。


 口元を拭いながら、気を抜くとにやけてしまいそうになるのを必死で抑えた。親密度、ちょっと……いや、かなり上がっているのでは? と内心ニヤニヤが止まらない。


 少しの沈黙の後、藤塚が口火を切った。


「……次、内海くんの番だよ」


 そうだった。俺も話すことがある。


「あ、うん。俺、バイトすることにしたんだ」

「えっ!」


 藤塚の大きな目が、さらに大きくまん丸になった。


「もう決まって、7月からここ『La toile』で働くんだ」

「7月ってすぐじゃん! てゆうか、ここ? え〜っ! そうだったんだぁ……すごいね。応援する!」


 にっこりと微笑まれる。やっぱり藤塚は笑顔が似合う。怒った顔も可愛いけど。


「シフト決まったら教えてくれる?」

「いいけど。基本土日メインになると思う。でも、なんで?」

「内海くんの接客姿、見たいから」


 藤塚は、決まってるじゃん、とにんまりと不敵な笑みを浮かべた。


「は!?」


 そんなの、恥ずかしすぎる。


「それに、私も仕事とかレッスンとかあとジムもあるし、内海くんがバイト始まったら今まで以上に、話せなくなるでしょ? それって寂しいじゃん」

「……それは、まぁ、確かに」


 来るな、とは言えなくなってしまった。痴態を晒すのも酷だが藤塚と会えない、話せない方がよっぽど嫌だった。


「でしょ!」

「でも、言っとくけど俺バイト初めてだし、多分しばらくは失敗ばっかりで、見に来ても楽しくないと思うぞ」

「そんなことないよ。内海くん真面目だし、きっとすぐ仕事できるようになると思うよ」

「……そうかな」


 藤塚の言葉は、姉とは違う意味で心に直接響く。スッと染み込むように、心の深いところまで浸透する。


 俺はまたコーヒーを飲む。藤塚は頼んだミルクティーに手をつけず、腕を組んで何やらぶつぶつ呟き始めた。


 その声に耳を済ませる。


「うっちゃん、うっつん、うつみん……いや、逆に名前の晃太くん……」

「なっ」


 俺のあだ名!?


 ガタッと反射的に立ち上がってしまった。それに驚いた藤塚はびくりと肩を震わせた。目が合う。キラキラした瞳が瞬き、目がそらせない。


 ふいに、藤塚の口が開いた。


「……内海くんのこと、私もあだ名で呼びたいんだよね」


 そう告げると、言っちゃったと小さくつぶやきながら藤塚は顔を手で隠した。 


 雷に打たれたみたいな衝撃を受ける。熱い。沸騰しそうだと思った。クールダウンしないとと思い、立っていたことに気づき慌てて座り直す。運良く客が殆どいなかったので注目を集めずにすんだ。


「も……もちろん、教室ではちゃんと内海くんって呼ぶよ? その、ここでだけの、そう! 二人だけの限定のあだ名!」


 二人だけ、というフレーズになんだかそわそわしてしまう。こんなこと言われて、落ちない男はいないだろうと思う。


「お、おう」

「内海くんはさ、なんか呼ばれたいあだ名ってある?」


 俺に聞くのか!?


 何を答えても痛々しくなりそうで怖い。でも藤塚は真剣みたいだ。嬉しいような、いたたまれないような、そんな気持ちでいっぱいになる。


 期待しているかのような眼差しを向けられ、プレッシャーを感じる。言葉が出てこない。


「……あだ名で呼ばれるの、実は嫌、だったりする?」


 俺の沈黙を察してか、藤塚は眉を八の字にして寂しそうに尋ねた。違う。嫌じゃない。何か、何かないか……何かいい案が……。


「ノ、ノア……とか? ゲーム内でも呼んでるし」


 考えあぐねたすえ、ソシャゲ『GNF』でのユーザー名を提案した。


 もうこれくらいしか思いつかなかった。それにすでにゲーム内で呼ばれているから気恥ずかしさもそれ程ない。


 恐る恐る藤塚の顔を伺う。彼女はうんうん、と頷いたあと嬉しそうに破顔した。


「ノアくん! いいね! そっか。そうだよね。うん! わかった。ここでもノアくんって呼ぶことにするねっ」

「……うん」


 めちゃくちゃ照れ臭い。


 でも嫌な気持ちはしない。好きな子に親しみを込めた呼び方をされて、嬉しくない人間なんていないだろ。


 この流れで一応聞いてみる。


「その、聞きたかったんだけど」

「なあに?」

「ノアールって名前が俺っぽくないって、前に言ってただろ? それって、どういう意味だったのかなーって……ちょっと気になって」

「あ、あー……」


 俺の質問に藤塚はちょっとばつが悪そうに、目線を泳がせた。そして、手付かずだったミルクティーをごくりと飲んでから、おずおずと口を開いた。


「ぽくない、っていうのは、似合わないってことじゃないの。照れ隠しで、そう言っちゃっただけ。ノアールって、フランス語で黒、って意味でしょ? 内海くんは黒も似合うと思うし。あ、でも私的には内海くんは色で例えると青かなー……って、ごめん。話がそれちゃったね」


 藤塚はまた、頬を桜色に染めている。俺の心臓もまた、さっきからずっとうるさいくらいに鳴っている。


「……本音は、ノアールくんじゃなくて、ノアくんって呼んだ方が、もっと親密になれる気がしたから」


 その言葉を聞いて、どくん、と一際心臓が大きく音を立てた。

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