無血革命の前に流れる血
佐々木 凛
第1話
岡山県
その一角に、築五十年を超える木造のアパートがある。間取りは六畳一間で、風呂とトイレ、洗面台は共用。古き良き日本住まいと言えば聞こえはいいが、実態は伴わない。共用部の廊下は歩けば床が音を立ててうるさいし、部屋の中にはいつでも隙間風が入ってくる。夏は暑く、冬は寒い。家賃は格安だが、選ぶ人は少ない物件だと言わざるを得ない。
そんな住民の歩行音すら響き渡るアパートに、とてつもない男の怒号とドアをノックする音が響いた。
「おい、城崎! いるのは分かってんねんぞ。早よ金返さんかい!」
男にノックされているのは一〇六号室で、
かれこれ三十分は借金取りの怒号がアパート中に響いているが、住民は特に気に留める様子は無い。城崎が越してきてから、これはアパートの恒例行事となっていたからだ。
住民たちは詳しい事情を何一つ知らないが、今時の若者が定職にも付かずにこのボロアパートに住んでいるところを見るに、お金関係のトラブルを抱えていることは分かっていた。そして住民たちは、そのことに寛容だった。自分たちにも、似た経験があったからだ。このアパートには、そう言う人が集まってくるのだ。
「チッ! 今日の所は帰ったるけどな、また明日来るからな! そん時までに一千万、耳揃えて用意しとけよ!」
借金取りが捨て台詞を吐き、車でアパートを後にした。
その音が遠のく頃、一〇六の扉が開いた。中から顔を覗かせるのは、住人の城崎連だ。
「あ~、やっと帰ったよ。あいつら本当にしつこいんだから」
城崎は溜息交じりにそう言うと、ティーシャツにスウェット姿のまま部屋の外に出て、大きく背伸びをした。少し辺りを見回すと、周辺の建物や一軒家の窓からはたくさんの冷たい視線が城崎に注がれている。
「お騒がせして、すいませんでした!」
城崎が大きな声でそう言うと、先ほどまであった視線はすべて消え去った。規則正しく毎日取り立てに来る借金取りのあしらい方を覚えた城崎にとっては、この冷たい視線に対処することなど慣れ切ったことなのだ。
「さて、食料調達に行くか」
そう言って、城崎は近所にある激安スーパーに向かった。フリーターの上に多額の借金がある城崎にとっては、この激安スーパーは救世主だった。毎日このスーパーに出向き、その日一番安いお肉を購入して帰る。大抵は鳥の胸肉になるが、時折牛の切り落としなどが手に入るので有り難かった。
「今日は胸肉か。よし、また茹でて食べるか」
こんな生活をしているが、その原因となった借金は城崎自身が作ったものではない。
城崎は県内でも指折りの私立大学に奨学金で通っていたが、その奨学金は大学から優秀な学生に貸与されるものだったため、首席で卒業した城崎には返済の必要が無かった。城崎を今苦しめている借金は、友達に頼み込まれて連帯保証人になった後、その友達が姿を眩ませたせいで突然現れたものなのだ。それから、連日にわたって今朝のような取り立てが続いている。
それでも、城崎がその友人のことを恨んだことなど一度も無かった。むしろ彼は、姿を眩ませたその友人の身を案じている。
どこかで野垂れ死んでいないだろうか。
ちゃんとご飯は食べられているのだろうか。
屋根のあるところで生活できているのだろうか。
借金のことを考える度、返済方法よりも先にそんな心配が頭をもたげてしまう。
我ながら、お人好し過ぎる。
城崎がそんなことを思いながら家路についていると、いつの間にか家を通り過ぎて、箕輪市役所の前にいた。考え事をしていると周りが見えなくなるのは、城崎の悪い癖である。
「ん? なんだこれ」
箕輪市役所の掲示板には、情報学科卒の城崎が興味を惹かれてやまない案内が掲示されていた。そこには、『自律思考型最新人工知能の臨床実験』と題された実験の協力者が募集されていると書かれていた。
「自律思考型人工知能は、従来のイメージ通りプログラミングされたことを忠実に実行するだけではなく、人間と同じように自分で考えて行動することができます。会話等のコミュニケーションも、ほとんどストレスなく行うことができるでしょう。そんな人工知能と共同生活を送ってくれる方を大募集しま――」
「はい、城崎連さんですね。これで実験協力者として応募できましたので、後日また連絡があると思います」
「……はい?」
「え、急にどうしたんですか」
「あれ、いや、ん? 僕は掲示板の前にいて、それを読み上げていたはずで、まだ参加するかどうかは決めてないんですが」
「なに言ってるんですか? こうして実験協力者として申請されたじゃないですか」
「え、申請までしたの? え、嘘。いつ、どこで、誰が」
「いま、ここで、あなたが」
先ほどまで市役所の前に設置された掲示板の実験案内を読んでいたはずの城崎は、いつの間にか市役所の受付に座っていた。そして自分でも気付かないうちに説明を受けて、気付かないうちに同意書に署名したようだった。
城崎が状況を整理して前を向き直すと、市役所の女性職員が困り顔でこちらの様子を窺っていた。突然記憶喪失のようなことを言い出したのだから、無理のない反応だろう。城崎は相手を怖がらせないように、努めて冷静に、笑顔で、柔らかい雰囲気のまま話を続けた。
「あ、ごめんなさい。全然話を聞いていなかったので、もう一度説明していただけますか」
「え、ふざけてるんですか。私に、もう一時間かけて最初から説明しなおせというんですか」
「一時間!?」
城崎が大慌てで左手の腕時計に目をやると、時刻は家を出発してから二時間弱経っていた。その間、八割の記憶は無い。城崎は久しぶりに、自分の悪い癖を呪った。
「あ、えっと。取り敢えず僕が気になることだけ質問するので、それに答えていただけますか」
「お断りします、冷やかしなら帰ってください。この実験協力者申請も破棄しておきますので」
「あ、いやいやいや。それは申請します」
「なんにも話を聞いていないのに申請するんですか?」
「最新の人工知能との共同生活なんて、人類全員の夢じゃないですか。ぜひ参加します」
「そうですか。ではこちらは受理するとして、今日はお帰り頂いて結構ですよ。後日連絡があると思いますので、それに対応してください」
そう言って女性職員は城崎が署名した申請書と、長い説明の時に気を遣って持ってきてくれたであろうコーヒーの少し残ったカップを両手に持ち、席を立った。
「あ、それで共同生活の期間というのは?」
城崎が恐る恐る尋ねると、目の前の職員はあからさまに呆れた顔をして、やや投げやりな態度で答えた。
「先ほど何度も説明しました通り、箕輪山中にある山荘で五泊していただきます。人工知能は見た目も人間の見た目をしているので、簡単には見抜けないと思います」
「なるほど、チューリン――」
「チューリングテストですね。はい、そうですよ。人間と人工知能の区別がつくかつかないか調べるための実験ですよ。それも先ほどから何度も何度も、耳に
「なんか、ごめんなさい。帰ります」
城崎は、肩を落としながら家に帰った。そして帰宅してから、市役所に今日の食糧として買ってきた鶏むね肉を忘れてきたことに気付いた。だがあんなことがあった手前、市役所に問い合わせたり、取りに帰ったりするつもりにはなれなかった。
「はあ。この無意識で勝手に行動する癖、どうにかなんないものかな」
城崎がそんなどうしもない独り言を呟いて、煎餅よりも固くて、文庫本よりも薄くなった布団の上に横になると、目を閉じた。
次に目を開けた時には二日が経過しており、目の前には見知らぬ天井があった。
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