チャプター3
Ⅷ
17:00
その変異を初めて見たときには、自分の目の錯覚かと思った。
鮮烈なブルーの色彩がそこにあったからだ。
構造色、という言葉がある。
構造色というのは特定の色を指す言葉ではない。どちらかというと色というものが生み出される仕組みそのものだ。
これは色素とは違った原理で現れる色だ。細かい説明は割愛するとして、身近なものとしては、シャボン玉の虹色や、あるいはモルフォ蝶の青い羽根なんかがそれによる色だ。モルフォ蝶は身近じゃないか……。
それが水槽の中に現れたとき、繰り返すが目の錯覚かと思った。
今まで見たことがないような青が、ガラス球の中に不意に現れたのだから。
水槽の中では世代交代が進み、ひれの伸長は支配的な形質になっていたころだった。その、沼や川の中ではハンディキャップにしかならない性質を、何世代か後にはすべてのエビが獲得していた。これは水槽の中のすべてのエビが、あのロングフィンの個体の子孫だということになる。
またショートボディと呼ばれる性質も同時並行で現れた。これは胴体が短くなる変異で、観賞魚の品種改良ではしばしば好まれる。金魚を思い描いてほしいが、よくイメージされる金魚は原種のフナより体が短いはずだ。あれがショートボディだ。琉金と呼ばれる典型的な金魚はショートボディでロングフィンだ。泳ぎにくそうだろう。もちろんこれも、野生では致命的な変異だ。
体が短くなって、どこか金魚のような姿になったエビたちを、浅間ふうろは「カニのコロッケみたい」と形容した。なるほど似ていた。ひれを見立てれば、カニの爪がついたクリームコロッケにそれは似ていた。エビフライからカニクリームコロッケになったわけだ。
そこに、青。
それはネオンテトラの青だった。やはり水槽内で支配的になりつつあったカニクリームコロッケ形質を持つエビの中に、青く光る個体が現れたのだ。それはひれも含めた甲殻全体に、うっすらと青い輝きをまとっていた。
おそらく甲殻の下に、均一な厚さを持った膜のような構造が発生したのだろう。構造色はそのような「構造」によって作り出される。その膜の厚みがたまたま青い光の波長と干渉するのだ。たとえばチタン製品の酸化被膜による着色がそうだ。あの鮮やかな色は膜によって生まれる。
美しかった。構造色の特徴として、それが鮮烈で美しいということは主観的だが言っておいてもいいだろう。それは特定の波長の光だけを目に届けるからだ。もちろん色はすべてそうなのだが……構造色はとくにそうだ。いわば純粋な「色」だ。ブルーがとくにすばらしい。ネオンテトラを見ればわかる。あんな青になる顔料は存在しない。
17:15
「こいつらって結局何がしたいんです?」
ふうろが根源的なことを聞く。
青く光る個体の第二世代が生まれたところだった。何度目かの脱皮で、そのブルーは突然発色する。脱皮のたびにわずかに色味が変わる様子も観察される。やはり甲殻が構造色をもっているのだ。
「私に聞くなよ」
そう答える。
ただ、確実なことは少なくともひとつ言える。こんなことは普通は起きないということだ。ああ、それからもうひとつ言える。彼らをもし野生に戻したら、もう生きていけないということだ。
「生きてけないですか」
「そりゃそうだよ」
動きを制限する長いひれと短い尾、あげく目立つ青い輝き、そんな生物が野生でうまく生きられるはずがない。自然というのはミュータントに厳しいのだ。教科書的な説明によく出てくる進化論の説明の図式にはひとつ嘘がある。生存に適した変異体が生き残るというあの図式だ。というのも、突然変異の大半、というかほぼすべては、別に生存に有利をもたらさないのだ。大半の変異体は単に生きにくいだけなので、自然はただ彼らを殺す。有利な変異体が発生し生存するよりもずっと多く、無数の不利な変異体が死んでいる。
進化というのはそういうものだ。生物がその形であるということは、その形にならないで生まれた個体、ようするにそれは試行だが、彼らが全部死んだということだ。虎が強いのは弱い虎がみんな死んだからだ。
水槽の中のミュータントたちは、明らかに死ぬ側に属する。彼らを飛行機に乗せて、故郷の水に還したとしても、彼らはなんの世代交代もできずに死ぬことだろう。少し水の流れの速い場所なら、それこそ水流のなかで砕け散ってしまうかもしれない。
「わたしらみたいですねえ」
ふうろはぽつりと言った。
私ら、と彼女はなぜ言ったのだろう。気づかいだったのだろうか。私だ。外で生きていけないのは私だけ、生きづらいミュータントは私だけだ。私は水槽の中の彼らと同じだ。外に出せば死んでしまう。
そうだ。もうひとつ言えることがある。彼らは私に似ている。
19:19
夕食はピザをとった。私の払いだ。家事の分担の不平等性をごまかすため、私はポケットマネーからしばしばピザをとる。別にそれほど好んで、というほどでもない。私は胃弱なので油ものは得意ではない。どちらかというとふうろへのサービスだ。
「いやあ。油が身体に染みますねえ。ありがたいですねえ」
ふうろは大げさに喜んでいる。
「体内を細かくなったピザがぐんぐん流れている感じがしますよ」
そんな芝居がかったことも言う。
いささか過剰な彼女の喜びようにわたしは苦笑するのだが、あまりに毎回その喜び方をするものだから、どうも本気なのかもしれないと最近は思い始めている。彼女はピザやてりやきバーガー、あるいはフライドチキンなどを「ごちそう」と呼ぶ。とくにフライドチキンなどは軟骨まで深追いして食い、残った骨でだしをとって卵スープも作る。口先だけではないと思わせる何かがそこにはある。
24:00
水槽の中の彼らはめまぐるしく進化していく。一方の私はおなじような繰り返しの日々を送って、その内容をカウンセラーに話し、彼女に戯言を吐き、彼女の一般論を聞く。夜は夢の中で何度も洪水に呑まれ、石になる物語をくり返す。
それでも何かが調和しているような気がしていた。
実際には何も調和していなかったのかもしれない。
それか、あるいは、調和というのは、自分からそれを壊すのかもしれない。
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