8:00


 ぴぴぴぴぴぴ。


 8:03


 かちっ。


 8:23


「いやあ。なんか昨日はすみませんねえほんとに」

 テーブルの上にはまだ昨日の酒盛りの残骸が転がっていた。食べかけでしけったお菓子。こぼれたチューハイが甘い匂いのべたべたになって天板にしみついていた。

 ふうろは珍しく飲んだせいか、少し疲れた顔色をしていた。しかし機嫌は良いようで、何くれとなくわたしに謝りながら、テーブルのべたべたを拭いたりしていた。わたしもちまちまとグラスを片付けたりする。


 8:27


 浅間ふうろがこういう風に「決壊」するのは平均すると月に一度ぐらいのペースだった。要するにストレスが何かの閾値を超えるのだろう。たまに普段飲まない酒を飲んだり、コンビニでつつましく散財したりする。とはいえ別に酒乱と言うほどでもないし浪費癖と言うほどでもない。つまり問題行動というほどでもない。

 いちおう、そういう時はわたしが愚痴を聞いたりなにかと付き合うのが暗黙の了解のようになっていた。わたしが普段好き勝手していることのお返し、という感じだろうか。とはいえ、その取引はまったく対等とは言い難い。わたしのほうが圧倒的に負担をかける側だからだ。寄生虫がたまにアレルギーを抑制しているとか、そういう状況に近いかもしれない。


 8:45


 むしろ、わたしには、彼女のこの決壊は私をなぐさめるためのちょっとした小芝居のようにすら思えていた。

 つまり彼女は、わたしのためにわざと不安定な姿を演じてみせているのだ。ちょっとした醜態を演じ、わたしに慰め役をさせて、いわば役割を与えてやることをしているのではないか。そんな考えが頭から離れなかった。というよりわたしの中では、その考えはひとつの定説だった。


 13:45


 今日は出かける。


 14:03


 浅間ふうろと初めて会ったのは小学生のころ。

 私たちは同級生だった。


 14:05


 彼女はクラスの女王だった。

 と言っても、マンガに出てくるようなお嬢様タイプのことを指しているのではない。取り巻きを従えたいじめっ子だったわけでもない。彼女の君臨は穏やかで、権力はつねに抑制的に行使された。つまり、もっと本物の女王に近いものだった。

 彼女は為政者であり、統治者だった。不和があれば一定の基準に従って裁定し、利害を調停し、落としどころを見つけて皆の合意を作り出した。つまり彼女はちょっとしたローカル・リーダーで、クラスのまとめ役だった。それは小学生としては出来過ぎた人物像ではあった。


 14:13


 そんな彼女がなぜわたしの幼なじみになってくれたのか、永遠の謎だ。

 なにしろわたしは彼女にふさわしい友人とはいえなかった。そう言えたらどんなにいいことか。せめてそう言える瞬間でも過去にあればよかったんだけど。つまり、わたしが彼女にふさわしい友人であったことなど、過去の一瞬たりともなかったのだ。


 14:17


 今でも思い出す。背の高い彼女。

 浅間ふうろは今では小柄な方だが、小学生のころはわたしに次いで背が高かった。背の順に並ばされるとわたしたちは前後になった。彼女いわく「黄金期」とのこと。その後、彼女の身長は早々に頭打ちになり、中学生になる前に平均に沈んだ。


 14:21


 学級崩壊という言葉ができたのがそのころだったか、あるいはもう少し後だったかは覚えていないが、わたしはいわばそれそのものだった。ひとりの学級崩壊だった。小学生のわたしは、熟練の教師をもってしても扱いにくい児童だったはずだ。敵意に満ち、不満足で、そのうえ最悪なことに、きわめて賢かった。

 幼いわたしは、ほかの子の言う「勉強」というものが理解できなかった。必要のないことだったから。教科書をすべて覚えるぐらい、そう難しいことでもなかったから。わたしは頭の中で写真を撮ることができた。いわゆる写真記憶だ。教科書を開いて映像として記憶し、記憶の中のそれを読むことができる。

 とはいえわたしの取り柄はそれくらいで、他に見るべきところはない生徒だったと思う。そして、むしろ、その事は教師のわたしに対する嫌悪感を強くした。

 知るかぎり、小学校の教師という種族は、成績が悪い生徒をそれほど嫌うことはない。だが勉強をしないのに能力の高い生徒はあきらかに嫌う。思うに、そういう生徒を見ると教師の存在意義を否定されたと感じるからだろう。実際、わたしは授業を必要のない行為と見なしていたし、その態度を隠す気もなかった。


 14:35


 むかし、ある種のデモンストレーションとして、国語の教科書をわざと持ってこなかったことがあった。わたしは代わりに、教科書の内容を全部暗唱してみせた。授業を担当していた新人教師は、わたしのその行動に対して、泣いた。わたしは驚いた。今となっては理解できるが、当時は「大人」の先生が泣くなんて起こりえない事だと思っていたのだ。

 結果、わたしはクラス中から非難されることになった。たしかに幼稚なふるまいだ。でも仕方ないはずだ。わたしは小学二年生だったのだ。

 むしろその行動は、わたしの子供らしい部分だったと思う。というのも、幼いわたしは幼いなりに、この世界が、なにか自分にはまったくしっくりこないやり方で作られていることを理解しつつあった。そしてそれに理不尽さと怒り、不穏さみたいなものを感じていた。それをなんとかして欲しかったんだと思う。

 その事件の顛末は情けないものだった。

 姉が六年生のクラスから来て、私の頬を張り、きびしく叱りつけた。できて当然の事を誇るな、というのが姉の言葉だった。それから彼女は涙ぐんでいる教師に歩み寄り、あなたは教師なのだから職業的義務として泣くべきではない、と、だいたいそんなようなことを言って、ハンカチを渡した。新人教師はとうとう逃げ出してしまった。

 その事件を皮切りに、わたしはただの不穏で不愉快な子供から、ある種のモンスターとして扱われるようになった。そのぐらいまで行くと、いじめやからかいの対象にもあまりならない。単に触られなくなるのだ。

 快適になったので、わたしは満足した。

 そこに浅間ふうろが登場する。わたしは彼女が嫌いだった。

 

 14:49


 彼女は明らかにわたしの持っていないものをすべて持っていた。

 別に彼女に友達が多くて羨ましいだとか、そういうことを思っていたわけではない。わたしはそもそも友人を求めていなかった。わたしが感じていたのはもっと根本的な差だ。根本的な欠落だ。羨望というより恐怖に近かった。

 ようするに、彼女を見ていると、わたしは自分に欠けているものをまざまざと見せつけられる気がしていたのだ。まるでわたしの心にあいた穴に、何かを流し込んで型をとって、それをそのまま見せつけられるみたいに。

 そうだな。恐怖に近い。わたしは彼女が怖かった。


 14:55


 しかし浅間ふうろはどういうわけか、わたしに好意的だった。

 それも、ひどく好意的だったと言っていい。わたしに積極的に話しかけてくるだけでもかなり妙な事だった。なにしろほかのクラスメートはだれもそんなことはしなかったのだ。一緒に帰ろうとしたり、手をつなごうとしたりしたことすらある。

 もちろん、わたしは常に彼女に悪態をついた。


 15:02


 悪態という言葉はきれいすぎる。

 わたしは彼女を罵倒したり、しばしば露骨な軽蔑の態度を取ったりした。もっと直接的に、暴力をふるうことすらあった。それに対して、彼女は常に温和な態度をとり続けた。信じられなかった。怖かった。

 最終的に、わたしは折れた。彼女と一緒に家に帰るようになった。


 15:08


 その様はあれに似ていた。あれは三国志のエピソードだっただろうか? 諸葛孔明が南蛮を帰順させるために、その王孟獲と戦うことになる。孔明は勝利し、孟獲は捕らえられる。しかし孔明はその後、孟獲を殺さずに解放してしまう。自由になった孟獲はふたたび武装し、孔明に挑むが、また敗北し捕らえられる。今度こそ殺されるかと思えば、解放される。それが七度繰り返された時、孟獲はとうとう自分から敗北を認め、心服して忠誠を誓うのだった。七縦七擒という四字熟語の由来だ。

 このエピソードは史実ではないだろうが、物語としてはよくできている。わたしに起こったことはだいたいそれだ。


 15:13


 これについて大人たちは、単にわたしに「初めて友達ができた」とか、そんな認識をしたはずだ。大人だけでなく同級生たちですらそう思ったようだ。友達ができてよかったね。よかったよかった。というように。じっさい、わたしの問題行動は激減し、いくらかクラスでも浮かないようになった。悪いことではないだろう。

 だが同時に、これが通常の友人関係でないことは明らかだろう。


 15:19


 わたしの言いたいことは簡単だ。

 ようするに、浅間ふうろは何か、ほかの子供とはまるで違った存在だったのだ。図抜けて大人びたところがあり、完成された人格だった。

 わたしも彼女に友情を抱いたというよりは、どちらかというと、屈服したと言うほうが近かった。彼女のような存在に屈服させられるのは、とても、なんというか悪くない。いいものだ。


 15:26


 わたしがそこまで話したところで、セラピストはペンを取り落とした。

 どこかの製薬会社のノベルティのペンが転がる。クリップのところに精神安定剤の名前がある。わたしはそれを拾って彼女に渡す。カウンセリングはそろそろ終わりだった。

「でも。一般論としては完璧な人なんていないと思わない?」

「まあそうですね」

 わたしは認めた。


 15:27


 そして頭の中で、こう続けた。一般論としてはそうです。完璧な人間なんていない。実際彼女もべつに完璧なわけではない。でもそういう問題じゃないんです。彼女は特別な人間だということが言いたいんです。

 わたしなんかは、世間のどこにでもいる落ちぶれた神童のひとりに過ぎません。なんら特別ではありません。世界は少数の優秀な人間を作るために、わたしのような者をたくさん作り、多くを脱落させて少しを残します。鉄の精錬工程と同じです。不純物は除去されます。わたしはその除去された側です。特別ではありません。

 そして、もしわたしが残った側だとしても、どのみちわたしは特別ではないということです。もしわたしが大学に残っていたら、わたしは今とは別の形で世界と関わり、今とは別の形で世界に消費されていたかもしれない。もしかしたら何か称賛されるような仕事をしていたかもしれない。だとしても、それも特別ではありません。特別でない証拠に、その役割は別の誰かが今になっています。代用品がいる者は特別ではありません。

 でも、彼女は違います。特別です。なにしろわたしを救ってくれる。

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