Ⅲ
01:23
眠れない。
03:46
妥協案として時計には布をかけることにした。
04:24
寝られた。エビの怪獣の夢を見た。
わたしはよくそうなのだが、夢の中で自分は夢を見ているのだと自覚していた。いわゆる明晰夢だ。明晰夢はネット上で言われるほど楽しかったり快適なものではない。少なくとも自分の場合はそうだ。それは入りぎわに強い落下の感覚をともなう。
夢の中でのわたしは窓から外を見ていた。
外は森林になっていた。どうも文明は崩壊してしまったらしく、無人になったアパートが苔むしているのや、割れたアスファルトの合間から樹木が生えているのが見えた。植物たちの領土回復戦争だ。どこかで見たようなイメージである。子供のころに科学の本かなにかでそういう絵を見たことがある。
都心にあるような巨大な建造物が森に飲みこまれようとしているのならばそれなりに見ごたえもあったことだろうが、わたしの家があるのは郊外の住宅地だ。いまいち迫力に欠ける。他人の家がずらっと並んでいるだけだ。それが大森林になろうが凍ろうが溶解しようが原子レベルに分解しようが興味はない。
「そういうとこですよ」
いつの間にかとなりにいたふうろが言う。
彼女は腕組みしてわたしをじろっと見ている。
「そういう社会性のないところが夢に出てるんじゃないですかね」
「そうだねえ」
「開き直られると感じが悪いのですが?」
「申し訳ないとは少し思う」
「はあ。これじゃスーパーも閉まってるかも」
そこにエビの怪獣が現れた。
現れたんだから仕方がない。夢の中なんだから勘弁してほしい。ふうろが買ってきたエビは電車ほどのサイズになっていて、道路だった場所に生えている低木をもりもりと食みはじめた。文明の守護者かな。わが夢ながらいいかげんにしてほしい。
巨大エビを見たふうろは大爆笑しはじめた。
「はははははははははは! はぁ、なにあれ! バカかな?」
「そうだねえ」
「木を食ってますよ! 木を!」
「ビルを食うよりは納得がいくね」
「なんで?」
「コンクリートを酸化させてエネルギーを取り出すのは無理だから」
「そういうとこですよ」
8:00
ぴぴぴぴぴぴ。
時計のアラームが鳴る。
8:02
時計のアラームが止んだ。
背面の蓋を外して電池をずらしたのだ。
一般的に電気製品は電力供給を断つことで機能が止まる。
12:41
目が覚めた。自分としては長く眠ったほうだ。
夢の内容を思い出して、ふと水槽を見た。もしかしたら残った二匹も死んでいるかもしれないと思ったのだ。水槽をセットアップした直後は、中の生物にとってリスクの高い期間だ。そして予感は半分当たった。残ったエビのうち一匹は元気だが、一匹は動かなくなっていた。死んでいるのは見ればすぐにわかった。透明だった体が白く濁っていたからだ。
残り一匹だけになったエビは元気そうに見えたが、それも確証はない。野生の動物というのは瀕死になるまで弱った様子なんか見せないものなのだ。生き延びたとしてもこのまま生き残りの一匹を飼い続けることになるだろう。それはなにか忍びない気がした。多少は責任を感じたし、なによりふうろをがっかりさせる気がした。ネット通販でも使って同種を買い足そうか。
そんな思案をしていると、もう一つの変化に気付いた。生き残った最後の一匹が抱卵していたのだ。抱卵というのはメスが卵を持っているということで、つまり妊娠にあたる。彼女は胴の下に茶色がかった卵の塊を抱え、足を使って鼓動させるように水を送り続けていた。
少し奇妙に思った。水槽に入れる時点では、彼女は卵を抱えてはいなかった。卵を抱えていれば雌雄の判別はその時点でできたはずだ。見逃したとはあまり思えない。わたしはこの種の観察については常人よりも優れている。
エビの死骸を見やる。そうなると、ちょうどこのタイミングで、彼は最後の力を振り絞って父親になって死んだのだろうか、それとも昨日死んだエビのいずれかがそうだったのだろうか。早すぎるが、ありえないことではない。
あまり考えていてもしかたないので、コーヒーを取りに台所へ行く。
18:16
エビの様子はあいかわらず問題なさそうだ。卵のコンディションは分からないが、彼女がそれを大事に抱きかかえているということは、つまり問題ないはずだ。卵が死んだりしたら、彼女は容赦なくそれを捨てる。
オスのエビはというと、彼の身体は先ほどよりもますます白い。死んで透明な体が白くなるのは、加熱した卵の白身が濁るのと原理は同じだ。つまりタンパク質が変性していること、ひいてはその体がすでに正常な代謝を失っていることを意味している。その姿は「まあオスなんてこんなものですよ」と背中で語っている。彼らの種族では父親なんてものは最初から大した問題ではないのだ。
20:32
「いきなり増えたんですか。いやあ。虫は話が簡単でいいですねえ」
わたしの話を聞いたふうろはそんなことを言って、わたしを少しぎょっとさせた。虫というのは例のエビの事だろう。彼女は蜘蛛やナメクジはもちろん、トカゲなどの小型の爬虫類まで虫と呼ぶことがある。分類学に無関心なのは前々から認識していたが、エビも虫の一種と認識しているのは初めて知った。
「食べるエビも虫だと思ってるの?」
「あれは食べ物じゃないすか、一緒にしないでくださいよ」
なにを異なことを、といったふうにふうろはぱたぱたと手を振る。
「まあ、いいけどね」
わたしはそう答えた。彼女が生物学に関心を持ってくれるという希望はすでに諦めている。わたしは本日何杯目かのコーヒーを口にする。少なくとも一杯目でないことは確かだった。
「夜にコーヒー飲むのやめたら。あ、そういえば」
彼女は冷蔵庫の中のパックを持ち上げ、コーヒーの残量をたしかめた。
「一日一杯って言いましたよね」
「努力はした」
さして悪びれずにわたしは答える。
21:45
「ほら、卵もってるでしょ」
「あ、これですか。わりとキモいですね」
ふうろがエビを見たいと言って部屋に来た。彼女が部屋に来てくれる理由ができたことにわたしはひそかに喜び、是が非でもこの小さな世界を維持する決意を新たにした。水槽の中のエビを見せて、彼女が卵を抱えていることについての簡単な説明をした。この種の場合、卵は親に抱えられたまま育つことになる。
「シリカゲルみたいだなあ」
と、彼女のコメント。一瞬、何か専門的なことを言ったのかと思ったが、単に菓子なんかに入っている乾燥剤に卵が似ていると言いたいらしい。
心なしかその卵は茶色みがかって見えた。卵の中の稚エビが成熟するにしたがって卵の色はだんだん薄くなり、最終的には透明な卵殻を破って子供が外に出てくることになる。色の変化がやけに早い気がするが、気のせいだろう。
01:11
寝る。
12:34
寝られない。
4:21
寝られた。
6:34
早く起きすぎた。二度寝する。
8:00
ぴぴぴぴぴぴ。
時計のアラームが鳴った。
8:01
アラームを止めた。
いちいちコンセントを抜かなくても、時計の上部にあるスイッチを押下することでアラームを停止できる。そのことについてはきのう学習していた。アニメでそのようなシーンを見たことがあり、時計上部に相対的に大きなスイッチがある事実から、おおよそ類推できた。
静かになったのでベッドに戻る。
10:16
彼女が部屋から掃除機を回収していく音がする。
10:18
掃除機の音というのは何とかならないものだろうか?
あの悲鳴をたくさん集めたみたいな音のことだ。あれは生活音のなかでもかなり不愉快な部類に属する。地獄の嵐のようだ。もし中世に掃除機があったとしたら、地獄の音を発するとして教会が禁止したかもしれない。100Vの交流電源があればだが。
家電製品メーカーのしのぎを削る商品開発競争も、この騒音をとくに改善する様子がないのは、これが掃除機という存在が持つ原罪みたいなものなのだろうか。それともわたしが単に過敏すぎるだけなのだろうか。この音が原因の殺人事件の件数は過去にいくつあるのだろうか。
とはいえ寝るのにうるさいから掃除機をやめてくれと言いに行くのが正当性に欠けることは理解している。以前姉にそれをやったときはかなり分の悪い姉妹喧嘩になり、おたがいに相当不愉快な思いをすることになった。ふうろ相手にそんなことをしたらこの共同生活は崩壊しかねない。そんなリスクは犯せない。
起きたくはないが起きることにする。
10:20
やっぱり起きたくはない。
10:32
嵐が止んだ。
10:45
彼女がバイトに行く音がする。
10:46
家の中が静かになった。
11:05
のそのそと起き出した。
11:06
大学を中退してから数年間、家から一歩も出ずに過ごした時期がある。要するにわたしは真性の引きこもりだった。引きこもりに真性と偽性があるという前提での話だが。
その時期の生活は水族館の深海魚に似ていた。大半は暗い自室で過ごす。そういう生活をしているとどうなるかというと、まず曜日の感覚が曖昧になってくる。日曜日も月曜日も違いがないからだ。次に日付も。昨日と明日に差がないからだ。最終的には昼と夜も関係なくなる。時間は社会性そのものだから、社会性の喪失は時間感覚の喪失をともなう。
その時期からすると、わたしは回復軌道にあると言っていい。といっても、世間から見ると差はないだろう。廃車がポンコツになった程度だ。だがエンジンがまったく動かないのと辛うじて回る事には大きな差がある。ひとつのはっきりした閾値がある。それは数度の気温差で水と氷が分かれるみたいなものだ。今のわたしは少なくとも心療内科に行くことができる。そのために靴を履くことが。今日はその日だ。
12:12
足の痛みを今も思い出す。靴がとにかく痛かった。
家から出るようになったばかりの時期、わたしの足は弱っていた。それは靴も地面も重力も忘れてしまっていて、靴を履くだけで痛んだ。それは人魚姫の足だった。皮膚は赤く腫れ、血も出た。足の筋肉も衰えていた。姉はわたしになかば強制的に肉類を食わせ、プロテインとやらを買ってきて、その何でできているかわからないまずい粉末を投与した。変なシェーカーでプロテインを振る姉が魔女みたいに見えた。そうやって体重を支える足を再獲得した。
12:55
セラピストにわたしはだいたいそんなような話をした。
彼女は職業的無関心を持ってそれを聞いてくれる。臨床心理の用語で言う傾聴というやつだ。粗略な説明をすると、これは患者と一定の距離感を保って話を聞くという姿勢だ。カウンセリングには膨大な理論があるし、精神的な治療に有効かどうかについてはいろいろと議論があるようだが、わたしはそれらについてよくは知らない。
ある事象について多くの理論があるということは、学者がそれについてあまりよくわかっていないということの裏返しである。それはコンセンサスを形成するほどの強い見解がないことを意味する。とはいえ、餅は餅屋というのもまた事実である。だから、わたしは彼女の、そのセラピストのアドバイスには基本的に従うべきなのだろう。彼女はわたしのカフェイン依存に強い懸念を示している。
とりあえず、壁に話しかけるより人間に話しかけるほうが健康に良いという点は言えそうだ。なぜそうなのかと言われれば答えに詰まるが、壁に話しかける行為と、人間に話しかける行為の間にはやはりなにかの閾値のようなものがある。たとえ喋る内容が支離滅裂だとしても。
そういう意味では彼女の役割は少し壁に近い人間なんだと思う。
それでもわたしは彼女がけっこう好きだ。
彼女は丸顔で、浅間ふうろにすこし似ている。声の高さも同じだ。
13:02
薬を持って帰宅する。
わたしには抗不安薬や抗うつ薬といった薬がいくつか処方されている。それらの効果については割愛する。これは闘病日誌ではない。
ただ、だんだん分かってきたことがひとつある。わたしのような人間にとって、通院のひとつの大きな役割は通院それ自体だということだ。医師とわたしで一か月先の通院日時を決め、予約をとり、その日のその時間に通院するという行為それ自体だ。それはわたしのような人間にとって、通学や通勤に相当するものになる。
ようするに社会をやるということ、社会的行為なのだ。これは。
13:45
ひどく疲れた。
帰りにショッピングモールに寄ったのが間違いだった。
比較的近所にショッピングモールがある。郊外型の店舗でかなり大きい。とくに欲しいものがあったわけではないが、ただ試しに行ってみようと思っただけだ。強いて言えば買い物の練習がしたかった。ふうろはたまにわたしに買い物に行こうと言う。わたしもそうしたい。その練習。
商品と人のひしめく空間がわたしを圧倒した。もはや圧殺だった。わたしの脳はその膨大な数のオブジェクトをまともに情報処理できなかった。わたしは夢遊病者のようにモール内を徘徊したが、高熱でおかしな夢を見ているような気分だった。警備員もわたしを不審そうに見ていた気がするから、客観的におかしかったのかもしれない。
無印良品に行ってボールペンを一本買った。べつに筆記具を用立てる必要があったわけではない。ただ何か買わなければいけないと思っただけだ。店を出るとき品のいい老婆にぶつかりかけた。謝られたが、返事の言葉がなかなか出なかった。気まずそうに口を動かそうとするわたしを見て、老婆は何かを察したように去っていった。
13:47
ささやかな獲物である黒のボールペンを机の上に放る。
精神的な戦利品であり、恥の象徴でもある。
14:02
この共同生活を始めた時、何かが変わる気がしていた。
少なくとも姉たちはそういう期待を持っていたように思う。わたしが生家を離れて生活することで「まともになる」とか「社会性をつける」とかまあその種のことだ。
天性の外交能力を持った浅間ふうろはわたしの周囲が抱えるそんなニーズを察知し、この共同生活に対して資金を出すことをふたりの姉たちに同意させた。彼女からすれば家賃が少なからず浮くことになるし、わたしも実家に居たいわけではない。誰も損はなかった。外交かくあれかしという感じだ。
もっとも、その目論見がそこまで図に当たったわけでもない。まず。わたしの生活態度はそれほど変わらなかったので、姉たちはそれについて少なからずイライラしているようだ。とはいえわたしに実家に戻られるのも喜ばしくはなさそうではある。つまり総合的には現状維持を選んでいる。
ふうろにしても、彼女いわく「苦労知らず世間知らず」のわたしに不満があるのは明らかではある。とはいえこれも、姉たちの資金供給と、実はわたしに小銭を稼ぐ能力があったことで、だいぶ緩和されてはいる。それらを断って新居を探す気はなさそうで、つまり現状維持である。
とはいえ、彼女らはそれなりの成果をこの共同生活から得ている。
それで、わたしはというと、ご覧の通りなのだが。
14:23
少し寝る。
15:12
わたしがこの部屋に来て初めてしたことは、パソコンのセットアップだった。それから慣れ親しんだ椅子と机の設置。持ってきた使い慣れた寝具を敷くこと。カーテンを自前の分厚い遮光カーテンに取り替えること。そういった行為の延長線上として、わたしはかつて引きこもっていた自室、深海魚の水槽に例えるべきそれを、新居にそっくり再現してしまった。
要するにわたしのしたことは、端的に述べるなら「何かが変わるかもしれない」という期待を胸にしながら、実際には執念深くかつての生活習慣にしがみついたということになる。
なぜそんな矛盾が生じたのかは自分でもわからない。わたしは本当は変化なんか何ひとつ求めていなかったのかもしれない。
15:25
「ケイ、私はお前に強くなれと言っているわけじゃない」
姉はわたしにそう言った。
引っ越しがいよいよ本決まりになってきたころのことだ。不動産の契約を済ませたぐらいの時期、その時期になって、わたしはなにか躊躇するようなことを漏らしたんだと思う。契約が済んでからそんなことを言いだすわたしに、当然だが姉は怒った。
「強さなんか大して当てにならないからな」
彼女は神経質そうに指で机を叩いていた。
姉がわたしを叱るときに若干の、あるいはかなりの勇気を要することをわたしは知っている。彼女はわたしを溺愛している。それはほとんど病的、いや、的というより完全に何らかの病気だった。彼女はわたしに嫌われることをひどく恐れている。
「ただ適応しろと言っているだけだ。環境に、変化に、現実にだ。お前がそれを苦手なことは知っている。ものすごく苦手なことも。でもやれ。でないと。さもないと。頼むから、そうしてくれ」
最後の言葉は呪いのように胸に残った。
「適応できないものは、いつか追い込まれて滅ぶしかないんだから」
16:48
遅いなと思っていたら、ふうろはスーパーの袋をふたつ下げて帰ってきた。袋には味噌だとか粉末だしだとかがいろいろ入っていた。そういえば、自炊中心に切り替えるとか言っていた気がする。それでこのあいだ何を食べたいか聞いたのだろう。
「基本的に作るものはこちらで決めますからね。ケイちゃんに何を食べたいかいちいち訊いてると面倒なので。リクエストがあれば作るし」
「あ、じゃあそれで」
別に異論はない。もともと食にそれほど関心があるほうではない。この生活に移ってからは、通販で買ったカロリーブロックなんかを毎日食べ続けていた。困らない。というか、それに疑問を抱くことすらなかった。
「だからなんだけど」
「ふーん?」
「まあいいです。とにかく、わたしが献立決めちゃいますからね。エビチリとか思いつきで言われると、あれなんで」
ふうろはエビチリの件を蒸し返してくる。
「そんなに面倒だなんて知らなくて」
「手間っていうより、あれはケチャップと豆板醤と酢と片栗粉がいるんですよ。他にもだけど。それも、ちょっとづつ要るんですよ。言ってる意味おわかり? 出番の少ない調味料をそのために買って、ちょっと使って、その残りが冷蔵庫にストックされるの」
片栗粉は調味料ではないよな、と思ったが言わないでおく。ふうろは冷蔵庫を開けて、少しだけ減った豆板醤を指さした。あまり出番がないタイプの調味料は使い切りを考える必要があり、献立の候補に一定の制約をかけるという。そんなテトリスみたいな考えで食事を考えているとは驚きだった。
その日の夕食は、マーボー豆腐と、ゆでたブロッコリーとアボカド、それから、何かふにゃふにゃしたものが入った味噌汁だった。何だかわからない。クリーム色だ。その物質は多孔質で、ウレタンフォームに似ている。
「……麩を知らないんですか?」
ふうろは絶句したようにわたしを見た。
18:13
麩 - Wikipedia
麩(麸、ふ)は、グルテンを主な原料とした加工食品。グルテンは小麦粉を水で練ることで生成される。
概要
室町時代初期に明から渡来した禅僧によって製法が伝来したとされ、当時の精進料理において豆腐と共に不足しがちなタンパク質を補う食材であった。 原料を茹でて製品にした生麩(なまふ)、原料を焼成した焼き麩(やきふ)、中華料理などで使われる原料を油脂で揚げた揚げ麩(あげふ)、原料を煮た後に乾燥させた乾燥麩[3]があり、それぞれ食感が異な――
「ほらね」
ふうろがわたしの後ろで、勝ち誇ったように言う。彼女はわたしの後ろで体育座りをして、面白げにモニタをのぞき込んでいる。なんだか満足そうな表情だ。彼女はパステルグリーンのパーカーを着ていた。変な目玉のグラフィティがプリントされている。その恰好で体育座りをしているのが何かとてもかわいい。バイト先で染みついたのか何かポテトフライのような匂いもする。
麩を知らなかったので、調べようと思って部屋に戻って検索していたら、彼女がこっそり後ろをついてきていたのだ。グーグル検索に「ふ」と打ちこんだところで部屋に入ってきた。わたしの行動を読んでそうしたのかは分からないが、何か非常にきまりの悪い思いで。彼女に見られながらウィキペディアの記事を読むことになった。
読んでいるうちに思い出す。そういえば、これを何か遠い昔に食べたような記憶もある。あれは何かの法事だったか。私は見慣れぬ数珠で手遊びをしていた。黒いワンピースを着た姉が隣にいた。お膳に乗った料理にこんなものが入っていた気がする。
「勝った」
謎の勝利宣言をする浅間ふうろ。
18:23
「エビは元気かなー」
彼女は立ち上がり、エビの水槽をのぞき込む。
「あ、なんか卵の色が変わってる」
「透明になると孵化するよ」
「ふーん。じゃあもうすぐなんだ」
そんなはずはない。とわたしは思う。
卵の孵化までには積算温度で600度弱ほど必要なはずだ。つまり水温が平均25度としたら、24日かそれより少し短いぐらいの時間が孵化までかかる。
積算温度は農業などで使われる指標で、日ごとの気温の累積を意味する。たとえば平均気温30度で二日経過したら積算温度は60だ。温度が高いほど化学反応の速度は早まるので、植物や単純な変温動物の代謝は気温に依存する。言ってしまえば、彼らの時間は温度が高いほど早くなるのだ。もっとも、これは600度であれば一日で孵化するということではない。
とにかく。もっとずっと時間がかかる。
はずだった。
8:30
おかしい。
8:31
異常事態だ。
8:32
卵が孵化している。あり得ないことだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます