第9話 偶像のドリーミング  


 なんだかここのところ、毎日エルのエレキギターの音で目覚めている気がする。

 しかもその音は、日に日に練度を増していく。

 喜ばしいことだ。

 それにボクに向かってその上達っぷりを楽しそうに披露してくれるエルを見ていると、心が安らぐ。理想の女の人が実はボクたちと同じ人間だったという真実や、初恋の女の子が風俗で働いている現実で簡単に壊れそうになってしまうボクの心を癒してくれる。

 だから今日もボクはエルにギターを教えたり、その演奏に合わせて歌ったり、昔好きだった曲を一緒に聴いたりして、しあわせなひとときを過ごす。

 しかし。

「いぎだぐだい……」

 今日はメイドカフェへの出勤日だった。

 ボクは今すぐ布団にくるまって引き篭りたいのを我慢して、一歩踏み出す。

 因果関係は謎だが、これもエルのためと思えば、頑張れる。

 そう、ボクの全てはエルのために!

 そう叫んで、ガラガラの声を上げる。

「いっでぎまず……!」

 地の底から絞り出したみたいな声。我ながらひどい。

 ボクはそんな汚い音声をぴゅあぴゅあなエルに聞かせてしまった罪の意識に襲われてしまう。

 だが――、

「いっえあ~!(ふりふり)」

 返ってきた! 返事! エルから! 手まで、振って!!

「ああ、ああ、ああ!! あああっ!」

 全身が圧倒的なエル由来の超自然的多幸感に包まれていくのを感じる。

 エルはとうとういってらっしゃいを覚えてくれたらしい。

 その成長にボクは感涙し、わけのわからないテンションで叫んだ。

「いってぎまず!!!!!!!!」

 ノリノリで元気に、嬉し涙を拭きながら家を出る。

 ガチャ。

 すると家の前でご近所さんが「ヤバイ場面に遭遇してしまった」みたいな顔でこっちを見ていた。

 …………。

 ボクは、冷や汗をだらだらと流しながらも、何食わぬ女声で「こんにちは~」とかわいらしく言って、超早足で駅へと向かった。





「え、嘘でしょ……」

 ボクはバイト先(メイドカフェ)につくなり、店長から急にわけわかんないことを言われ、絶望していた。

「いやー、頼むよー。今日出勤の子がさー、まだ来てなくてさー。携帯も通じないんだよね」

「や、ボク、そういうの無理なんで」

「あっはっはっはっ、ゆんちゃんてば店長に対しても塩とか、キャラ徹底してるね!」

「は? 別にそういうんじゃないんですけど……」

「じゃ、頼んだよ! ゆんちゃん! もう他のみんなには言っておいたから!」

「え、ま、まって……」

 ボクの懇願も虚しく、店長はホールを去っていく。

 バイト開始前から、軽く欝になった。



「おえっ……」

 ボクはクソ店長から任された最悪の仕事――店内ライブ(このお店は人気メイドを店内の小さなステージに立たせてアイドルみたいなことをさせることが定期的にある)を終え、その後のチェキ撮影を終えて、色々なストレスで吐きそうになっていた。

 するといつも通り、タイミングよくひなりちゃんからボドゲの注文が入ったので、これ幸いと、彼女の座るテーブルに対面で座った。

「ゆん~!!! さっきチェキ撮ったときも言ったけどめっちゃよかった~!!!」

 ひなりちゃんは今日も人あたりのいい笑顔で髪色も明るくておしゃれでかわいくておっぱいが大きくて声もいじらしい。

 なのに。

「……千人規模で集客してるひなりちゃんの方が絶対すごいって。うぷっ……」

 だめだ、受けたダメージが大きすぎてひなりちゃん成分を摂取しても全然立ち直れない。

「どしたの、ゆん? 体調悪いの? 大丈夫? 飴舐める? 人工呼吸する?」

「人前で歌うと、なんか色々思い出して、しんどい……」

「でも、昔ボーカルやってたんでしょ? バンドの?」

「むしろ、それが原因というか……。だいたいその時は踊ったりしないし……。だからダンスとか超下手だし……。しかも今日は補欠だからひなりちゃん以外誰もボクのことなんか見てなくて、ひぐっ、うえっ……、ボクってやっぱり社会から必要とされてない人間なんだって思ってぇ、おえっ……ぜえ、ぜえ……」

「ゆ、ゆん……」

「それどころか、一応女声で歌ったとはいえ誰もボクが男って気付かないとか、本当にボクの歌なんて誰も聞いてないんだなって思って、ううっ……おえええええっ……」

 ライブの一シーン一シーンを一々思い出して、胸の奥が痛くなってくる。

 そんな弱ったところに、

「私は気付いてたよ!」

 大聖母ひなりちゃんのやさしいミルフィーユみたいな声がして、ボクは思わずむせび泣いた。

「ひなりちゃあああああああん……! ぐすっ!」

「ゆん!」

 ひなりちゃんはそう言って、よしよしとボクの頭を撫でてくれる。

「ありがてょう……うぐっ……」

 彼女のやさしさに自分の生を肯定されて、なんとか自我を保てる。

 ボクはそのまま、延々と愚痴を垂れ流す機械と化した。



 そうしてしばらくしてボクの精神的容態がある程度安定したところで、ひなりちゃんが例の話を振ってくる。

「そういえば、結局風俗ってどうだったん? あ、あとエロゲもてきた」

 彼女はボクがメッセを無視したことについて怒るでもなく、そう切り出してきた。

「え、えーと、なんというか……」

「ねえねえ? どうなのよどうなのよ~? 脱童貞出来たの? 気持ちよかった?」

 なんでそんなにわくわくした顔でそんなきわどいことを尋ねられるのだろう。

「あー、まあ、本番できないところだったから、童貞のままではあるね」

「え、てか、マジで童貞だったの!? きゃははー、童貞が許されるのは中学生ま……」

「ひなりちゃんに裏切られた……。誘導尋問とか、病む……」

 信じてた人に裏切られるのが一番辛い。そんなことされたら人間は簡単に病む。

 ボクがなかなかに本気で落ち込んでいると、ひなりちゃんはけっこう軽い感じで顔の前に手を合わせながらこう言った。

「ごめんごめんてー、むしろ将来の旦那が私以外の女を知らないんだから嬉しいし! 別に気にすることじゃないぞい?」

「でも、ひなりちゃん、絶対いつも内心で自分のオタクのことこいつ童貞だなって馬鹿にしてるじゃん」

 精神のほつれが卑屈モードを呼び起こし、思わず反論してしまった。

「……それはー、する時もあるけどー」

「ほらー」

 聞いてるかー? オタクー? 絶望しろー?

 とはいえ、ひなりちゃんは別に誰が聞いているでもないのに心底ファンのことを愛している聖人でもあるので、ちゃんとフォローする。

「まあ、童貞は必ずしも悪いこととは限らないし、なんか普通に彼女いるのになぜか私のこと好きとか言ってくるクソリア充もいるし、そもそもゆんのことはそう思ってないからこそ敢えてさっきああ言ったわけでだな……」

「え、ボクって非童貞に見えるの?」

 こんななよなよした男、誰も寄ってこないけど。

「うーん、正確に言うと、ぶっちゃけ非処女に見える」

「……病みそう」

 泣いた。

 女の子みたいと言われたことは昔からいくらでもあるけど、そんなことを言われたのは生まれて初めてだったので耐性がなく、一発でメンタルブレイクした。

「えー、なんでー。それだけかわいいってことだってー。だって処女はふつー髪の毛ピンクに染めないもーん! 私絶対そこまで思い切れないもん!」

 茶色なのはいいの? 基準がよくわらないけど……。

「なにそれ、つまりひなりちゃんは処女だってこと? あはは~冗談でしょ?」

 だってこれは確実に中高大と彼氏持ちの顔だもの、間違いない。

「マジなんだなこれが。これがアラサー女性声優のリアル」

「え?」

「なんなら今度ゆんにだけ特別で膜見せてあげようか? 私の声が処女膜から出てること証明してあげるよ~?」

「あの、急にオタク並に気持ち悪いこというのやめて」

「だって私オタクですしおすし?」

「いや、その前に声優じゃん」

「ふふ~、それが最近のトレンドはオタク声優なんだな~。自分の出てるソシャゲのキャラ愛を延々と語ったり、ガチャアホみたに回したり――って、なんだよ、あれ! 高給自慢か?! クソッ!」

 こわっ。なんかいま一瞬だけモノホンの怖い顔してた、ひなりちゃん……。

「ひ、ひなりちゃん、闇が出ちゃってるよ、闇が……。けっこう濃い目の……」

「あ、ごめん。さすがにこのレベルはまずいわ。っべー。誰かにツイッターで晒されて業界干されるところだったわー。わらw」

 いくら冗談とはいえ、その発言もどうかと思うけど……。まあ。基本的にこのお店の中で話す分には大丈夫か……。声豚さんはいないみたいだし……。

 と、なぜかボクが彼女のリスクヘッジを考えていると、男子中学生みたいなノリでひなりちゃんがこちら側へその愛され系の顔を近付けてきた。

「てかそうだそうだ、風俗の話だった。ね、どんな子来たの? ふふっ、お姉さんに全部打ち明けちゃいなさい?」

 役者なだけあって後半部分だけやたら本格的にセクシーな口調でちょっと引く。

 しかも、ただでさえ人に言いづらいセンシティブでセクシャルな内容なのに、こんなふざけたノリでしゃべってしまっていいのかな……。

 悩む。杏ちゃんの名誉のためにも。

 ……でもまあ、他に言える人もいないし、言ってしまうか。なんというか、あの日のことを一人で抱えて生きていけるほど、ボクは強い人間ではない。

「うーん、正直に言うとさー、昔の同級生が来ちゃったんだよねー……」

「え!? マ!? は!? うっそぉ!? それなんてエロゲ!?」

「ほんとなんだけど……」

 ひなりちゃんは一々リアクションがオーバー過ぎる。

 さらにぐぐっと身を乗り出してきた。うわっ、机におっぱい乗ってる。

「じゃあ、それで、どうしたわけ?」

「普通に抜いてもらっちゃった」

「うっわ、ゆんてばほんと顔に似合わず鬼畜過ぎて草」

「なんというか、相手が気付いてないっぽかったから、言い出せなくて……」

「あ! え? もしかして、そのカッコで?」

「まあ。メイド服ではないけどね?」

「そりゃそうだ! にしても特殊プレイだけど」

「うー、そうなるのかなー?」

 ボク的には、かわいいメイクや格好をするのは最大限おしゃれしたくらいの感覚なんだけど。まあ、あの日の顔面工事が完了していた理由は、単に病んでたからなんですが……。

「なるでしょ! てか、どんなキモイおっさん出てくんのかなと思ってたらゆんだったって、その風俗嬢の子、びっくりしなかったわけ?」

「特には」

 強いて言えばおちんちんびろ~んした時に、ガン見してたくらいだよね。

「肝すわってんな」

「元々、感情の起伏が薄い子だからかもね」

「なになに~、そこまで言うってことは、結構仲良い女の子だった感じ?」

「これ、かなり病みポイントなんだけど、だいじょぶ?」

 そこまで話すとなると、長くなる。あと、暗くなる。そしてボクは病む。

「全然~。むしろここで焦らされる方がしんどイワシ」

「たぶん、これ話すことになったら、今日めっちゃボク愚痴るよ?」

 何度も、念押して予防線を張る。そうでもしないと話せない話だし。

 なのに、なぜかひなりちゃんはノリ気。

「望むところだ! さあ来い! 未来の婚約者!」

「ひなりちゃんは、ほんと、陽キャ過ぎるよ……」

 というわけで、ボクは全てを洗いざらい話すことにした。

 話したのは――、

 杏ちゃんがボクの初恋の相手だったこと。でも、中学の時は一言も喋ったことがなくて、たまたま一緒になれた高校で彼女に運命を感じて、接点を作るためにギターを始めたこと。歌声を褒めてもらえたこと。同じ大学に進学して、ドラム担当は変わっちゃったけど同じバンドを続けられたこと。二年の時、ライブを見に来ようとしてくれたボクのママが交通事故に遭って亡くなってしまったこと。それ以来ボクは大学もバンドもやめて、彼女との友好を一方的に絶っていたこと。そして、こないだの夜のこと……。



「……あはは、まったくさ、歌いたくなったら指名してだなんて、笑っちゃうよね……」

 全部を言い終えると、少しすっきりした。

 ボクの大して面白くもないどころか不快かもしれない話を、ひなりちゃんはやさしい顔で聞いてくれた。

「そうね。さすがゆんの初恋の子……」

 そして、ボクがもう全てを話し終えたということを確認して、彼女は珍しく真面目な顔で口を開く。

「……あと、これは、私の話だけど。」

 さっと、空気が変わる。

 彼女のたった一言で空間が刹那に塗り替えられたのを、肌で感じた。

「なにかやりたいことがあるのなら、やってみたほうがいいと思うよ」

「やりたいこと?」

 少し唐突な感じのするワードに、つっかえる。

「ゆんは自分ではわかってないのかもしれないけど、私は聞いててそう感じたから。なにか大きなことを隠しているような感じがね」

「それは……」

 エルのことは、確かに言わなかったけど……

「もしかしたら、全然見当違いのことを言っているかもしれない。でも、言わせて欲しいな。だから、気に食わなかったら、ただのアラサーの戯れ言だと思って、聞き流して?」

 アドバイスなはずなのに、諭すでも勧めるでもない、深くて心地のいいニュアンスの声音。それはきっと、彼女にしか出せないやわらかさだと感じた。

「私はさー、ゆんくらいの年までずうっと、なあなあだったよ。普通に大学行って、なんかよくわかんない全然無名の地下ドルやって、ここでバイトして。どこでもそこそこちやほやされて……。それで、毎日楽しいって思ってた」

 ひなりちゃんは遅咲きの声優だ。だから、在学中は一切声優業はしていなかった。

「でも、そこでいざ就活ってなった時にさ、急になあなあが嫌になったの。本気でなにかをしたいと思ったの。だから、アイドルは無理だったけど、養成所入って、本当に何年も辛い思いをして、声優になったよ。そんで今もなんとか、食べていけてる。幸せだと、思う。きっと、やらなかったら後悔してた」

 もしかしたら、アイドルとして有名になることも、彼女の夢だったのかもしれない。けれどそれが叶わずとも、彼女は声優という夢を見れるだけの、強い心を持っていた。

 やっぱり、彼女はボクの憧れの人だなと強く思う。

 でも、ボクはもう、彼女が普通の人間でもあったことを知ってしまっていた。

 そんな彼女が、言う。

「だからゆんもやりたいことがあるなら、私はして欲しいと思う」

「ボクは……」

「もちろん、無理にとは言わないよ? 私は別に、例えばゆんが私をコネキャスティングしてくれるねんごろ音響監督になろうが親の遺産と保険金で暮らすニートのままだろうがどっちでもいいし、変わらずに好きだもん。ただ、私はゆんに幸せになって欲しいってだけ」

 彼女は、ボクの手をぎゅっと握った。

「それに、実力があっても、成功するとは限らない。努力した人より、ズルした人の方が上にいけるかもしれない。だから、無理強いなんて出来るわけない。私だって、実力がなかったわけじゃないと思いたいけど、結局は運が良かっただけだしね……」

 あははと力なく笑う。この笑いには、どれだけの想いが詰まっているのか。

「でも、それでも、ゆんが本当にやりたいことがあるなら。私は応援したい。ゆんにもっと、輝いて欲しいの。私、ゆんの、オタクだから」

「ひなりちゃん……」

 もしかしたら、彼女は。

 ボクよりもボクのことを知っているのかもしれない。ふと、そんなことを思った。

「それにさ、今なら失敗しても安心だよ? もれなく私が養ってあげるんだから」

 ひなりちゃんはボクの手をすべすべの手で握り込み、ボクの目をしっかりと両の瞳で捉えると、天使の様な声と共に微笑んだ。

 脳が蕩ける。不覚にも、そんなことを思う。

 だから、ボクは思わず、これまでずっと冗談で躱し続けてきた彼女のそんな言葉を、本気で鵜呑みにしてしまいそうになった。

「ボクの将来は安泰だね……」

 やっとこさ出てきた言葉が、そんなよくわからないものだったくらいだ。

 だというのに。

「まあ、声優業は水商売な上に日雇いみたなもんだから、ゆんとの熱愛をリークされたら干されるかもしれないし、ローンも組めないけど♡」

 彼女はさっきとは打って変わって小悪魔の様にそう言って笑った。

「ぜ、全然安泰じゃない……!?」

 ボクは憧れの人が日々奮闘している業界の世知辛さに思いを馳せ、また軽くメンタルをやられそうになった――。

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