第3話 初めての後宮
美しく拭かれた渡り廊下を踏みしめながら、翠花は輝く道をゆっくりと歩く。女官たちに付き従って。着慣れない服に身を包み、慣れない足取りで歩みながら、翠花はふと視線を動かした。脇を見ると、中庭には桜の花びらが舞っていた。翠花は思わず足を止めた。
向こう側の渡り廊下までの世界を埋めるように淡い色の花が咲き乱れている。その桜の木々の足元には、様々な形の石が並べられて荘厳な庭園を形作っていた。まるで天下の大地を模するように。
その最も大きな石の上には小さな猫が横たわり、日向ぼっこをしていた。空を覆う桜の間から春の日差しが差し込み、慈しむみたいにその子猫を照らしていた。
「……綺麗だわ」
「どうかなさいましたか? 翠花さま?」
無意識に言葉を漏らした翠花に、女官の一人が足を止めて振り返った。その後、残りの三人も足を止める。
「申し訳ございません。後宮の中に入ったことなって初めてですので、何もかもが見目新しくて。中庭の桜の美しさに魅入られてしまいました」
素直に翠花がそう告白すると、最も年長であろう背の高い女官が柔らかい微笑みを浮かべた。
「ええ、私も初めて後宮に上がった時には、驚いたものでございます」
「まぁ、町娘にとっては、一生に一度のことでしょうから、しっかりその目に記憶されたらよいのではないかしら?」
その脇で、中肉中背の女官が黄色い袖を口元に当てながら言う。中心に立つ女官は少し困ったような表情を浮かべた。
四人の女官の服装はいずれにきちんとしたものであったが、翠花は後宮を歩く中で、この後宮で働く女官たちの服装が差し色により区別されていることに気がついた。目に入るのは、この四名がそれぞれにつけている緑、赤、基、青である。
優しく相手をしてくれている女官の色が緑色で、先程、意地悪を言った女官の色が黄色である。きっと四人の女官たちはそれぞれ別の妃に仕えているのだろう。
自分が嫌味を言われながらも、翠花はそんな後宮の人間模様に胸が踊っていた。きっと街の中の人間関係とはまた違うどこか色濃いものがあるのだろうなぁ、と思いながら。人間観察は、酒場で育ち、師匠に心の理について鍛えらた彼女の、大好物なのである。
気を使ったのか、緑の服の女官が数歩他の三人よりも遅れ、翠花の隣を歩きだしてくれた。
「大丈夫? 慣れない場所で気が疲れるでしょう? いろいろ言う者もいるかと思いますけれど、あまり気にしないでね」
この人は本当にいい人なんだな、と翠花は心の中で思う。
それが緑の差し色、――翡翠の色というのはなんとなく嬉しかった。翡翠は翠花の名前にもある宝石だから。この国で、翡翠は最も尊敬され、愛される宝石の一つ。美しく優雅な女性の象徴でもある。さすがに翠花は自分が「美しくて優雅」だとは思わないけれど、この女官にはきっと合っている。
「お気になさらないでください。きっと後宮に街の娘が上がってくることを面白く思わない女官も多いでしょうから」
「あら、翠花さまは、見目によらず、大人びていらっしゃるのね」
「実のところ、そこそこは年は食っておりますので」
そう言って、翠花は着せられた着物の袖口を掴んで、腕を広げた。
どうにも着慣れない服は困る。何よりもきっと銀貨一枚以上の価値があるであろう服を着て歩くなど、もったいなすぎて、変に緊張する。足を引っ掛けてこけることすら許されないではないか。
緑の女官はそれを冗談だと思ったのか、袖を口元に当てて上品に笑った。
「街からあなたみたいな可愛らしい女の子が呼ばれるとね、どうしても
「――はぁ」
「女官も今はそれぞれの皇妃に遣える身ではありますけれど、いつかは皇帝陛下のお手つきになって、妃に上がりたいと野心を抱くものも少なくありませんからね。――いいえ、そういう思いを抱く方が、後宮では健全という考え方さえあるかしら?」
「――えっと、……女官さま? は、そうではないのですか?」
「そうねぇ。私は特にそのような思いは持っておりませんわ。いまのご主人さまにお仕えする生活に満足しておりますし。もちろん、いつか殿方に身請けされたいという気持ちはありますけれど。――あ、私は
「よろしくお願いします。私は翠花。しがない酒場の娘です」
「知っておりますわ。翠花さま」
そう言って静雅は艶やかに笑んだ。
翠花は、こんな女性こそ皇帝陛下のお手つきがあってもいいのになぁ、となんとなく思いつつ、頭のなかで静雅の後宮成功譚を妄想するのだった。
「もちろん、私どもは翠花さまがそういう理由で後宮に呼ばれたのではないと知ってはおりますが、――まぁ、中にはそれでも邪推するものもいますから」
そう言って静雅は先行する黄色の女官にチラリと視線を送った。
「さあ、参りましょう。あの方もきっとお待ちですわ」
気を取り直して、広い後宮を歩き出す。いくつもの部屋を脇に見て、翠花は後宮の奥へと歩みを進めた。
途中、小窓や襖の間から妃や女官たちの部屋の様子が見えた。都の街路の砂埃とは違う随分と濃密なお香の香りがしたし、街の酒場には家宝のように飾られているような調度類が無造作に並べられているのが見えた。
一体、それらを全部売り払ったらどのくらいになるのだろう? と頭で計算を始めてみて、翠花は途中で馬鹿らしくなってやめた。どちらにせよ自分のものにはならないのだから。きっとお爺の酒代と博打代が一生分賄えるのだろうけれど。
「さあ、つきましたわ。こちらでございます」
代表して静雅が扉を何度か叩いた。
「翠花さまをお連れいたしました」
「よい。入れ」
静かだけれどよく通る声で彼女が唱えると、部屋の中から男の声がした。
その声は、翠花がどこかで聞いた声だった。
引き戸がゆっくりと開かれて、翠花の視界が広がる。
后や女官たちの部屋にあったものとは雰囲気の違うどこか機能的な調度品の数々。
光を取り込む窓からは、春の日差しが部屋の中を満たしていた。
その中央奥に、広い執務机があり、その向こう側で男が立ち上がった。
長い髪は、頭の上で丁寧に結わえられ、まとう衣装は一目でこの人間が、紫銀国の貴人なのだとわかる上質なものであった。
「――久しぶりだな、
それはあの日、酒屋で翠花が一期一会の説教を垂れた、色白長髪の美男子であった。完全に紫銀国の貴人の姿をした、星澪がそこにいた。
翠花は先日、自分がしてしまったお説教を思い出し、「やってしまった」と改めて思うのだった。
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