第2話 心の理を説く
「お客さんからああ言われて、誰も動かなかったのには、理由があるんですよ?」
「――理由だと? それはここの客たちが、あの盗人と仲間だったとかそういうことか?」
「ちょっと失礼ですね。さすがにうちの常連客の皆さんを悪し様に言うと、私も怒りますよ?」
「それはすまない」
本当に失言を詫びるように、男は頭を小さく前に出した。
横柄なのか、素直なのか、掴みどころがない人間である。
そんな変な美男に、なんだか
ちょっと楽しくなってきたので、久しぶりに一つ講釈でもたれてみようかという気になってきた。最近、こういう話をする機会も無かった気がするから。
問題の盗難物はきっと
翠花は居住まいを正すと、お盆を机の上に置き直すと、男に向かい合った。
「ではお客さんに一つ、お話しをいたしましょう」
「お話? ――何かな?」
「人の心のお話でございます」
「人の心?」
「ええ。そうです。――と、その前に、こんなお話をするわけですから、お客さんのお名前を先に伺ってもよろしいでしょうか?」
翠花がそう尋ねると、男は一瞬戸惑ったように左右に視線を動かした。それから両目を閉じると、息を一つ吸った。
「――
「
「ああ、よろしく頼む」
初めは傲慢かなと思ったけれど、ただ傲慢というわけでもないのかもしれない。話してみるとどうにも、純粋というか、生真面目な印象を受ける。とんでもない世間知らずという意味で「清らかな水」というのは意外とぴったりの名前なのかもしれない。
ちなみに自分の
「では星澪さま、あらためまして。お話を始めますね。なぜあのとき、他のお客や店のものがあの男を追わなかったのか」
「ああ、頼む」
翠花は人差し指を立てて口を開いた。
「人の『心』には『理』があります。身体が動かないことにはその原因たる『心』に『理』があり、身体が動くことにもその原因たる『心』に『理』があるのです」
「――『心』の『理』か、……なんだそれは? 今ひとつわからん」
星澪はそう言って眉を寄せた。
翠花は首をかしげる男の顔を見ながら、同じように理解に苦しんだ幼かったころの自分のことを思い出した。そして今の自分と同じように人差し指を立てて同じ言葉で心の理を説いていた師匠のことを思い出した。
「ご存知のようにこの世界には『天』の『理』があります。それはご存知ですね」
「もちろんだ。風が吹くのも、物が落ちるのも、『天』の『理』によるものだ。そして王朝が――皇帝がこの国を支配するのも
それはこの紫銀国の民ならば誰もが答えるであろう、標準的な答えだった。
「おっしゃるとおりです。世の中の仕組みとか、そう動く理由とか、そういうものの根幹にあるのが『理』でございます。――では、星澪さま。理があるのは果たして天だけでございましょうか?」
「――何が言いたい?」
翠花は口元に笑みを浮かべると、人差し指を唇の前に立てた。
淡い朱に染まった唇から、とっておきの秘密を零すように。
「人の『心』にも『理』はあるのでございます。天の理と同じように。人の心の動きにはいつも理由があるのです。ですから、あなたが『どうしてあのとき店の中の客や店員は動かなかったのだろう?』と考えられるならば、その理を問うべきなのです」
「――それが『心』の『理』だと言うのか、お前は?」
「ええ、そうでございます」
いつか自分も同じように、師匠に尋ねたものだ。
人の心なんて移ろいやすいものじゃないか? 人の心なんて覗けやしないものじゃないか? だからそこに「理」なんてあるのだろうか? と。
そうすると師匠はこう言った。
『じゃあ、お前は、天の心は絶対に変わらないと思うのかい? 天の心をお前は覗けるというのかい?』
そう言われてしまうと、なんとも返せなかった。天の意思なんて誰もしらない。それでも私たちは天の理を信じて、それを通してこの世界を見るし、作り出すのだ。いろいろな薬を、道具を、商売を、
「そして心の理を考えることで、なぜ皆があの盗人を追わなかったのかがわかると?」
「はい。その理由は簡単でございます。――教えてさしあげましょうか?」
にこやかな笑顔を作った翠花に、星澪は仰々しく頷いた。
「ああ、――頼む」
酒場の娘は、一つ息を吸う。そして一瞬止めた後に、とびっきり悪戯っぽい笑顔で、言葉を吐き出した。
「『やる気が起きなかった』からでございます」
「――は?」
目を丸く開くのは、長い髪を頭の上で結わった青年。
「ですから『やる気が起きなかった』のでございます。簡単でございましょう?」
「いや、お前、それは分からなくもないが、しかし窃盗が起きているのだぞ! 盗人は捕まえねばなるまい?」
「ええ。それでも『やる気が起きなかった』ら誰でも動きはいたしません。なにせ、ここにいるお客様は皆、県尉でも何でもございません。ただの一般のお客様でございます。星澪さまのために『やる気が起きなかった』らなにも盗人を追いかける必要はないのでございます」
「――私のため?」
「そうでございます。どこの誰かもしらないけれど、見るからにお金を持っていそうで、それでいて自分たちに『おいそこの女! いや、誰でもいい、その男を捕まえろ!』などと命令口調で言い出すお方。――だれがそんな方のために働こうとしましょうか?」
「しかし……」
星澪は言葉をつまらせる。
翠花は少し言い過ぎたかなと思いながら、でもまあ良いか、とも思う。
きっと星澪は、どこかの貴人が身分を隠して街に出てきているとか、そういう存在なのだ。身分を隠している以上、ここでの出来事を問題にもできないだろう。そうであればちょっとお説教をしても問題になることはあるまい。
さらにそんな貴人に師匠から教えられた「心」の「理」の考え方を伝えるのは悪くない。彼の役に立つこともあるかもしれないし、もしかするといつか世の中の役に立つかもしれない。
師匠が言っていた「天の理は、人の理の上に、存在する」という言葉が脳裏をかすめた。
「では、翠花――お前は、私がどうすべきだったと思う?」
星澪は深くため息をつくと、気怠げに頬杖を突いた。
彼女の言いたいことを彼なりに理解したのだろう。
そして自らの言葉がその場で持っていた意味を、今更ながらに理解したのだろう。
「それは――二つあります」
翠花は人差し指と中指を立てて見せた。
「一つ目、まず、自らの身なりをご認識なさって、盗難に遭わないように注意されること」
「なんだ? この身なりが問題なのか? ごく普通の服装のつもりなのだが」
翠花は二本指を額に押し当てた。
「その御髪も、綺麗に洗われたその服装も、星澪さまが、お金をお持ちな方だということを、発信しております。失礼ですが、普通の街の者は、そんなに綺麗な髪をしておりませんし、服装だってそんな新品の物を纏いません。ですから、そのような身なりで、しかもそんな大きなお肉を食べておられると、盗人に対しては『私はお金をたんまりもっているから、盗みたければ盗んでいいぞ』とアピールしているようなものなのです」
「――勝手だな。私はそんなアピールをしていないぞ?」
「勝手だろうがなんだろうが、星澪さまは無意識のうちにそういうお声を盗人たちにかけておいでだったのです。だから盗人はあなたの荷物を盗もうという気になった。これが一つ目の心の理でございます」
そう言うと翠花は中指を折りたたんで見せた。
「まだあるのか?」
「もう一つございます。これはもう先程申し上げたところですね。言葉遣いでございます。あくまでも星澪さまは、他のお客さまに盗人を捕まえることをお願いする立場。もっと切実に、乞うように、お願いされていれば、……あるいは」
「――彼らは盗人を捕まえてくれたのだろうか?」
「――さあ」
「『さあ』って、おい」
星澪は胡乱そうにまぶたを半分閉じた。
なんだか可笑しくなって、翠花は握りこぶしを口元に当てる。
「先ほども、申し上げましたように、人の心の中は覗けません。人の心に理はあれど、心の中が覗けない以上は、その結果は可能性でもってしか、語ることができないのです。――ですが、そちらの方が、より可能性があったのは事実だと思います」
「そうか。――わかった。――勉強になったよ。――ありがとう」
彼女は「どういたしまして」と首を傾げると、お盆を手に持って、席を立った。
男はもうどこか諦めたのか、左手で頬杖を突いたまま、街路の雑踏を眺めていた。
春の日差しが、茶褐色の道を、明るく染めている。この道を真っ直ぐいけば、王宮に向かう門まで届く。その向こう側は、翠花たちにとっては、一生足を踏み入れることもないだろう、別世界だ。
この星澪がその王宮の中に出入りする人間なのかどうかはわからない。それでもこの男がその名に恥じぬ人間であるような気はしていた。普通ならこんな感じで諭されたら、嫌がったり、怒り出したりするものだ。とはいえ、もし彼が王宮の中の人間なのだとしたら、もう会うことも無いのだろうけれど。
翠花がお盆を片手に、水が空になってしまった陶器を載せて、その食卓を立ち去ろうと背中を向けた時、背中から声を掛けられた。
「なぁ、翠花よ。もし心の理を考えるならば、今からでも、あの荷物を取り戻す方法はあるのか?」
振り返ると星澪が物憂げな表情で、翠花を見上げていた。
その瞳はどこか真剣で、本当に悩んでいるようでもあった。
だから翠花は、そんな彼に、とっておきの笑顔を浮かべると、とても建設的な提案をしたのだ。彼にとっても、自分にとっても。
「簡単でございます。――あの盗人が奪った荷物に報奨金をかければよいのでございます。特にこの酒場の皆さんは目撃者でございます。この場で宣言をされるのはいかがでございましょう? とても効果的かと思いますわ」
翠花は本日一番の笑顔をにっこりと浮かべた。
*
それから酒場の客の注目を集めてから、星澪ははっきりと報奨金を宣言してみせた。翠花の声がけで、常連客を中心にみんなが星澪の話に耳を傾けた。
驚くべきことに報奨金はなんと銀貨一枚である。現在の紫銀国において銀貨一枚の価値は、米や小麦などの穀物を一ヶ月分購入することができる金額であり、普通の家の一ヶ月分の家賃を支払うことができる金額である。
実際に腰袋から銀貨を一枚取り出して星澪が依頼内容を口にすると店内は歓声に包まれた。中にはすぐに店を飛び出すものもいた。
「――大丈夫だろうか? 翠花?」
「大丈夫ですよ。星澪さま。きっとお荷物は戻って参ります」
やがて星澪は注文したご飯を一通り食べ終わると、料金を支払って店を後にした。
帰り際に星澪は翠花に「荷物が見つかったらここに届けてくれ」と紙切れを渡していった。その紙片に目を落とすと、そこに書かれた住所はやはり王宮のものであった。
春の陽光の中、翠花は彼の背中を見送っている。
そんな彼女の背後から、気さくな雰囲気の声がした。
「銀貨一枚とは、ずいぶんと気前のいいことだなぁ、あの色男」
「――
振り返るとそこには翠花の幼馴染であり、父親代わりのお爺と一緒に暮らしている同居人でもある若い男が立っていた。
「おう! 少し前にはもう戻ってきていたんだけどな。――ほい、これ」
そう言うと、飛龍は右手に持っていた荷物を他の客には見えないように、翠花に渡した。それはまさにさっきの盗人が奪っていった星澪の手荷物だった。
「あら、流石ね、飛龍。――盗人には簡単に追いつけたの?」
「簡単じゃあなかったけどさ。この俺から逃げられる奴なんて都広しといえども、そうそういねぇよ」
「本当に心強いわ。――はい、これ、約束の報奨金」
そう言って、翠花は飛龍に店の帳場から銅貨を五十枚取り出して、手渡した。
今日みたいに店で盗人などが現れた時に、それを撃退したり、追いかけて盗品を奪い返すという任務が、日頃から飛龍には与えられていた。その任務の成功報酬が銅貨を五十枚なのである。ちなみに現在の紫銀国において、銀貨一枚は銅貨三百枚に相当する。
「俺からそれを銅貨五十枚で受け取って、翠花は銀貨一枚を手にするんだもんな。――翠花はしっかりしているよ」
「もう、失礼ね。別に私のお金になるわけじゃないんだから。お店のお金だし、私と飛龍とお
もっとも、その多くはおじいの酒と博打に消えてしまうかと思うと、ちょっと残念な気もするが。それでもこれまで育ててきてもらった恩というのは、あるのである。
「なあ、それ。もうすぐに届けるのか? 王宮なんだろ? あまり早いと変に疑われたりしないかなぁ?」
「うん、私もそう思う。こういう時って、すぐに届けたら『なんで?』ってなって、むしろ私たちが自作自演したのじゃないかなんて疑われちゃうからね。――飛龍もたまにはちゃんと考えるじゃない」
「『たまには』は余計だよ。いつも、ちゃんと考えているよ。――特に翠花のことは……」
「そう?」
飛龍はなにかを訴えるような目で幼馴染の少女のことを見ていたが、翠花はそんな視線には全く気付かないまま、飛龍が盗人から取り戻した荷物を店の物置へと仕舞った。
「ねぇ、飛龍。いったい、どのくらい待つのが正解だと思う?」
「うーん、一週間くらいかな?」
「同意。私もそう思う。じゃあ、そのくらいに王宮までお遣いをお願いできるかな?」
「結局、やっぱり、俺なのかよ。行くの」
「駄目? 難しかったら私が行くけれど」
翠花が上目遣いに飛龍を見上げると、幼馴染の少年は照れたように顔を赤くして「行くよ! 行くに決まっているだろ!」と両腕を組んで顔を横に向けた。翠花はそんな、幼馴染で弟代わりみたいな少年を「ありがとう」と一度抱きしめると、またお盆を持って、店内へと駆けていった。
その背中に視線を送りながら、飛龍は困ったように頭をかくのだった。
*
一週間後、飛龍は王宮に取り返した荷物を届けた。
本当に報奨金の銀一枚が支払われ、飛龍は意気揚々と酒場に戻ってきた。
その日は、さすがの翠花も、飛龍とお爺に少し豪華な夕食を振る舞った。
*
さらに一週間後。酒場に突然、王宮からの使者がやってきた。
使者が運んできた王宮からの命は翠花に後宮へ上がるようにと伝えるものだった。翠花は驚いて、飛龍とまじまじと、その顔を見合わせた。
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