第10話 モーニンググローリー・フィズ
自然豊かな東京郊外。大学の広大なキャンパスの片隅に、テーブルが店内外合わせて四つしかない、小さな小さなカフェがある。
メニューがシンプルで、スイーツのように甘いドリンクは扱っていないからか、あまり人が寄りつかない。食べ物はどうかというと、オープンサンドやシュークリームなど、片手で食べられるものがほとんどだ。
コーヒーはブラック無糖一択だけど、甘いものが好きな俺にとっては最高に居心地がいい。
テラス席の横には、高さが20メートルほどある大きなクスノキがあって、それに一番近い席が俺のお気に入りの場所だ。
一日の終わりにここへ来て、クスノキを見上げながらコーヒーを飲み、気分をリセットしてから帰るのが日課になっている。
サワサワと葉が擦れる音を聞きながら、一人でのんびりアイスコーヒーを飲んでいると、後ろから唐突に声をかけられた。
「ねえキミ、お酒強いんだって?」
大切な時間を邪魔されたのと偉そうな言い方にムカつきながら、首だけで声がした方を見ると、中性的な雰囲気を纏った男が一人立っていた。
「……だったら何」
機嫌の悪さを隠さずに答えると、男は一瞬怯みはしたものの、「邪魔してごめん」と謝って続けた。
「仕事の練習相手になってほしいんだ」
そう俺に言ったのは
全ての物事には限度ってものがある。少なすぎるのがダメなのはもちろんだが、多ければいいってものでもない。
「待て麻紘、ギブ」
俺はカウンター越しに手を伸ばし——実際にはぜんぜん届かないけど——、麻紘の動きを静止した。麻紘はちょうど、ミキシンググラスに新たな氷を入れようとしているところだった。
麻紘に大学で声をかけられた後に連れてこられたのは、隣県の港町にある小さなバーだった。
カウンターの向こう側には麻紘のほかに、五十代くらいの白いバーコートを着た男性が一人いるだけだった。グラスを磨きながら、一番奥の席にいる客とにこやかに話をしている。このバーのマスターなのだと、麻紘がそっと教えてくれた。
「これ以上飲んだら、自力で家に帰れなくなる」
「え、もう?」
手を止めた麻紘が、眉をやや八の字にしながら残念そうに言った。
「もう、って結構飲んでるぞ、俺」
ビールを何杯か飲みながら軽く腹に入れた後、麻紘が作ったカクテルを五杯。ロングカクテルで飲みやすいとはいえ、ベースになっているのはジンやウイスキーなのだから酔っ払うのは当たり前だ。
「いくら俺が酒に強いって言っても、底なしってわけじゃないからな」
ザルとか枠に例えられるような、いくら飲んでも変わらない人間もいるが、俺はそうじゃない。他より少し多く飲めるというだけで、自分なりの限界点はある。
「練習っていうから何かと思えば……」
麻紘の将来の夢は、フランスのカフェやイタリアのバルのような雰囲気の店を持つこと、ならしい。食事と酒を提供できる店を持ちたくて、今はこのバーでバイトしながら色々と勉強しているのだと、ここへ来る電車の中で言っていた。
ちなみに、今日ここで俺が飲み食いした分の支払いは、麻紘のバイト代から引いてもらうことになっているらしい。
出された料理は簡単なものではあったけど美味かったし、カクテルも俺が好みそうなものを選んだようで、満足感は結構高かった。
申し訳ないから俺が払うと言っても、麻紘はそれをやんわりと断った。そして、「そのかわりに今度は客として来て一、二杯飲んでくれればいい」と、艶やかな笑みを浮かべながら言った。
カウンターの中に立つ麻紘は、白のドレスシャツに黒ベスト、腰にはギャルソンエプロンを巻いていて、前髪を上げているせいか清潔感があった。大学にいる時のカジュアルな装いと違い、二十歳という実年齢よりも少し上の大人の男といった雰囲気で、とてもよく似合っている。
節の目立たない、長く綺麗な指がグラスに氷を入れ、ミネラルウォーターを注いでいく。仄暗い照明が長いまつ毛の影を作り、それがなんとも言えない色香を醸し出していた。
「綺麗……、だな」
無意識のうちに出た言葉だった。
顔を上げた麻紘と目が合い、その瞬間、俺は麻紘に見惚れていたのだと気がついた。
「また練習相手になってくれる?」
水が入ったグラスを差し出しながら、麻紘が遠慮気味に言った。
「ああ、そうだな」
酔いが回って理性を保つのが難しくなっているのか、麻紘に対して邪な気持ちが湧いてくる。
「今夜、お前のとこに泊めてくれたら、な」
麻紘は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに妖艶に微笑んで、俺の指先ににそっと触れた。
一瞬、痺れたような感覚が全身を走った。
「じゃあ、ここでこのまま待ってて、あと少しで上がる時間だから」
俺から離れた麻紘が、音を立てることなく静かに周囲を片付け始めた。時折客と親しげに言葉を交わす様子を見て、俺の中で何かが騒めいた。
麻紘が上がるまでの十数分。いつもならあっという間に過ぎている時間が、今の俺にはとてつもなく長く感じられた。
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