第一章 私家庭園『劉家花園』 其の三、②
第一章 私家庭園『劉家花園』
其の三、②
「滬涜で最初にできた百貨店は、一八四七年、イギリス人のホールが南京路で開業した小型百貨店です。外国人や申国人のお金持ちを相手にした高級路線だったんですが、その後は大衆路線に切り替わりました」
子驥は『三大公司』を横目に、百貨店の歴史を簡単に振り返った。
「『先施公司』の『先施』は世界初の百貨店と言われる、フランスはパリのボン・マルシェの経営理念を表した言葉——『シンシア』、『誠実』の意の訳で、建物は南京最初の鉄筋コンクリート建築、正面の上部には、『摩星塔』と呼ばれる時計台、頂きには大型ネオンが煌びやかに輝き、売り場の上の階には、レストランと旅館、屋上には娯楽場があって、申国の伝統的な舞台はもちろん、映画、ビリヤード、ゴルフ、射撃といった西洋の娯楽も楽しめるし、電話や暖房器具といった最新設備や、自動車やバスの送迎もあります」
先施は外国の商品を豊富に取り揃える一方、比較的、安い国産の品や自社工場で作った商品も用意し、お客の様々な要望に応えた。
今まで申国の商店は、食品なら食品、衣服なら衣服と、専門が分かれていたのだが、先施は、一堂に揃える事で色々な商品を見て回るという、買い物の楽しさを人々に提供した。
お客との値引き交渉は行わず、正札制にした事でいざこざも起こらず、領収書を発行し、信頼も得ていた。
「『永安公司』は商品の八割方が外国の銘柄品で、イギリスの毛織物、フランスの化粧品、アメリカの電化製品、スイスの時計と、なんでもござれ。何より、あの硝子張りの大型ショーウィンドーが道行く人の目を惹くんですよね」
屋上には天韻楼花園があり、場内の綺雲閣からは、滬涜の全景を見渡す事ができた。
「『永安公司』は、娯楽場や宿泊施設の機能を兼ね備えた総合施設として人気なんですよ。そろそろ、次の目的地、『大申公司』ですね」
『大申公司』は屋根の一部が半球形で、正面玄関の上部には女性像が飾られ、アール・デコ様式を取り入れた白亜の神殿のような外観だった。
「最後発の百貨店でしたっけ、『三大公司』に勝るとも劣らないって感じですね」
イワンは子驥とともに黄包車から降り、劇場のそれを思わせる正面玄関を通り、中に入った。
建物の大きさの割に出入り口は小さく、店内の床には方形石が敷き詰められ、吹き抜け構造の天井は鉄と硝子でできていた。
硝子の天井には巨大なシャンデリアがぶら下がり、きらきらと輝く陽射しも相まって、百貨店特有のものに溢れた広大な空間を、美しく豪華に演出していた。
百貨店の入り口付近には特売品が山と積まれ、人だかりができている。
見渡す限り、売り場、売り場、どの区画にも商品棚が所狭しと並び、万国博覧会のような活気に満ちていた。
大申は滬涜で初めて地下売り場を開設し、各階の移動には、階段と、最新式のオーチス社製のエスカレーター、エレベーターが設置され、開店以来、新しもの好きの人々が押しかけ、毎日、賑わいを見せていた。
「ここで待ち合わせしているんですけど、まだ来ていないみたいですね」
子驥は入ってすぐの大広間で、真っ赤な絨毯が敷かれた中央階段を見上げながら、誰かを待っていた。
「今度はどんな人と引き合わせてくれるんですか? 外国の高級品を買いに来た上流階級か、冷やかしに来た遊び人とか?」
イワンは楽しそうに言った。
「本人を見るまでのお楽しみですよ」
子驥はこれから誰がやって来るのか、勿体付けて言わなかった。
どこの売り場にも綺麗に着飾った女性従業員が配置され、衣料品売り場では一足早く、冬物の新作を売り出していた。
女性従業員達は棚に並べられた衣服を折り畳んだりお客の選んだ品をレジに持っていったりと、きびきびと働いていた。
「お待たせ、劉老板。仕事が押しちゃって、ちょっと待たせちゃったわね」
イワン達の前に姿を現したのは映画女優のように美しい洋装断髪の妙齢の女性だった。
「こちらこそ無理を言ってすみません。彼がスミノフ先生です」
子驥はイワンの事を紹介した。
「初めまして、イワン・スミノフです。よろしくお願いします」
イワンは思いがけず華やかな女性を前にして緊張した面持ちである。
「私は『大申公司』でデパートガールとして勤めている、何玉鳳よ。今日は午前勤務で終わりだから、この後はゆっくりお話しできるわ。大申のあらましと私の仕事についてお話すればいいのよね、二階の読書室に行きましょうか」
何玉鳳は颯爽とした足取りで階段に向かい、イワン達を二階の読書室に案内した。
「大申の経営者は申国人だけど後発の強みを活かして、百貨店のいいところは流行り廃りを問わず導入しているのよ。現金販売に、直接仕入れ、薄利多売方式、大売り出しの年間予定の立案に、販売方法や品揃えはもちろん、お客様の興味を刺激して購買意欲を高める売り場配置に、空間の演出方法なんかもね——入り口近くに値引きされた奉仕品が並んでいるのを見てもらえたかしら、人だかりができていたでしょう?」
何玉鳳はデパートガールらしく明るくハキハキとした調子で喋り、二階への階段を上りながら、イワン達がさっき通った、今も人混みで溢れ返っている、大安売りの区画を見やる。
「あれもうちの販売戦略の一つなのよ。活気は活気を呼んで、人の流れを作るから。人の流れができれば物も動くし、お金も動くっていう訳」
何玉鳳は得意げに言った。
「百貨店の店内って、人体の解剖図に似ていると思わない? 百貨店も、全身、隅々まで血液が行き渡るのと同じように、人、物、お金が流れるように考えられているのよね」
何玉鳳は自分自身、感心しているように言った。
「ここが読書室。好きなところに座っていいのよ」
何玉鳳に連れられて二階に来てみると、四方を柱廊によって囲まれた大広間に出た。
「すごいなあ」
イワンがふと見上げれば吹き抜けの天井は壁画で彩られ、視線を戻せば中央には緑のフランネルを敷いた大きなテーブルが備え付けられていた。
お客は思い思いの場所に座り、大人達は新聞を読み、雑誌を見て寛ぎ、テーブルの周りでは子ども達がはしゃいでいた。
「こんなところ、『三大公司』にもないんじゃないですか?」
イワンは初めて見る大申の読書室に圧倒され、目を見張った。
読書室には洒落た棚が並び、新聞や雑誌の最新号、バック・ナンバーが常備され、待ち合わせや休憩場所としても機能していた。
隣の衣料品売り場に並ぶ色とりどりの衣服は見ているだけでも楽しいし、香水売り場から花のような香りが漂ってきて、雰囲気も居心地もいい。
「言ったでしょう、流行り廃りを問わずいいところを導入しているって。読書室は『三大公司』の一つ、先施がその名の由来とした世界初のデパート、『ボン・マルシェ』にもあったそうよ。集客戦術の一つね」
何玉鳳は近くのテーブル席にイワン達を誘い、向かい合って座った。
「こんな豪華絢爛な職場で、売り場も考えられているとなると、お給料もいいんですか?」
イワンは製糸女工の趙青霞の時と同じように少し意地の悪い質問をしたが、今回は単純な好奇心からだった。
申国では店主の家族以外で女性が店頭に立つのは珍しい事であり、先施がデパートガールを初めて採用した事はイワンも知っていた。
滬涜のデパードガールは、小学校か中学校を卒業し、読み書き算盤ができる、どちらかと言えば、恵まれた家庭の出身者が多かった。
給料も女工よりは高く、月二十元はもらっているはずである。
「お給料は一般的なデパートガールとそんなに変わらないんじゃないかしら? でも、大申は従業員の労働環境や福利厚生について、他と比べて断然、いいと思うわ」
何玉鳳は製糸女工の趙と同じく、金銭に対してあまり執着していないらしい。
「例えば、どんなところでしょう?」
イワンがデパートガールについて知っている事と言えば、彼女達は商品の生きた広告である事、朝九時から夜二十時までの十一時間の長時間労働である事、しかも、休暇は週に半日程度だという事ぐらいである。
「勤務時間は八時間だし、他のところだと、たった五分遅刻しただけでも罰金が科されるらしいけど、そんな事もないし、そうそう、うちは社員食堂があって、三食、ここで食べる事ができるのよ。それも無料でね」
何玉鳳は食事に関して、特に嬉しそうだった。
「三食、ただ?」
イワンは驚いた。
「ええ。社員食堂があれば従業員の勤務交代も滞りなくできるし、栄養価も満足感も考えられた食事を出す事で健康管理もできる。経営者側は、食事が無料の分、お給料も抑えられるからって始めた事らしいけど、英断ね」
何玉鳳も趙青霞と同様、金銭に対してさほど執着がないらしく、何でもない事のように言った。
「もちろん、ここの経営者は店員一人一人の勤務態度や営業成績を評価して、ちゃんと給料に反映してくれるから、他のところよりら恵まれていると思うわ」
何玉鳳はイワンの表情の変化に気付いたのか、お金に関して言及した。
「ここに来る前に製糸女工の趙さんのところにお邪魔して来たんですが、何小姐も劉老板から紹介してもらって働いているんですか?」
何玉鳳は笑顔で頷いた。
さすがに〝楽園案内人〟の紹介したデパートだけあって、よそとは違うらしい。
「もう、『羽化登仙』する気はない?」
イワンは単刀直入に聞いた。
「私の父親は、役人だったの。でも、権力争いに巻き込まれ、無実の罪を着せられ、夫婦共々投獄されて、二人とも獄中死……私は、そんな醜い争いを繰り返す政治の世界に、ううん、この世に嫌気が差して、『羽化登仙』しようとしたんだけど……」
何玉鳳は言い難そうに、子驥の顔を見つめた。
「——〈仙骨幇〉が解散した?」
イワンは子驥も所属していたという、〝小神仙〟の組織の名前を口にした。
「だからって簡単に諦める事もできなくて、しばらく滬徳で燻っていたんだけど、滬徳案内人を始めた劉老板に再会して、この世にもきらきらと輝くような綺麗な世界があるって教えてもらったのよ」
何玉鳳は昔を懐かしむように言った。
「いくら環境がよくても、デパートガールならではの苦労もあるんじゃないですか?」
例え〝楽園案内人〟の紹介先でも趙青霞の製糸工場も給料はよくなかったし、デパートガールは女工より恵まれているだろうが何かしら不満な点はあるだろう。
「確かにやらなきゃいけない事はたくさんあるわ。どんな商品がどこにあるのか、値札のつけ方、レジの使い方も覚えなきゃいけないし、昔みたいな強引な売り方、お客様を騙すような事はしちゃいけないけど、売り上げは伸ばさなきゃいけない。お客様に不愉快な思いをさせない為にはどんなに疲れていても笑顔で対応しなきゃいけないし、言葉遣いにも気を付けて、見た目も清潔にして、色々、大変は大変ね」
何玉鳳は指折り仕事の内容を挙げ苦笑いだったが、深刻な風ではなかった。
むしろ、そういった事もやり甲斐のうちと捉えている節がある。
「デパートガールは商品の生きた広告なんて言われていますよね。店員の見た目が、客引き、売れ行きに影響するから、経営者からも言われるし、当人達も給料を上げてもらう為に、進んでお洒落にお金をかける、給料の大半を、化粧品や装飾品、理美容に注ぎ込む人もいるって聞いた事があります。でも、そんなに綺麗にしていたら、男女の問題なんかも出てくるんじゃないですか?」
イワンは知っていて聞いたのである。
デパートガールという職業は客寄せの為の生きた看板だとして『活招牌』と言われ、綺麗だが飾り物としてしか使えない『花瓶』などと揶揄されている事、男性の上司や同僚、お客から差別や侮辱を受け、その上、彼らから肉体関係を迫られ、弄ばれている事を。
男女の関係にある事を周囲に知られると、今度は同じ女性である同僚に嫉妬される事もあるという事を。
「そうね、うちにも真面目に働いている子に手を出す悪い男もいるし、逆に着飾るだけ着飾って、お金持ちのお客様から将来の夫を見つける為だけに職場に来て、ろくに仕事をしない人もいるわ」
何玉鳳は今度こそ、苦笑した。
「でも、誰かに濡れ衣を着せたり、汚い裏取り引きがあったり、人の命まで奪われる訳じゃないから、政治の権力争いに比べたら微笑ましいぐらいだわ。結局、『羽化登仙』できず師父まであんな事になった事を考えれば、神仙修行なんてあやふやで危険なものより、よほどやり甲斐があるってものよ。売り場の仕事をするには知識と知恵と技術が必要だし、このお店はきちんと評価をしてくれるから、貴方も劉老板に何かいい仕事を紹介してもらうといいわ——あら、もうこんな時間」
何玉鳳が腕時計を見ると、すでに夜が近くなっていた。
「小何、ありがとう。今度、大申で催し物があったら、またお客さんの事を案内するよ」
子驥はそろそろ頃合いだろうと、彼女にお礼を言って立ち上がった。
「私でお役に立てる事があればいつでも。今度、アメリカの高級万年筆を限定販売するから、是非、宣伝しておいてね」
「うん、喜んで」
子驥はイワンを連れて何玉鳳と別れ、黄包車が待つ『大申公司』の外に出た。
「スミノフ先生、どうですか、製糸工場、デパートと見学してみて。桃源郷とまではいかないとは思いますが、この世も案外、いいものじゃないですか」
子驥は黄包車に乗り込み、隣に座ったイワンに聞いた。
「劉老板が案内してくれるところだけあって、いいところばかりだったとは思いますよ。けれど、今、劉老板が言ったように、桃源郷ほどじゃないでしょう。どんなにいいところだったとしても、俺が本当に行きたいところじゃない。ところで、次はどこに行くんですか? 次もまた、女の人のところですか?」
イワンは笑って言った。
「その通りですよ」
子驥は微笑んで答えた。
「どこに行くんですか?」
イワン達を乗せた黄包車は、共同租界は西蔵路にやって来た。
どこかから賑やかな音楽が聞こえてきて、人々の中には第一級正装をした者の姿も混じっていた。
西蔵路は、別名、『舞場路』と呼ばれ、ダンスホールが集中する通りだった。
「次は異国の美女と美男子がいるところ、生演奏の音楽が聞ける場所、紫煙と興奮に満ちたダンスホールです」
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