ガラスの魔法使い

タートルトータス

第1話(完結)

いつからだろうか、少年はその光景が大好きだった。朝日がのぞく書斎の窓。カリカリ、チリチリ、シュッ、それは魔法使いが不思議な図形を描く杖のように、母の手元で踊っていた。


「おいブッコロー、本当にこんなでいいのか?」

「完璧だ、ありがとう」

昔馴染みの職人である大船だが、首をかしげながらため息に乗せたような声で差し出すのが、このところでは恒例になっていた。一方で、抱きかかえんばかりの勢いで完成品を受け取った武津悟朗むつごろうは上機嫌だった。感情を隠さない分かりやすい男で、根っからの職人気質な大船とは馬が合った。ブッコローと呼び出したのが大船少年だ。

「いいと思わないか? 親指に引っかけることで指先に力をかけなくてもペン先が安定する。ガラスペンの重さというハンデを克服するアイデアだ」

「重いってのは確かにハンデだがよぉ、加工が面倒すぎて量産できないぞ。どうしても高くなる」

「分かってる。売るのはオレの仕事だ。お前が心配することじゃない!」

「せめて分離型にしないか? お前のこだわりはよく知ってるが、客が付かなきゃ仕方ないだろ」

「ふん! ガラスペンってのはな、ガラスでできてるからガラスペンってんだよ!」

「そういうこと言ってんじゃねんだけどなぁ」

酒もギャンブルもやらない堅物なのはいいが、商売っ気がなさ過ぎる。話し好きなくせに冗談も言わず、いい歳をして女とは目も合わせられない。結婚できたのは奇跡だと大船は思っている。奥さんのためにもさ、という口癖がついたのはいつからだったか。


「はぁぁ~」

深いため息が癖になってどれくらい経つだろう。悟朗は一人頭を抱えていた。食欲が年々下がっているのを歳のせいにするにはまだ若すぎる。疲労のせいで夜は寝られているのが救いだった。

デザイナーだった母親は、闘病生活の末に亡くなった。会社に勤めながらの看病に忙殺されながらも、苦痛は感じなかった。もはや何とも分からないものであっても、愛用のガラスペンを走らせて描く曲線は美しかった。優美でいて洒落っ気のある柔らかな曲線と硬質なガラスの響きの対比に酔いしれる時間が好きだった。仕事以外に何もできない男がガラスペン専門の業者を目指して脱サラしたのも、あながち気の迷いとは言い切れないのかもしれない。

母親はお気に入りのガラスペンを、手入れしながら最期まで使い続けていた。世話になっていた工房の跡取りが大船だ。

「また悩んでるの?」

「まあな……」

お茶を運んできた妻の水鳥みどりは、いつものように悟朗の斜めに座った。和室に置かれた小机が悟朗の居場所だ。床一面に広げたカタログや試作品を机越しに眺めて胸を躍らせていたのは、そんなに昔のことではない。

水鳥は、悟朗が無理をしてお金を作り参加した文具展で、たった一人、珍妙な姿のガラスペンに感動した客だった。悟朗が店を出していると知ればすぐさま訪れて、狭小で埃臭い店内を楽しそうに見て回った。目をキョロキョロと忙しく動かしながら、蝶のようにひらひらと、硬質な蜜を集めていた。歳の離れた悟朗にとっても、この上なく楽しい時間だった。

人として惹かれ合うまで、そう時間はかからなかった。

「無難な商品もいいと思うんだけど」

「それは駄目だ」

「うん。だけど、大船さんだって心配してるのよ?」

「それは分かってる。本当に申し訳ないと思ってる。だがな、俺が妥協しちまったら誰が後に続く? ガラスペンだからできる面白さを俺が追求しなくてどうすんだ!」

伸ばした背筋となだめるような口調を見れば、水鳥が言いたいことはよく分かる。だからこそ悟朗はその顔を見ることができなかった。きっと哀れむような目で見ているに違いない。そう考えるだけで胸が潰れる思いだった。

「だからってあなたがここまで苦労する必要があるの?」

「前にも言ったろ。どこの市場もどこの店も、無難で平凡な商品が一番売れるだとか。ただでさえ高級品のガラスペンだぞ? 平凡だから安いってもんじゃない。ネットの粗悪品を使ってこんな物に高い金は出せないなんて言う素人もいるんだ。実用的じゃなくても、奇抜で目を引く商品があるべきなんだ!」

「ただでさえ売れ筋じゃないのに、実用性すらない商品は誰も扱ってくれないってことでしょ? まずは浜ガラスを知ってもらうことじゃないかな。品質が分かってもらえたらきっと理解してもらえる」

浜ガラスは悟朗の会社だ。子供の頃に母親とよく遊んだ海を思い描いて名付けた。この名前を言われると胸が掻き乱される。

「言いたいことは分かる。だが前へ倣え、右へ倣えの商品を出すところだと思われたくないんだよ! 右向け右ってわけにいかない! 俺だけは先へ進まなきゃ駄目なんだ!!」

「そっか」

水鳥はそれじゃと言って部屋を出て行った。いつものことだ。

悟朗も頭では分かっているのだが、意地なのか執念なのか、自分でも分からない衝動に抗うことができない。つい語気も荒くなる。悪いことをしていると思っても、素直に謝ることもできない。悟朗は自分が情けなくて仕方なかった。


浜ガラスにはフラッグシップモデルがある。『サドル』というおかしな名前には、悟朗の思いが詰まっている。由来はハクチョウ座のガンマ星。ハクチョウ座で二番目に明るい二等星と二に縁がある星だが、星座を形作る北十字の交点という位置にある。人々にガラスペンとの出会いを与えたいという悟朗の夢、売れ筋になろうとは思っていないという考え方と重なった。馬の鞍、乗り物のシートなどで馴染みもあり、推進力や疾走感を想起させることも気に入っていた。

名前よりも特徴的なのは形だ。まさに白鳥の姿をしている。ご丁寧に、嘴と尾羽の両方がペン先になっている。当然ながら重いし、首から嘴にかけての曲線がいかにも脆く見える。だが実際の所、嘴の方は頭の曲線が手の形にフィットして意外と安定するし、尾羽を持つとペンがほぼ垂直に立ち上がり震動を増幅させ、気持ちのいい音がする。水鳥が展示会で一目惚れしただけのことはある。

「サドル売れませんねえ」

自転車屋のような台詞をボヤくのは、最近入った営業の谷間だ。飲食店で働いていたが、旨いまかないと万年皿洗いを比較した結果、転職の道を選んだ。なぜか営業は向いていると感じていたので、覚える商品が少ないという理由で浜ガラスへやって来た。

「売れない物作るのがこの会社なんだよ」

趣味のプロセス雑誌を眺めながらそう言うのは、先輩の佐藤。覇気のなさを自認する谷間から見ても、全くやる気が無い。就職したのも、近所で求人を探していたところ表のはり紙を見てそのまま応募したという。

「売れたことってあるんすか?」

「俺が来てからは無いな。社長から聞いたこともない」

「ですよねえ」

「変わりもんがチマチマ買ってくから潰れないだけでな、それも安い方から売れてくって」

「会社が知られてないんですよね」

「宣伝なんてしてないからな。SNSとか知らねんじゃね?」

「あー、ワンチャンあるかも」

「まあガラスペンのツイートなんか誰もチェックしねえけど」

「たしかに」

最近、見た目の綺麗さからか、ガラスペンの存在が一般的にも知られるようになってきた。浜ガラスにさえ、フェアに展示するためにカタログを請求してくるくらいだ。奇を衒ったデザインに難色を示されるのがオチだったが。

「あ、ブッコローさん、お疲れ様です」

「お疲れ様でーす」

社長と呼ばれるのがくすぐったかったので、社員にもあだ名で呼ばせている。代わりというわけではないが、悟朗も社員にあだ名を付けていた。この3人が会社の全員だ。

「よお、お疲れ」

そう言って腰を下ろす姿は、お世辞にも社長のそれではなかった。社員の前では気を張っていようと思っていた頃もあるが、長時間毎日ではさすがに続かない。

「プロレス、なんか来てるか?」

「なんも」

「だよなあ」

着信音よりよく聞いた悟朗のため息が、静かな事務所に響いた。

「ブッコローさん、ツイッターとかやらないんですか?」

話の流れからか、佐藤がふと言い出した。

「誹謗中傷しか言われないんだろ」

「そういうの多いですけど、逆に利用して注目させる方法もあるんすよ」

「炎上商法ってやつか」

「ええ。まあリスク高いんで常識的にはあり得ないっすけどね」

「そりゃそうだろ」

悟朗としても、ヒントを探してネットを漁ることはあった。しかし注目を集めるほどにアンチも集まり、何も悪くないのに謝罪やらなんやら面倒な事態に陥る人たちの話題が連日目に入る。自分には無理だと感じていた。

「何なら俺やりましょうか? 公式の中の人って感じで。どうせ暇ですし」

「マニタはツイッターやるのか?」

「見る専ですよ。叩かれたらヤなんで。けど中の人なら直接被害無いじゃいですか」

「おいおい、会社を隠れ蓑にする気か」

「まあ、魔法陣ってとこです」

「魔法陣?」

オカルトに興味の無い悟朗でも言葉は知っている。悪魔を呼び出すとか何とか。ピンと来ないのは佐藤も同じだった。

「ネットには魔物がいるみたいな話?」

「違いますよ。魔法陣っていうのは悪魔を召喚する儀式で魔法使いが使うんですけど、本当は魔法使いが魔法陣の中に入って、召喚した悪魔に攻撃されないようにするものなんです。ほら、悪魔なんて契約する前は凶暴な敵っすから」

「へえ、お前よく知ってんな」

「ラノベの元ネタ調べるの趣味なんで」

「そんな趣味が実在したのか」

凶暴な外敵から身を守る魔法陣。

神妙な顔で黙り込むのも最近では珍しくもない。佐藤も谷間も、悟朗の様子を変に思うことはなかった。


浜ガラスでツイッターを開設してから半月ほど。営業職ならではのディープな話題がマニアを呼び寄せて、走り出しとしては好調だった。それでもフォロワーはガラスペンやガラス細工に興味があった人たちが中心で、新たに興味を持ってもらうという目的には程遠かった。

「伸びねえな」

「そうですね」

売れない、が、伸びない、と変わっただけ。事務所は相変わらず活気がなかった。

「見てはもらってんだよ。フォローまで行かないんだよなあ」

「無関心って事じゃないけど注目するほどではないって感じですかね」

「嫌いじゃないけど好きではないってか」

「難しっすね」

リツイートの通知が心の支えになっていた。

「あ、なんか来た」

佐藤がスマホをのぞき込んだ。

「おいおい、なんだよこれ」

「どれっすか?」

「リツイートで拡散されてる。ほら」

佐藤のスマホを見て、谷間は自分のPCでもそのツイートを開いた。

「ヤバいっす」

「やっぱ出たか」

ガラスペンの弱点を露骨に指摘して嘲笑うようなツイートだった。それも浜ガラスを指すような記述が散見された。

「うちのツイートに反応してるってことですかね」

「だろうな。ハッキリは言ってないが」

「確かにまあまあ拡散されてます。うちのフォロワーが反論してますね」

「戦ってもいいことねんだけどなあ」

「確かに」

アカウントを調べると、開設は2日前。初投稿は昨日の夕方だった。短い時間に連続でツイートしたものがアンチムーブ好きの連中に発見され、一夜のうちに拡散したらしい。

「まあ様子見だな」

「はい」

「お? どうしたそんな顔して」

「あ、ブッコローさん、これ見てくださいよ」

佐藤から説明を聞いて、悟朗の表情が曇った。見た物が信じられないように、腕を組んだり頭をかいたり、見るからに動揺していた。

「別に、うちを直接叩いてるわけじゃないですし、下手に刺激しない方がいいですよ、こういうのは」

「あ、うん、そうだな。そうしよう」

「でもフォロワーはうちのことだって決めつけてるみたいですね。アンチは限定してはいないって逆に冷静ですね。もう炎上寸前じゃないですか」

PCを忙しく操作しながら谷間が言った。

「うちの名前がもう出てるのか」

「はい。明らかに浜ガラスだって言う人と、誰も知らない会社叩いてどうすんだっていうアンチが戦ってる感じです」

「んん……」

険しい顔つきで席に戻る悟朗を見送りながら、佐藤はスマホの画面を爪でコツコツと叩いた。


例のアカウントが現れてからほんの3日で、メディアが連日取り上げるほどの騒ぎになった。

当然の成り行きで、浜ガラス、ひいてはガラスペンという存在への注目が急上昇していた。ガラスペンとは何か、浜ガラスの商品とはどんな物か、好奇の目を多分に含んでいるとは言え、世間の認知は広まっている。良くも悪くも、活気づいていた。

当のアンチといえば、浜ガラスとは言ってないと明言を避けつつも、ガラスペンがメディアに登場する度に煽りツイートを繰り出した。特に浜ガラスの商品が紹介された回に対しては辛辣な口調が目立った。ツイートの数はさほど多くもないが、フォローに回る側が少数派という構造もあり、アンチは勢いを増していた。

「これヤバいですよねえ」

「そんなもんなんじゃね」

懸念していた通りの事態に、谷間は特に驚いてもいなかった。淡々とガラスペン関連の話題を集めては定期的にツイートというルーチンをこなしている。佐藤の方も炎上を気にする様子はなく、むしろ増えてきた取材や出展の依頼メールを粛々と捌いていた。いつもなら周回していたプロセス雑誌も、机の端、ノートパソコンの下敷きと位置を変え、もはや鞄から出てくることもない。

「ブッコローさん、サドルの展示依頼ですけど、どうします?」

サドルは一点物だ。大船の腕があっても同じ物を作れる保証はない。移動が必要なケースでは悟朗が判断することにしていた。

「どこからだ?」

「塚作書店です」

「げ、マジすか?」

ツカサと言えば国内一の書店チェーンだ。近頃はガラスペンフェアを開催したり常設ブースを設けたりと、ガラスペンブームを牽引している。さすがの谷間も驚いて顔を上げた。

「やったじゃないっすか!」

「うん、これはチャンスかもしれん。いつだ?」

「来月ですね。変わった商品を集めてフェアやるらしいです」

「よし、準備しよう。返事しといてくれ」

「はーい」

カチカチと素早い打鍵音でメールを打つ姿は、できる営業に見えなくもない。

「じゃ、他の商品見繕っときます」

「頼んだ」

サドル以外の展示品の選定は佐藤の仕事だ。なんやかんやで長くいるため、商品をよく理解している。悟朗と違い冷静な目で商品の価値を見られるし、谷間はまだイベントに合った品を選ぶ目が育っていなかった。

席を立って鞄を持った佐藤が、悟朗に近づいてぼそっと言った。

「その辺にしといた方がいいですよ」


そこからはあっという間だった。

件のアンチが急に黙ったことで様々な憶測が広まった。死亡説、逮捕説、逃亡説などネットから消えたという説が有力視されている中で、浜ガラスのツイッターが活気づいたことと結びつける自作自演説が浮上した。

自作自演なんてあるわけがない。それだけをツイートしたことが決定的だった。ネットから消えた可能性を全否定したからだ。

結局、アンチが正体を曝すことはなかったが、風評を止めることは誰にもできなかった。浜ガラスの公式アカウントには日々膨大な誹謗中傷が寄せられ、メディアは真相を話して謝罪すべきと断定する論調で支配された。

悟朗には何も言えなかった。まったくその通りだったからだ。


「食事、できてるよ」

もう何日も家から出ていない。なぜ黙っているのかという声に返す言葉も無く、部屋に引きこもり小机の前にただ座っていた。

「今日はいい」

「少しは食べないと」

「……」

最近は事務所だけではなく自宅の郵便受けにまで脅迫じみた文書が投げ込まれている。買い物に出る水鳥にも、いつ危害を加えられるか分からない。そう思っても体が動かなかった。日が経つほどに申し訳ない気持ちが膨らみ、声をかけられることさえ苦痛になっていた。

「起きたことは仕方ないじゃない。そのうちみんな飽きるわよ」

「……すまん」

「ほら、食べよ」

悟朗が辛くなるのを分かっているのか、水鳥は部屋の外から声をかけるようになっていた。引きこもり沈黙を続ける悟朗を急かしたり、怒りをぶつける部下もいなかった。守られている。その現実が救いであり、孤独でもあった。

『この状況でお前のとこには卸せない。分かってくれ』

『こちらからお願いしておいて申し訳ありませんが、展示会の件は保留ということにさせてください』

『店頭でトラブルも起きてしまっているので、陳列は控えさせてもらっています』

いくつもの声が悟朗の耳に響いていた。あたかも今ここで言われているかのように、鮮明に、何度も何度も。どれもが自分を非難しているようにしか聞こえない。怖くてたまらないのと同時に、安堵もあった。これ以上の優しさは惨めになるだけに思えた。

「今日はお肉がいつもより安かったの。同じ値段でこんなに買えちゃった」

「……そうか」

「あ、あの猫いたじゃない? 尻尾が短いやつ。久しぶりに見たわ。なんか大きくなってた」

「……そうか。そう、か」

涙が出た。感情というものがまだ残っていることに驚いた。声を上げて泣いた。後悔が波のように押し寄せた。

どれくらいそうしていだろうか。悟朗が我に返ると、目の前に水鳥の笑顔があった。少し潤んだ目で言った。

「ほら、食べよう」

「ああ。食べよう」

目を合わせて答えた時、悟朗から迷いが消えた。


朝から風呂に入って身を清めた。気持ちの問題だ。身なりを整えて、朝食を済ませて、事務所へ向かった。さすがに徒歩で行ける気はしなかったので、タクシーを呼んだ。水鳥はずっと外で見送ってくれた。一抹の不安を抱える自分と比べて、平然と構える水鳥の強さが身に染みた。

「おはよう」

「あ、ブッコローさん、もういいんですか?」

拍子抜けするほどいつも通りの谷間がそこにいた。風邪で休んでいただけだったのかと錯覚してしまうくらい、いつも通りだった。

「ああ」

「佐藤さん、辞めました」

予想はしていたが、はっきり聞くと胸に刺さる。

「……そうか。むしろお前がいたことに驚いてるよ」

「なんか問合せとか事務連絡とか捌いてる内に今日になったっていうか、ツイッターも習慣になっちゃったというか」

覚悟を決めていたつもりの悟朗だったが、さすがに驚いた。

「まだツイッターやってるのか?」

「辞めるタイミングがなかっただけっす。ピークと比べたらレス激減してますよ。もう飽きたんじゃないすか」

唖然とした。水鳥の言った通りじゃないか。ネットの関心などコロコロ変わるのが当たり前だ。たかがガラスペン業者の不祥事など、そもそも大きな問題じゃなかった。

「そんなもんなのかな」

「ですね。零細でよかったって思ったのは初めてです」

「皮肉だな」

「真面目っすよ」

悟朗は笑った。またこんな気分になる日など永遠に来ないと思っていた。何年も笑っていなかったような気がした。うっすらと残っていた靄も晴れた。

「マニタも気づいてたのか?」

一瞬の間があって、谷間は打ち明けた。

「分かりますよ。デザインと企画しか興味なかった人がいきなりカタカタ打ち始めるんだから。何やってんだろうって思います。それにアンチツイートは必ず日中なんすよ。普通は夜中にこっそりやるもんなのに」

すっかり怪しまれていた。まるで気づいていなかった。

「それで思ったんですよ。ブッコローさん、家にPC無いっすよね。スマホは電話しかしないし。もしかしたらって。ちょっと注意してみたら、ブッコローさんがキーボード触ってる時間とツイートの時間が同じだったんです。予約ツイートなんて知ってるわけないし、間違いないなって。佐藤さんも同じこと考えてたみたいです」

「バレバレだな」

「隠す気無さすぎっす」

きっと佐藤は、増えてきた仕事をこなすために頑張ってくれたんだろう。その思いにさえ気づいていなかった。

悟朗からも話しておきたいことがあった。

「……魔方陣のつもりだった」

「なんすか?」

「魔物を召喚した魔法使いが、自分を守るために作るのが魔方陣だって言ってたろ。ネットなんて魔物の住処だ。だがもし俺を守ってくれる魔方陣があればネットを利用できるんじゃないかって、思っちまったんだよ」

「誰だか分からなければ大丈夫って、ネットじゃみんなそう思ってますよ」

「かもしれん。それがあんまりうまくいったもんだから、調子に乗った」

歯に衣着せない谷間の物言いが心地よかった。庇うでも責めるでもなく、正直な気持ちを言ってくれる。

「あ、そういえば今日だったっす」

「ん、何がだ?」

「来客です。なんかサドルを展示したいとかって」

「なに?」

驚いてばかりの日だ。このタイミングでの商談は想像していなかった。

「お、おい、何か出せるものあるか?」

「お茶なら腐るもんじゃないし大丈夫じゃないですかね。お湯沸かしますか」

「頼む!」

誰だか知らないが、来客などいつ以来か。しばらく開店休業状態だったことを差し引いても、事務所の床は足跡が残るくらいに砂埃が溜まり、黒いはずのソファは渋いグレーにしか見えない。掃除用具を引っ張り出して時間ギリギリまで動き回ったせいで、すっかり息が切れた。

「そういや、来客って誰なんだ?」

呼吸を整えながら悟朗が聞いた。

「有隣堂って書店の文房具バイヤーで、えっと……岡崎さん、っすね」


「お邪魔いたします」

給食のおばさんと言われた方が納得のいく風体の女性が現れたのは、約束の時間をまあまあ過ぎた辺りだった。

「ごめんなさい道に迷っちゃって」

「いえいえ、ご足労いただいて、恐縮です」

分かりづらいから案内すると言ったのを自信があるから大丈夫と断ったのは何だったのかと、谷間でさえ思わざるを得なかった。

「早速なんですけど、サドルを見せてくださいませんか」

「はい、お持ちします」

悟朗を置き去りに話が進んでいく。

「こちらです。持っていただいて大丈夫ですよ」

「あらぁ、キレイ」

岡崎はいいおもちゃを手にした子供のように、サドルを楽しそうにもてあそんだ。

「書いてみてもいいですか?」

「いいですよ。これを使ってください」

「あ、持ってきました」

そう言うと、谷間が差し出した紙とインクを雑に押しのけて、カバンからノートとインク瓶を取り出した。水のバケツだけはそのまま使う様子だった。

「あらあら、いいじゃないですか。見た目より書きやすいですね。でもやっぱり重いかな。でもその分安定するかもしれない」

ブツブツ言いながらノート一杯に書き続ける姿に、悟朗はただ呆然と見ているしか無かった。

「職人さんに会ってみたいんですけど」

「は?」

電話の向こうで大船が戸惑っているのは分かったが、気にする暇も無かった。空気などお構いなしに工房内を歩き回り、最後は岡崎の勢いに巻き込まれる形で、悟朗も大船もすっかり打ち解けていた。

「楽しかったです。ありがとうございました」

店で商品を見せてから事務所に戻ると、岡崎は有隣堂で行われるガラスペンフェアの企画について説明してきた。前置き無しだったから最初はついて行けなかったが、そこに展示したいという話は分かった。だが、悟朗は素直に喜べなかった。腹を決めて切り出した。

「あのう、なぜうちなんですか? このタイミングで、わざわざ」

「だってネットで見てたらこのサドルが出てたので、ついに見つけたと思って。以前文具展に出してましたよね。あれからずっと気になってたんです」

「え?」

ネットで見ているならこの炎上騒ぎも知っているはずだ。悟朗はわけが分からなかった。お茶を入れ直してきた谷間が聞いた。

「文具展と言えば何年か前ですけど、どうして今になって?」

「その時は商品に夢中で、名刺をもらい忘れたんです。どこのブースだったかもよく覚えてなくて、社名が分からなかったんですけど、ネットの騒ぎでちょうど知ることができたんです。良かったです」

良かった? 悟朗はもうパニックだった。このおばさんは何を言っているんだ?

「正直、その騒ぎの件で得意先の仕事を全て失いました。評判はガタ落ちです。うちの名前があるのは……ご迷惑じゃないんでしょうか?」

「別に気になりませんけど」

振り絞った勇気を返してほしいくらい呆気なく、岡崎が答えた。

「だって他に無いですから。お宅に頼むしかないじゃないですか」

何がおかしいのか分からないという風の岡崎を見ていると、悟朗の方もまた何に拘っているのか分からなくなってきた。ほしいと言うのなら任せておけばいいじゃないかという気になった。

「分かりました。必要な物があれば遠慮なく言ってください。できる限り協力させていただきます」

「まあ嬉しい。良かったわ。今後ともよろしく願いします」

「こちらこそ!」

なんだかよく分からないが希望が見えてきた。岡崎を見送ったら、二人でソファに倒れ込んだ。

「疲れたなあ」

「ですね」

どうとでもなるさ。俺はまだやれる。

図らずも積年の汚れを落とした事務所を見回して、憑き物が落ちたような気分になった。好物でも買って帰ろうか。お土産を受け取って喜ぶ水鳥の顔が浮かんだ。

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