菊の刀〜島国の剣客、大陸の武林へ武者修行の旅に出る〜

新免ムニムニ斎筆達

剣客と白い少女《一》

「このっ、小生意気な小娘が——ああぁっ!?」


 男の大柄な体が宙を舞い、木箱を潰して地に落下した。


 その男と全く同じ服装——黄色い稽古着らしき服に身を包んだ複数の男達が、自分達より遥かに小柄な影に向かっていっせいに踊りかかる。


 その小柄な人影は、齢十五ほどの女だった。


 うなじを隠す程度に伸びた黒髪。

 やや幼さの残る美貌。

 紺の上衣に黒のはかまをまとうその体つきは、女性的凹凸に富んでいるわけでもなければ屈強なわけでもない、華奢な体躯。

 手折ろうと思えば容易く手折れてしまう野生の一輪花を彷彿とさせる、美しい少女だった。


 しかし、そんなか弱い見た目とは裏腹に、その少女——川島かわしまきくは、やってきた男の無骨な拳を柔らかく受け止めるや、その拳に宿る「勢い」を掴み、流し、背負い、男の巨体を半回転させて背中から地面に叩きつけた。


 自分よりもでかい男を空っぽの麻袋のごとくあしらっていく小枝のような少女に、黄色い稽古着の男達は目を見開いていた。


「おらぁ! とっとと詫びいれなぁ! 馬鹿男どもぉ!」


 きくはそう威勢よく発した。


 すると、稽古着の男達は、気配の「感じ」を変えた。


 それは先ほどまでのような「喧嘩腰」のものとは違う。


 本物の「殺気」。


 それを裏付けるように、男達の動きがに変わる。


 長い鍛錬によって骨身に染みついた、洗練された構え。


 ——きくの故国である和國わのくにのものではない、拳法の構え。


(……殺す気になったってわけか)


 そう感じると、きくの左手も自然と腰の刀に伸び、その鯉口こいくちを切っていた。


 左腰には、鞘に納まった、細身で緩やかな反りを持った一振りの刀。


 この大陸では『和刀わとう』などと呼ばれている刀だ。


 すでにこの国に来て、何人か斬っている。


 平和な国で生まれ育った身であるとはいえ、もはや人斬りに恐れは無い。


 斬らないと、斬られるのだ。「ここ」は、そういうところだ。


(それに——)。


 そのために、祖国を抜け出し、ここへ来たのだから。


 きくの桜色の唇が、自然と好戦的な微笑を描く。


 それに呼応するように、鞘から一端を覗かせた刀身が、中天にある太陽の光を受けて剣呑に輝く。




 広大な大陸を統治する大国『りん』。

 その南部、とある街の酒屋前で繰り広げられていたその乱闘は、今まさに「死闘」へと変わろうとしていた。



 







「……何かしら?」


 同じく、そんな街の違う区画を歩いていた一人の少女——かく昀昀いんいんは、争いの空気と匂いとざわめきを察知し、その方角を思わず振り返った。


 その少女の特徴をまず言い表すなら「白い」である。


 毛先で一つに束ねられた長い髪、瀟洒しょうしゃでありつつも飾りすぎていない意匠を誇る上衣と、脈が透けて見えそうな手と顔と首の素肌。


 唯一白ではない、紅玉みたいな赤い目が、その神秘的な雰囲気に少しの妖しさを落としている。


 人間離れした美貌に、柔らかくもどこか芯の通った身のこなし。


 誰もが振り向き手を伸ばしたくなるような美しさと、それでいてどこか近寄りがたい油断ならぬ雰囲気があった。


 人や物で雑然とした片田舎の中、彼女だけが別世界にいるかのようであった。


 そんな昀昀いんいんの紅玉の瞳は、ひたすらに一つの方角——今まさに「死闘」が行われようとしている酒屋の方角を向いていた。


「……遠いけど、を通ればすぐに着きそうね」


 見通しをつけるや否や、昀昀いんいんは跳んだ。


 いや、と表現すべきか。


 男女関係なく重い物体であるはずの、人の体。昀昀いんいんも例外ではない。


 しかし、そんな昀昀いんいんの体が、まるで風に巻き上げられた羽毛のごとく、高々と宙をのだ。


 昀昀いんいんはそのまま、近くにあった民家の瓦屋根にふんわりと降り立ち、そこからまた宙を舞って別の屋根へと飛び移る。


 それを繰り返して、目的の方角へと進む。


 大地には人混みがあるが、天にはさえぎるものは無い。


 ゆえに円滑に進めた。


 「すげぇ!」「軽身功けいしんこうだ!」「なんという練度!」「確かあの服、『玄洞派げんどうは』だったか?」……眼下の人々から湧いてくる声声こえごえを聞き流し、昀昀いんいんは目的地へと急速に近づく。


 見えてきた。


 確かに物々しい気配で満ちていた。


 なおかつ、目で見てはっきりと敵対関係が分かる構図。


 片方は、黄色い服を身につけた男達。

 その数はおよそ十五人。

 みな、拳法の構えを取り、なおかつ『内力ないりょく』を全身によろっている。


(内功ないこうを使っているわね……おそらく、体を鋼鉄みたいに硬くする類のもの。あの見覚えの無い衣装からして、大きな門派の人達ではなさそう。だからおそらくあの内功は『てつ衫功さんこう』とかみたいな、武林ぶりんに広く流布した類のものかしらね)


 冷静に、かつ迅速にそう分析してから、今度は「もう片方」へ視線を向けた。


 なんと、一人だった。

 しかも、女の子だった。自分よりも小柄で可愛い。

 おまけに、服装や、身構えた姿勢からして、どう見てもこの国の人間ではない。

 極め付けは、今まさに抜かんとしている左腰の刀——『和刀わとう』。


(まさか、和人わじん?)


 この大陸から海を超えた先にある島国、和國わのくにの住人?


 そんな馬鹿な。


 現在、和國わのくには鎖国状態だ。

 理由はよく分からないが、とにかく海外とは必要最低限の交易しかしておらず、庶民の出国は厳しく制限していると聞く。

 大陸に対しても例外ではない。この国で見かける和人わじんといえば、公式な用事で訪れる使節くらいだ。


 あの女の子は、明らかに使節とかではない。失礼だが、官吏かんりのように洗練されているようには見えない。


 であれば、なぜここに和人わじんが? 密航?


 ……いや、今はそこはどうでもいい。


 問題は、女の子一人が、武芸者十五人と戦おうとしている。


 喧嘩ではない、「死闘」をしようとしている。


 一瞬「無茶を」と思った。


 けれど、和人の少女の構えを見た途端、それを「無茶」とは思えなくなった。


(——あの子、)。


 『武林ぶりん』という猛者溢れる社会に長く浸り、あらゆる武芸者を見てきた昀昀いんいんは、女の子の持つ高い武力の片鱗を瞬時に感じ取った。


 数で不利? そんなことはない。


 むしろ彼女一人であの十五人の男達を一方的に斬殺するまである。


 いずれにせよ、昀昀いんいんは「死闘」が始まる前に確信した。


 「彼女が勝つ」と。


 ……けれど、『武林ぶりん』という社会では、「ただ勝てば良い」というものではない。


 ある門派の人間と揉め事を起こし、その末に殺害したとする。

 ——すると、その人間と同門である者達が、仇討ちをしに攻めてくるだろう。


 その同門も、全員殺したとする。

 ——すると、その門派と同盟関係にある他の門派も、攻撃をしかけてくるだろう。特に最近は「邪派じゃは」の動きが活発なため、門派同士の相互扶助同盟が増えている。


 同盟門派を皆殺しにしたとする。

 ——すると、武林を統括している『武林盟ぶりんめい』において正式に「邪派」の烙印を押され、武林全体を敵に回すだろう。


 いくら強くても、武林そのものを敵に回せば、生きてはいられない。


 あの女の子は、おそらく、そんな武林の仕組みを知らないのだろう。

 なにせ、鎖国政策で百年以上も穴熊を決め込んでいる島国の民族だ。

 海外の情報に疎くてももおかしくはない。


 まだ「死闘」は、始まっていない。


 無知で泥沼に飛び込もうとしている女の子を、今なら止められる。


 何より——


 義侠心半分、好奇心半分を胸の内に抱えながら、昀昀いんいんは一触即発の双方の間へと着地した。


 瞬間、高速移動にともなって引き連れていた風圧が、周囲へ一気に拡散した。








「うわっ……!?」


 「白い影」が突然降ってきたかと思ったら、膨れ上がった強い風圧。


 きくは目元を押さえてうめく。


 風が止む。


 きくは目元から腕をどけて、その「白い影」の正体を見た。


「…………っ」


 女であるきくから見ても、息を呑むほどに神秘的な美しさを誇る美少女だった。


 白い上下衣。

 白い肌。

 白い髪。

 そこへ燃えくすぶるような赤い瞳が一対。

 その目を光らせる、精巧な人形じみた美貌。


 おおよそ、この争いの場には相応しくない存在に見える。


 彼女の周りを取り巻く空気だけ、別世界のように清らかに感じられた。

 

 その薄桃色の唇が、きくと黄色い稽古着の男達へ視線を巡らし、告げた。


「……双方、どうか武を納めてもらえる?」


 銀鈴を思わせる、可憐でありつつも薄弱ではない意思を秘めた声音。


 きくたちだけでなく、ざわめき立っていた野次馬さえも、水を打ったように静まり返っていた。


 そうさせているのは、ひとえに、彼女の存在感の特異さゆえだ。


「あんた……誰だ?」


 だがきくは、それでも当然の疑問を投げかけた。


 白い少女が唇を動かそうとするが、それよりも早く稽古着の男達が、ひどく畏怖したような表情と口調で口を開く。


「その服……まさか、貴女は…………『玄洞派げんどうは』の……!?」


「はい。『玄洞派げんどうは内門ないもん弟子でしかく昀昀いんいんです。お見知り置きを」


「「「『白龍姫はくりゅうき』っ!?」」」


 白い少女——かく昀昀いんいんの名を聞いた途端、さらなる驚愕を生み出す男達。


 まだこの少女の正体がいまいち分からないが、それでも名前を名乗ってすぐ別の呼び名で呼ばれたということは、この白い少女がの存在であることを示唆していた。


 それに、


(このお嬢様——)


 国は違えど、武人の端くれであるきくは、昀昀いんいんの実力のほどを、少しの動きを見ただけで察した。


 強い。自分と互角か、あるいはそれ以上に。


 おまけにこの少女は、えらく高い場所から降りてきた。

 その時の着地は、まるで羽毛が落ちたように重みを感じられなかった。

 それも高い実力の一端であると確信。


 そんなきく胸算用むなざんようを余所に、昀昀いんいんは双方へ尋ねた。


「なにやら、ひどく物々しい雰囲気だったけれど……よければ、何があったか話してもらえるかしら? やり合うのはそれからでも遅くはないはずよ?」


 すると、稽古着の男達は押し黙った。


 まるで悪戯がばれそうになっている悪戯小僧のように、気まずい感じで。


 きくは声高に、そんな悪戯小僧たちの悪事を言いつけた。


「その糞馬鹿どもが、酔っ払って店の女の子にしつこく絡んでやがったんだよ! あんまりしつこいんで、あたしが一本背負いで黙らせた。するとどうだい? その馬鹿ども、仲間をそこら辺から引っ張り出してあたしに殴りかかってきたんだ! 逆切れもいいところだ」


「……本当なの?」


 昀昀いんいんが確認する。


 やはり黙りこくっている男達。沈黙は是なり。


 さらに、


「そ、その和人わじんさんの言う通りです! その人達が「いっしょに酒を」ってしつこくて……強引に引っ張り込んできたんです! それをその女の人が助けてくれて……」


 きくが助けた酒屋の看板娘が、そう証言してくれた。


 さらに、


「……おい貴様ら、今の話は本当か?」


 男達の後方に、彼らと同じ黄色い稽古着を着た巨漢の老人が立っていた。


 押し殺したように低い声で問うた老人の眉間には、刀傷のように深い皺が数本刻まれていた。

 明らかに怒っている。


「「「師父しふっ!?」」」


 男達が驚愕と畏怖の表情と声をあらわにした。


 途端、師父と呼ばれた老人の怒りが爆発した。


「——貴様らぁっ!! 罰として棒打一人十回だぁっ!! 今すぐ来いっ!!」


 ひいいいっ、と情けない声を上げる男達。


 もはや、事態の終息は明らかだった。


 巨漢の師父は、きくと酒屋の娘に謝罪を告げると、弟子達を連れて立ち去った。


 周囲の野次馬は、もう見るものは無いとばかりに解散しだす。


 すっかり元の日常を取り戻した街の中で、きく昀昀いんいんは今なお立ち止まり、互いを見つめていた。

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