【完結済】年齢詐称にご用心!悪徳凄腕占い師の人生最後の恋占い

雲井咲穂

第1話

 この日、上得意顧客である女公爵の紹介により、とある貴族の青年がエリーゼの元に訪れた。


 金髪碧眼。長身痩躯。

 物語に登場するいわゆる乙女が憧れる王子様像を凝縮したような外見と佇まいの青年で、慇懃無礼上等の平民老婆エリーゼの愛想のない対応にもにこやかに応じる態度は、さすがは上流階級の品行方正なお坊ちゃまだという印象だ。


「で、何を占ってもらいたいんだい」


 エリーゼはフン、と鼻息荒くしゃがれた声で彼に問うた。


 青年の名はフランツ・ウェルディークといい伯爵家の三男坊で、年は17歳の水月座。趣味は読書と遠乗りという絵に描いたようなお坊ちゃまである。


 淡い金髪に青玉色の瞳の整った面立ちの人物で、男に免疫のない年頃の貴族の令嬢であれば目の前を通り過ぎただけで心を奪われてしまうことであろう。


 フランツはエリーゼの問いには答えないまま相貌を柔らかく細めて、彼女が用意した欠けたカップを優雅に持ち上げると、三度目の出涸らしの薄すぎてもはやただのお湯に近い紅茶に口を付けた。


 大抵の貴族はエリーゼが曲がった腰を引きずるようにして提供した紅茶を、かなり不快そうな顔をして断固として遠慮するのが通例だ。


 なかなか肝が据わっている若者だ、とエリーゼは薄い金色の目を細めた。


 大抵の貴族というやつは、平民と表立って関わることを厭うため、いくら国一番と評価高いエリーゼであっても関わるのは恥だと思っている節があり、とりあえず占ってくれ、と用件だけを言い、用が終わるとさっさと帰るのが一般的だ。まかり間違っても、目の前のこの青年のようにゆっくりとここにいる時間を楽しんでいるような様相は見せない。


 普通の貴族は、エリーゼのこの小さく狭く、蜘蛛の巣と埃が張っている納屋のような家を耐えがたい牢獄のようなものだと感じ、一刻も早く立ち去ろうとする。


 窓ガラスにはひびが入っているし、木の扉は建付けが悪く閉めるのも開けるのも一苦労だ。床はギイギイなるし、木目と木目の間からは何かの植物の目がひょっこり顔を覗かせている。


 灯り取りの窓は全面が余すところなく曇っていて、ただでさえ薄暗い森の縁にある小屋の中に昼間の陽光を届けるのは不十分だし、何か複雑な薬草を煮詰めたような微妙なにおいが部屋中を巡っていて、冬場であるのに窓を開けてもいいかと遠慮がちに尋ねる客もいるほどだ。


 狭い部屋の中にたった一つだけある机の上にはパンくずが落ちていることもままあり、貴族の幾人かはエリーゼに「清潔な館」を提供するか、「自分の館のどれかを貸し与えるか、部屋を貸し出すか、譲渡するか」という提案書まで持ってくることもある。むろん、館を譲渡された場合はその館と土地を売却すると申告すると、「それはちょっと」と苦虫を潰した顔をされるので未だかつて譲られた建物や土地はない。


 また、エリーゼの棲む小屋があまりにもひどい状態であるため、ここに初めて訪れる貴族はエリーゼに横柄な態度をとりがちだ。


 紹介性で一見さんはお断りの制度を導入しているため、事前情報が与えられているはずなのだが、それでも、エリーゼの小屋の状態はすさまじく、外見もそれなりに十分老婆なので占いの後「貧乏な平民風情のボケた老人に出す金はない」と支払いを拒否し帰ろうとする貴族も一定数いる。そういう時は、エリーゼは得意の宮廷魔術師にも引けを取らない爆発系魔術を巧妙に操作して髪の毛をちりちりにしてやるし、何なら靴と下着以外の衣服をすべてはぎ取って貴族街の中心地に瞬間転移する魔術を喰らわせてやるので、この二年の間、支払いをしないまま小屋を脱出した人物はいない。むしろかつて、エリーゼからひどい目にあった貴族の忠告が浸透している節はある。


 変わり者で変人奇人の部類であるもの好きな女公爵も、エリーゼの小屋の状態には呆れるしかないほどで、気前よく支払ってくれる金貨や金塊、ある時は宝石を従者に命じてエリーゼに渡しながら「いつになったら溜め込んだお金で立派な館を建てるのかしら」と冗談めくほどだ。


 エリーゼの小屋が納屋のような状態であることと、彼女が請求する一般からかけ離れた法外な料金の占い料は、つり合いがとれなさ過ぎて彼女の悪名と稀有な才能をさらに高めるのに一役買っていた。

 貧しい平民の老婆が貴族から金品を巻き上げて荒稼ぎをしているという噂は王都でも非常に有名で、三年前占いの仕事をエリーゼが始めた時は、朝駆け夜討ちが如く盗賊が老婆が溜め込んでいるであろう莫大な量の金塊や宝石、金貨を狙って遊びに来ていたものだが、現在はとんと音沙汰がなく寂しいものだ。半裸むいて極寒の冬の氷の湖に首だけ出した状態でたった数分沈めただけなのに。


「おいしい紅茶をありがとうございます、エリーゼさん」

「敬称も敬語もいらないよ。ただのばあさんで結構だ。さあ、兄さん、何のために今日はこんな辺鄙な場所まで来たのか、いい加減本題を聞かせておくれ。おいぼれなんでね、仕事はさっさと終わらせたいのさ」


 エリーゼは喉に寄った深い皺を指先で伸ばしながら、ぼさぼさで黄色と白と灰色が入り混じった髪の毛を邪魔そうに払いのけた。少しは身なりをそれなりに整えた方がもっと客が押し寄せるのに、とは女公爵の言だ。


 さて、この青年はどんな悩みを抱えているのやら。


 女公爵が格別の配慮をと前置きして予約紹介をしたのがこの目の前の人物で、前金として通常の十倍の金額を要求したものの、難なくあっさり支払ってきた。面倒くさい案件であればあるほど、金額を吊り上げれば大抵の客は諦めるのだが、超金持ちの貴族というやつはいったいどこから資金を調達してくるのか。年々エリーゼの占いの基本料金は高くなるのにもかかわらず、客が絶えないのだからもうほんと勘弁してほしいところである。


 実のところ、占い業ももう潮時だと思っていて、そろそろ引退しようと思っていたところにこの客だ。これも何かの縁だと引き受けてはみたのだが、予想を上回る報酬にエリーゼの方が目をひん剥いてそのまま昇天しそうだった程である。


「実は、本日伺ったのはスタンフォード女公爵からお聞きにになっていると思うのですが」

「聞いてないよ」

「え?」


 そこで初めてこの青年の、年頃らしい素の表情が現れた。

 心底驚いた、という色が瞳に浮かんでいる。


「聞いて、ない?」

「聞いてないよ、そんなもん」


 目の前でフランツががっくりと肩を落としたので、そんなに驚くことかね、と前置きしてエリーゼは肩をすくめた。


「いいかい、お兄ちゃん。客の悩みは客本人からしか聞かないことにしてるんだよ。事前情報?そんなのいらんいらん。占えば今ここで全部出るもんだ」


 ケケケ、と笑って彼が驚いていることに気を良くしたエリーゼは、少し体を机の方に寄せ、前のめりになって黄ばんだ歯をニイ、と見せた。


「他人の情報なんて一番アテにならんもんさ。この目で、耳で聞いた情報以外は全部偽物と言っていいんだよ」


 笑みを深め、エリーゼはさて、と前置きしてから自分用に作っていた紅茶で軽く喉を潤す。大きく亀裂の入ったカップだが、エリーゼの愛用品の一つである。


「さあさ。いくら今日は貸し切りだと言ってもね、時間は二時間だけだよ。その顔を見るに、あんた恋の悩みだね。言いにくくて口渋ることはたいてい恋の悩みか、金の悩みか、遺産相続の悩みだが、あんたは恋の悩みだね」

「わかりますか」


 フランツは一つ瞬きをして、ぐっと背筋をただす。


 エリーゼは神妙に頷き、左側の棚の上に乱雑においていた透明なガラスのような球体を片手に掴んだ。それを机の上に置きっぱなしにしていた白色の布の上にそっと置く。


「まあ、年頃の若者の悩みというのは大体が恋の悩みさ。あんたは頭がよさそうだし、魔術学院での成績もよさそうだから成績の悩みではないだろうし、少し剣に打ち込んでいて、それなりの練度もあるんだろうからそっちの方での悩みもないだろうね」


「剣…」


 フランツは微かに目を見開いて自分の左側の腰を無意識に触る。それに自身で気づいてばつが悪そうに苦笑した。


「左側の足を少し強く踏みしめる癖があるのか、入ってきた時だよ。左側の足を動かすときだけ、床の音が鳴ったのさ。剣をする人間にそういう癖があるものが多くてね。まぁ、統計といえば統計さ。勉強でも、剣の技術の伸び悩みでもない。後ろ盾に女公爵がいるということは財産の不足や不安もない。あとは消去法さ。占いでも何でもない。これまでの相談内容から推測して、あんたくらいの年齢の人間が一番気になるようなことで、占いという不確かなものにでもとりあえず縋って見たくなるような相談は何か」

「なるほど。そこは占いではないと、はっきり言ってしまうんですね」


 面映ゆそうに喉を鳴らして、青年はやや肩から力を抜いたような表情で相好を崩す。

 エリーゼはうなずいて、透明な球体にそっと指を伸ばす。


「ついでだから言うけど、これは雰囲気を出すための道具でね。実際のところ、訪れた全部の人間に言うんだが、ただの水晶玉だ。呪文を唱えても何も起きない。ただの石。―さて、あんたの悩みを聞こうかね」


 ニヤリ、とエリーゼは肩眉を上げた。

 フランツは笑って、一つ頷くと、少しためらった後。意を決して口を開いた。


「実は―、一目ぼれだったんです」

「ほう」

「彼女は春の陽だまりのような笑顔の、道端に咲く雑草のような力強い意志を持つ女性で、子供たちにも優しくみんなから好かれるような朗らかな性格の女性です」

「道端に咲く…雑草のような、ねぇ」


 貴族なのにもう少し詩的な表現はなかったんだろうか、とエリーゼは心の中で突っ込んだ。


「強きを挫き、弱気を助けるというような表現が相応しいのか。酒場で野党のようなおとこに絡まれていた婦女を救うため、背後から回し蹴りをかけてしまうような猛獣のような強さがあり、そこもまた魅力的でした」

「猛獣…」

「彼女との出会いは、平民街の中でも比較的商店が多くひしめく区域でした。その日の道はとても混んでいて、夕方だったからか人々も家路に急いでいました。私自身にも門限があり、その時刻までに戻らなければと急いでいた時です。馬車を走らせていると、目の前に子供が飛び出してきて」

「轢いたのかい!?」


 まさかお悩み相談が平民殺害の自供を聞く羽目になろうとは思わず、エリーゼは喉をひっくり返して素っ頓狂な声を上げて老婆らしからぬ速度で椅子から立ち上がった。


 ガタン、バタ、と椅子が倒れて床の上に積もっていた埃がむわっと舞った。


「轢きそうになったところを、身を挺して子供をかばい救ったのが彼女だったのです」


 フランツは実に感銘を受けたと続けて延べ、うっとりと崇拝する人物に向けるような表情でエリーゼに笑いかける。


 なんか、やばいやつが来た、とエリーゼは心の中で吐露する。


 エリーゼはとりあえず目の前の少し奇妙な貴族の青年が、平民殺しではなかったことにほっとして、腰を折り曲げて椅子を引き起こすと、どっこいしょ、と座り直す。


「慌てて馬車から降りてケガの具合を確かめようとしたのですが、彼女は私に金品を要求することもなく。ただ静かにトットトウセロ、という言葉を残して去りました。ところでエリーゼ殿、トットトウセロとはどのような意味なのでしょうか」


 トットトウセロというのは、平民のスラングで「目の前からいなくなれ」という意味の汚い言葉です、とはさしものエリーゼも口が裂けても言えず、曖昧に「なんだろうね。あたしゃ聞いたこともないよ」と噓をついて誤魔化した。


 フランツは白い手袋をはめた右手を残念そうに撫でながら、引き起こそうとしたこの手は残念ながら振り払われてしまいましたが、と呟いた。

 なんだろう。帰ってもらってもいいですか、とエリーゼは喉の奥から言葉が出そうになるのを必死で押しとどめる。


「その日、自宅に帰ってトットトウセロについて調べてみたのですが。兄はもとより、使用人は聞いても教えてくれず」


 そりゃ誰も教えられんだろう。使用人は知っていても、口を噤むはずである。

 少々話がトットトウセロの意味の追求に脱線しかけているので、エリーゼは話を本筋に戻すために一つ咳払いをする。


「ん、んん、ん、んっ。ええと、取り合えずその多分平民の娘に一目ぼれしたってことだね」

「そうです!」


 フランツは美しい双眸を見開いて、机越しにエリーゼに詰め寄った。ひどい圧を感じて、老婆はややたじろぐ。


「ええと、そしてお前さんは、その様子じゃ、その娘の名前も居所も、知らないということだね?」

「いえそれが」


 フランツは涼やかに首を横に振ると、居住まいを正し、パンパンと軽く手を打った。そうすると建付けの悪いエリーゼの家の扉が開かれ、小屋の外で待機していた従僕の一人が恭しく本一冊分もあろうかというほどの紙の束を差し出してきた。フランツがそれを受け取ってめくり始めると、従僕は部屋中を見回し、その後エリーゼに恭しく礼を取ると静かに扉を閉めて小屋から退出した。


 平民に礼を尽くすなんて驚きだ。


 主が主なら、従僕も従僕で奇妙なもんだね、とエリーゼは呟く。


「何か?」


 呟きが聞こえたのか、フランツはパッと顔を上げて紙の束から視線を外し、青色の宝石のような瞳をエリーゼに向けた。


「い、いや。ばあさんの独り言さ。この年になると独り言が多くてね。で、娘のことは何か分かったのかい?」


 恋愛占いをするには相手の名前、生まれた年、日付、貴族なら魔法の属性が必要だ。フランツの話から察するに、相手は平民の娘だろうから、恋愛となるとまずは身分の差の問題が生じる。つまり、占うまでもなくこの恋愛相談の雲行きはすでに悪く、占ったとしても良い結果は出ないだろう。よほど特殊な事情がなければ。


「そうですね。あれからありとあらゆる情報網を駆使して自分なりに調べてみたのですが、彼女の名前はおろか、出身地はもちろんわからず。出会った時の髪の色と瞳と顔立ち、家族構成や年齢、趣味や贔屓にしている商店や好きな本の作者、よく行くお気に入りの場所や休日の過ごし方くらいしかわかりませんでした」


「名前も住んでいる場所も…、え?ちょ、まっ。ん??なにがわかったって?え?わからなかったんだよね」


 聞き間違いだろうか、と耳に手を当てて聞き直すと、フランツは至極残念そうに首を横に振り別の言葉で同じ内容をもう一度繰り返した。


「彼女の本名や出身はわかりませんでしたが、彼女の外見などの身体的な特徴と、おおよその年齢や家族構成、いくつかの趣味やよく行く店、気に入って収集している本、休暇の過ごし方はおおよそ調査済みです」


 うわぁ、こいつマジでやばい貴族だ。


 絶対に関わりたくない部類の、変態に片足以上突っ込んでる、かなりやばいやつだ。


 背中から脂汗が出るような気持ちで、エリーゼは顔を盛大に引きつらせた。


「そ、そこまでわかっているのなら、直接会いに行って話をつければいいじゃないか。平民の娘に貴族の青年が話をつけるのは、王族に謁見を望むよりも簡単だろう」


 身分の差はあれど、人を使って探し出し、実際に対面することくらいはできるだろうという意味でエリーゼはやや上ずった声で尋ねた。


「え?国王の方が簡単ですよ」


 さらっと衝撃のひと言を口にした青年に、エリーゼは目を剥いた。


 このフランツ・ウェルディークとかいう人物、身分を伯爵家の三男坊とか女公爵が紹介してきて疑いもしなかったが、もしかしたら全く違うのではないか。


 人が外見や身分を偽ることはよくあることだ。エリーゼのこれまでの客にもいたし、エリーゼ自身もまたそうである。


 全身がこの目の前の人物と関わるな、と危険信号を発しだしたのと同時に、フランツは机の上の水晶玉を横に押しのけて、紙の束をどさっと置いた。そしてそのまま、エリーゼのしわがれた右手を軽く片手で抑え、にこりと笑ったまま口を開く。


「あなたは直接会いに行って話をすればいいと簡単におっしゃいますが、彼女は調べたところによると、想像以上に忙しい女性でした。平日の日中は朝から夕方まで働き、夕方になると孤児院へ炊き出しや買い付けた食料を山のように荷車に積んで運んだり。宮廷魔術師にも劣らない魔術の才能を生かして、魔獣が寄り付かない結界を平民区全体に張り、定期的に管理する日々。また別の日は、新しく市中に建設予定の平民向けの教育所や医療所の下見に行って、指示を出したり工事作業者や役人と打ち合わせや話し合い、資金の支払いや調達をしたり。豊富な資金を投入して新しい薬草を開発し、伝染病の蔓延を防ぎ、たくさんの人々の命を救いました」


 エリーゼはしっかりと動かないように固定されている自分の手が、少しずつみずみずしく明るい肌色に変じているのを見つめながら、凍り付いた笑顔を顔に張り付けた。


「身寄りのない子供たちに清潔で暖かな食事と衣服品、十分な衣料品と教育を施すために時には金に汚いと罵られようとも、盗賊に襲撃され金品の強奪の危険にさらされようとも、愚かな貴族に謗られようとも、ありとあらゆる手を尽くし、時には貴族を利用し、その伝手を有効活用し昼夜問わず身を粉にして働いている女性でした」


 エリーゼの頬の輪郭が明るく引き締まったものに変じ、髪の毛が先から少しずつ色つやを取り戻し始め、まるで魔法がかかったように美しい夕陽のような銅色に染まっていく。


 老婆の手のようだったエリーゼの手は一回り小さなものになり、年若い女性の肌質に変容する。


「エリーゼ、あなたです」

「ひょえっ」


 銅色の髪の下で、薄い金色の瞳が動揺するように大きく跳ねた。


 エリーゼは自分の手をフランツの大きく骨ばった手から逃げるように引っこ抜くと、椅子から立ち上がってじりじりと後ずさりし始める。


 フランツは静かに椅子から立ち上がると、一歩、また一歩とエリーゼに間合いを詰めていく。歩く度に粗末な小屋の床が音を立てて鳴る。


 狭い室内で逃げ場がなく、とうとう背中に本棚が迫る距離まで追い詰められたエリーゼは、にこやかに笑みを浮かべているのに獲物を狩る獣のような鋭い光を瞳に浮かべているフランツが怖くてたまらない。


 ついに、あと一歩というところに迫った時、エリーゼは観念して両手を突き出して空間を作りぎゅっと目を瞑るとまくし立てた。


「ご、ごめんなさいごめんなさい!!トットトウセロなんて言ってごめんなさいいいいいい!!老婆に扮して貴族から法外に巻き上げてごめんなさいいいいい。でも占いは本当に生業としてちゃんと神経にやっていて、そこは嘘なんてついてないんです!!」


「エリーゼ」


 フランツの声がエリーゼのすぐ頭上でかかり、手が伸ばされる気配がしてさらに身を固く縮めた。が、首を絞められて殺されるのだと思っていたエリーゼは、予想外の方向に体が動いて目を丸くした。


 体が暖かく包み込まれ、あやすように背中に手が添えられる。


「え」

「君を探していたのは、罪に問うためではなくて、話をしたかったから。子供を助けて、貴族に立ち向かう女性の瞳が強く心惹かれたから。誰もが目を背けてしてこなかったことを、たった一人、ただ君だけが向き合っていた事実を知って、私は君にトットトウセロと言われても仕方がない生き方をしていたんだと、はじめて気が付いた。私は、君に会いたかったんだ」


 抱きしめられる格好のまま、訳も分からず頭の上から静かな声が降ってくる。


「調べていくうちに、直接会いたいという気持ちが抑えられず、女公爵に仲介を依頼して騙すようなことをして申し訳なかった。知れば知るほど、会ってみたかったんだ」


 エリーゼが目をぱちくりさせていると、フランツは少しだけ腕の力を緩めて自虐的にほほ笑む。訳が分からないと、情報を整理できていない状態の十七歳ほどの年齢の少女を困惑させている自分が情けなくて、フランツは長く細い溜息を吐いた。


「ひとまず、調べてもどうしてもわからなかったことが一つだけあるんだけど」


 当惑するようなフランツの声に、頭が混乱してかき混ぜられたまま、エリーゼはつられるように視線を上げた。青玉の瞳が、困ったようにエリーゼに注がれる。


「君の、本当の名前は?占いではわからなかったんだ」



***

 これより三年後のことである。


 国民の困窮に平民であるにもかかわらず、自らの身の危険を厭うことなく救いの手を差し伸べた聖女、エリーゼ・フォン・ユルヴェイユはその功績を認められ、女公爵の養女となる。


 そして翌年、のちに名君として歴史に名を遺すフランツ・ツヴァイス・ウル・ド・ウェルディーク・リア・アステマルの人生の伴侶として永く語り継がれる存在となるのだが、それはまた別のお話である。

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