chapter.9 / されど言葉は踊る

 は、薄く淹れた紅茶の髪の毛と春の花のような明るい桃色の瞳の女性だった。


「お待たせしてごめんなさいね。急なご訪問だったから、十分ご用意ができていなくて」


 できるだけ冷たくならないように気を配りながらアンテリーゼは、招かれざる客にエヴァンゼリンを意識して柔らかそうな笑みを浮かべた。


 ユイゼルゼはいつもよりやや硬質な主の声音に複雑そうな表情をしたが、きれいに打ち消して、来客に紅茶を提供していたエリーゼに下がるようにそれとなく指示を出す。


「いえ。あまり待ってはおりませんので、どうぞご心配には及びません。それにしても素敵なお屋敷ですわね」


「お褒めいただいて嬉しい限りですわ。さて、本日はどのようなご用向きでしょうか?セレーネ・ユドヴェルド男爵令嬢」


 猫脚の長椅子から立ち上がって令嬢の会釈で礼を取るセレーネのくるりと巻かれた頭髪を離れた場所から見つめながら、アンテリーゼは顔を上げた彼女に再び儀礼的に椅子をすすめる。


 立ち話も無礼だからという社交辞令であるため、大抵の常識のある貴族は立ったまま用件だけを伝え、重要であれば再度、迎えた側から椅子を促された場合のみ腰を下ろすものだが。


 セレーネは挨拶もそこそこに、という様子で椅子に腰を掛けた。


 ユイゼルゼが軽く視線を天井のシャンデリアに移動させて、一礼して退出するのを横目に、アンテリーゼは心の中で深くため息をついて彼女の向かいに腰を下ろした。


 この部屋は屋敷の右手にある、表敬訪問客を主に迎え挨拶をするためだけの部屋で、貴族の邸宅には大抵この類の簡素な部屋が用意されている。大して広くもない事務的なやり取りをするだけの部屋なので、調度品は家格や身分に合う品の良いものをある程度厳選して置くに留め、茶会などは別室で行うためテーブルも椅子も装飾の少ない簡素的なものばかりだ。


 アンテリーゼが席に着くとユイゼルゼが数人の使用人を伴って現れ、真新しい茶器を用意し、丁寧に紅茶を注ぎ提供した。アンテリーゼはそれに手を触れないまま、膝の上で水色のレースの手袋を嵌めた両手を組んで、セレーネへ質問の回答を求める。


 セレーネは歓迎されるとでも思ったのか、やや驚いたような表情でアンテリーゼを一瞬見つめたが、再びにこやかに笑みを深めて紅茶を口に着けると、ゆったりとほほ笑んだまま口を開いた。


「本日はお祝いを申し上げようと思い、参上した次第ですわ」


「あら?何か特別なお祝いをいただくようなことがあったかしら?」


 アンテリーゼのこれまでの死に戻った記憶を手繰り寄せると、彼女はすでにマルセルから婚約することを聞かされている。花束に毒を仕込んでアンテリーゼを殺害したりしてきたのだから、今回も何をしでかすかわからない。


 アンテリーゼがとぼけたように小首を傾げると、セレーネはティーカップを机の上に置き、両手をパンと軽く叩いた。目上の貴族の目の前であまりにも無礼なその行動にアンテリーゼは驚いて目を丸くしたが、それに気を良くしたのかセレーネはやや居住まいを正し、背後に控えていたらしい侍女を呼び出した。


 彼女はセレーネに丁寧に布に包まれた何かを差し渡し、すっと背後の壁際に下がる。


「こちらを是非、アンテリーゼ様に」


 言いながら、セレーネは包みをほどくと、中から手のひらほどの大きさの四角い箱を取り出してテーブルの上に滑らせるように置いた。青い革が張られている金色の角ばった螺旋が金刺繡で縫い込まれている豪華な箱で、中身を見なくても十分高価なものだというのがわかる。


「これは」


「わたくしからの、婚約のお祝いの贈り物ですわ」


 言いながら指で箱の頭を撫でるセレーネを警戒しながら、相手にそうと気取られないよう慎重に言葉を選びながら抑揚のかけた声音で疑問を口にする。


「いただく理由がございませんわ」


 親しい友人ならともかくも、セレーネとは社交の場でマルセルや他の友人を交えてほんの数回話をしたきりだ。もちろんその際は、マルセルやその周辺にとって仲の良い令嬢の一人だという認識しかなく、まさか自分の婚約者と密会を重ねていたなど想像だにしていなかった。


 顔見知り程度で社交辞令的に数度会話をしただけの間柄のため、見るからに高価そうな贈り物を受け取る理由も、相手がアンテリーゼに贈る理由もないはずだ。


 それに令嬢同士のお祝いの送りあいは金品や宝飾品ではなく、花束や焼き菓子、流行のリボンや刺繍のハンカチであることが一般的であるので、セレーネの行動はその範疇から大きく逸脱し異質さばかりが目立つ。


「まぁ、そんな風におっしゃらず。是非、こちらをご覧になってからお決めになっては?」


 いつまで経ってもセレーネが指も触れようとしないことにしびれを切らし、彼女は箱をそっと開く。ゆっくりと焦らすように開けられる箱の蓋が開き切ると、虹色の光を拡散させて輝く、とても見事で美しい耳飾りがそこにはあった。


「あ」


 息を呑むアンテリーゼにセレーネは深く頷いて、耳飾りを一つ取ってよく見えるように手のひらに乗せて差し出した。


 花束を無理矢理押し付けられて仕込まれた毒によって絶命したことがあるアンテリーゼは、危険を予期してやや怯えたように後ずさったが、そんな彼女の姿を見てセレーネは声高らかに笑った。


「ただの耳飾りですのよ?噛みつくはずがございませんわ」


 嘲りの感情を滲ませながらセレーネはうっとりと耳飾りを自分の方に引き寄せ、虹色に輝くその美しい輝きに魅了されたように見つめる。


「美しいでしょう。ため息が出るほどの輝きでございますわよね。わたし、こちらの耳飾りをこの度の婚約のお祝いに是非、アンテリーゼ様に差し上げたくて本日参ったのですわ」


 軽い執着があるような寂しげな横顔に違和感を感じながら、アンテリーゼは彼女の言葉の続きを待つことにした。


「実はわたし、以前からお付き合いをしていた方と今年婚約をするはずだったのですが、彼にはすでに結婚を約束した女性がいて、公的な手続きが済んでしまっているので、それを解消するまで婚約はできないと言われてしまったのです。彼は親同士が決めた婚約で、精霊の導きによって出会ったわたしの方を愛していると言ってくださったのですが、春の短さはアンテリーゼ様もお分かりになりますでしょう?」


「……それは、悲しいことね」


 感情をこめず、平坦な声で応じたのだがセレーネは目元を指先で拭い、頷いただけだった。


「わたし、婚約式の際にその方に贈っていただいたこの耳飾りとお揃いの首飾りを身に着けることがずっと夢だったのですが、すぐには叶いそうにないと知ってとても心が苦しくて」


「そんなに大切な耳飾りでしたら、その方と恋を成就されるまでご自分でお使いになっていてもよいのではないですか?わたくしがいただく理由も特にございませんし……」


 マルセルとセレーネが婚約者であるアンテリーゼに隠れて交際をしていた事実など、今となってはどうでもいいことだが、目の前で個人名を明らかにしていないとしても暴露されるのは気持ち良いものではない。それに、婚約者がいると知り、婚約式が行われることを知っているのに、自分が選ばれて当然だと逢瀬を重ねていると自白しているセレーネの品位のなさにも気分が悪い。


 アンテリーゼのやや刺すような声に、セレーネは顔を上げて首を横に振った。


「わたしも最初はそう考えていたのですが、耳飾りだけなんて見栄えが悪いではございません?私の恋人は他の意匠で首飾りを新調してくださると言ってくださったのですが、わたくし、どうしても揃いに作られたというその首飾りが忘れられなくて」


「あら?恋人の方は耳飾りと首飾りを一緒に贈って下さったのではないの?」


「え?」


 セレーネの口ぶりだと、首飾りと耳飾りを両方持っていて、その両方を揃いで身に着ける婚約式が楽しみだったのに、恋人とすぐに式を挙げることができず身に着けられないと言っているように聞こえた。だが、彼女の口ぶりだと、自分に与えられたのは耳飾りだけで、揃いの首飾りが贈られず不満を持っていることが伺える。


 そして、彼女は如何にしてかは不明だが、アンテリーゼが自分が欲しがった首飾りを持っていると知っている。


 おそらくはマルセルの部屋か何かで首飾りと耳飾りの両方を見つけたか、見せられて、両方自分のものだと考えたのだろう。それなのに、首飾りは与えられず、自分に渡されたのが耳飾りだけで、アンテリーゼが持っているとあたりを付けた。そんなところだろう。


 正式に婚約が解約されたとしても、婚約者からの贈り物には送り主への返却の義務はない。アンテリーゼとマルセルが婚約を破棄した後、首飾りがマルセルに返却されることはないとわかっている上でセレーネは策を練ろうとしたのだろう。


 それほどに首飾りに執着しているのか。浅い考えの彼女が何を考えているのかはわからないが、ここで耳飾りを譲り渡してアンテリーゼに恩を売っておけば、マルセルから「生真面目で融通が利かない」とでも言われている彼女が婚約破棄後に律義に耳飾りと首飾りを返すとでも思ったのかもしれない。


 もし何も知らず、何も起きず、マルセルと婚約破棄となっていたなら、確かにアンテリーゼはこれまで贈られた装飾品をすべて彼に返していただろうとは、我ながら予想できる。


 それとも、彼女は王室が行方不明になっている宝飾品の在処を探しているという情報をどこかで得て、アンテリーゼに罪を被せる為に「譲る」ということで、一度自分の手から放しておこうと考えたのか。


 どちらにしろ、全てが遅すぎる。


 アンテリーゼは彼女が固執している首飾りが自分に与えられたあの雫型の首飾りであると仮説を立てながら、わざわざ驚いたふりをして問うた。


「それでしたら尚のこと、その方が婚約を正式に解消されるのを待って、お揃いの装飾品を身に着けて式を待たれるのがよいのではないかしら?」


「あ、えっと、その」


 するとセレーネは明らかに動揺して、視線を泳がせてもごもごと何かを呟いているのだが、残念ながら少し距離があるせいで彼女が何を言っているのかは不明瞭である。


「ユドヴェルド男爵令嬢、再度申し上げますが、わたくしはお祝いの品をいただく理由がございません。それに、そんなに思い入れのある耳飾りでしたら是非、ご自身の婚約式の際まで大切にされて、その日にお使いになればよいのではありませんか?すぐに希望が通らないからと、大切なものを人に与えてしまうのは勿体ないと愚考致しますわ」


 片方だけ残されたキラキラと美しく輝く瑞々しい耳飾りに視線を留めながら、アンテリーゼはきっぱりと言った。


「あ、あの、でも、わ、わたしは。その。お祝いの、品として、その、こちらを差し上げたくて」


 アンテリーゼは氷のような意志を相手に気取られないように、にこりと笑みを零して指先で箱を押し返した。


「いいえ。そんなに思い入れのある大切なもの、いくら美しく素晴らしいお品だからと言っていただくわけには参りませんわ。大切な方との思い出を奪ってしまうようなものですもの」


 セレーネは完全に言葉を失ったようで、あぐあぐと口を開閉させ、目を白黒させている。


 そんな彼女の挙動に気づいていないふりをしながら、アンテリーゼは「最高に幸せな婚約が決まった令嬢」の笑顔でセレーネに一つの提案をした。


「お祝いのお気持ちだけお受けさせていただきますわ。それから、わたしのささやかな我儘なのですけれど、このご好意のお礼に明日の婚約式には是非出席してくださると嬉しいわ。この素晴らしい耳飾りを是非つけていらしてくださいな」


 好意にという意味を含めたアンテリーゼの一言に、セレーネ・ユドヴェルド男爵令嬢は何も知らないまま、晴れ渡る空のような笑顔で即座に返答したという。

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