第8話 続・アイスの棒

 僕は人間の姿の時だけ開く汗腺から液体が滲み出てくるのを感じた。

 兄は剣呑に目を細めている。


「ただ、何だって?」

「いや、誤解っていうか……」

「僕の大事な弟は、女の子が食べたアイスの棒を道端で拾ってねぶり回すような変態だったんですかねぇ?」

「そういうこと言う方が変態だろ」


 僕に対して敬語が出てきたらもうダメだ。


「拾ったっていう割に、土とかアスファルトとかの匂いが弱いんですけどねぇ? 女の子の花の如き口元から変態の口に入るまでに地面を経由していないっぽいんですよねぇ?」

「うるせえよ、細かいことをうだうだと」

「では細部まで推測が当たっていたということですねぇ? 相手は誰なんでしょうねぇ?」


 兄の目のまわりがどす黒くなり、耳が毛深くなってじりじりと上へせりあがっていく。マズルが伸びて牙がチラ見えする。

 僕は観念した。


「ごめんなさい、その棒は、彼女と二人で食べたやつです」

「はぁ?」

「黙っててごめん」


「彼女……今、彼女って言った?」

「……うん」


きょとんと変化を止めたあと、美しい目がぎりぎりと嫉妬をたたえて醜く変わっていく。そして、辛うじて人間の声でさらに尋ねてくる。


「彼女って……タヌキ?」

「うん、一応」


 そこまで言うと、兄は膝から頽れた。

 ショックのあまり人間の姿を保てず二本足で立てなくなったというのがもっと正確な表現かもしれない。


――があああああああぁぁ!!!!!


 風船でいっぺん膨らまして踏んづけて割ってから、もう一回おざなりに膨らませた感じのタヌキが兄の着衣から顔を出し威嚇の声をあげた。

 僕は少し離れたところに正座した。板の間が痛い。


「だってさ、仕方ないじゃん……僕ら、そろそろ相手がいたっておかしくない歳じゃん」

――ぎいいいぃぃぃぃ!!!


 兄は怒っているというよりは悲憤やるかたなしといった様子で、流しの下に敷いてあるキッチンマットの端を咥え丸太のように転がり始めた。

 醤油や油の染みがあるマットはくるくると巻き取られ、タヌキのキッチンマット巻きが出来上がる。

 唸り声と共に今度は逆に転がって、またキッチンマットを広げて敷きなおす。

 またぎぃぎぃ言いながら巻き取る。

 また広げなおす。

 それを延々と繰り返す。

 見ていると最初は興奮に任せた手荒さがあったが、だんだん丁寧になっていく。


「兄ちゃん……何やってんの」


 恐る恐る声をかけると、ニホンタヌキ語で答えが戻ってきた。


――いや、これ、けっこう面白い

「目、回んないの」

――ちょっと回るけど楽しい……ほーら、ぐるぐるぐるぐるー

「あの、ごめん、さっきの話は」

――何の話だっけ

「彼女の話」


 簀巻き状態の兄の動きがピタッと止まった。十秒待っても動かなかったので、僕は立ち上がってキッチンマットの端っこを掴み、振って転がした。変な顔をしたタヌキがクレオパトラのように現れる。


「兄ちゃん、彼女、ほんとにいい子なんだよ」

――……

「僕、彼女とのことは真剣なんだ。将来は結婚したいと思ってる」


 兄は若干目を回しているようで吐きそうな声を出した。


――僕みたいなブサイクが肉親にいても、その子はわかってくれるのかな

「兄ちゃんのことも話してあってさ、遠くから見せたこともあるんだ。わかってくれてるよ」


 兄は泣き出した。涙腺の構造が違うので人間のようにぽろぽろ涙は出ないが、もうひたすらブサイクに泣いている。


――僕を見捨てて、可愛い嫁さんと幸せな家庭築くってやつか!

「見捨てるとかじゃないって! 結婚はまだ先だし」

――お兄ちゃんをを見捨てるなあああああ!!! ぎゃあああああああ!!


 またひとしきりキッチンマットで憤りに任せて遊び出す。

 やっていられないので、僕がたんぽぽコーヒーを淹れてソファで飲んでいると、兄はやっと我に返って苦渋に満ち満ちた顔を痙攣させながら、ふらふらと近づいてきた。


――認めなきゃとは思う

――自分がどんなに惨めで情けないこと言ってるか、わかってるんだ

――だけど、やっぱり一人で放り出されるのはつらい

――自分がこんな情けないやつだっていうのも苦しいんだ


 そう言葉を絞り出した後、兄は盛大に吐いてぶっ倒れた。

 僕は雑巾と新聞紙を持ってきながら、やっぱり目が回ってたんだと思った。

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