第2話 もうちょっと普通に
もう初夏だ。
だいぶ暖かくなった、というよりなかなかに暑い。
我が家は都市の郊外にあり、外れの方だ。
まわりには植え付けが終わった田んぼがいくらか残っているが、来年あたりから整地作業が始まって小規模な分譲住宅街になると聞いた。だから、この田んぼや農業用水路を
小さな鎮守の森では不如帰はとっくの昔に忍び音を漏らしまくり、今は早熟なセミがおずおずと鳴いている。
今日は日曜日。
僕は居間の掃き出し窓の真ん前にある物干し場で洗濯ものを干す。
青い空の下、白いシャツが眩しい。
風に揺れるのはリネンのシーツ。干す前によく叩いて皺を伸ばしたシーツが風を受け翻るのを見ると、達成感を感じる。これは麻素材の生成りで、灰色がかったベージュ。伊達や酔狂でこの色を選んだんじゃない。抜け毛が目立ちにくく、汚れにくいからだ。麻のシーツは乾くと少し硬くなり、小さなしぼが寄る。アイロンをかけずにそのまま布団にかけて寝転がると、そのざらっとした感触に落ち葉の寝床を思い出す。その人工と野生のクロスオーバーする感覚がすごく好きだ。
干し終わって居間に戻ると、兄が朝食を摂っていた。
「おはよう兄ちゃん」
「おはよう」
形のよい手で箸をあやつり、しずしずと食べているように見える。
しかし、僕が手で狐の窓を作って覗くと、毛並みの悪いタヌキが椅子の上に立ち上がり、申し訳程度に箸を掴んだ手をテーブルについてがつがつと犬食いしている。これはしょうがない。僕もそんな感じだ。
「兄ちゃん、もしかして、カラスノエンドウ炒めたの全部食べた?」
「うん。おいしかった」
「あれ、昼ご飯にラーメンのトッピングにしようと思ってたくさん作っといたんだけど」
「ごめん、残り物だと思って」
兄はちょっと悪びれた顔をする。こっち見んな色男。自分の顔面がどれほどの美しき凶器であるかこの男はいつになっても自覚しない。自覚されたらされたでキモいしムカつく。多分殴ってしまうだろう。これが
兄は、個人の恋愛における指向性を無理矢理捻じ曲げるほどの美貌を持っていて、また性格も実に平凡で素直、少し臆病なところがあざとくてけしからん。
しかしさっき覗いた狐の窓の向こうに見えた正体は、タヌキの同性には指をさされ、異性には裸足で逃げ出される不細工ダヌキ。親にすら「かっこよくとは望まないけど、せめて普通くらいのご面相に生まれてくれればねえ」と溜息を吐かれる始末だった。
数年前、親戚の集まりでご馳走を食べていたとき、話が容姿のことになった。その瞬間、兄は大好物の柿をぽとっと落として、悄然とどこかへ消えていった。あの寂しい背中を思い出すたび、兄には優しくしてやろうと思う。
それはさておき、親にまで言われるようじゃここにはいられない、と兄は若いうちに人間社会へ潜り込む決意をし、猛勉強した。
僕もいやいやながらついていくことになった。だって兄がみっともなく泣いて寂しがったから。まったく、肝が据わっているのかいないのかよくわからない。
しかし、大きな誤算があった。
僕らは他の動物へ化けたとき、タヌキとしてのもともとの美醜と反比例した姿になるというのは知らなかった。
あ、でも、知らなかったというのは盛りすぎかもしれない。
幼い頃、爺様ダヌキがちょこっとそんな話をしていたような気がする。しかしみな標準的な姿かたちをしているタヌキばかりだったので、化けてみても結局は十人並みの容姿となり、検証するには至らなかった。ずば抜けて美しかったり醜かったりした個体がいなかったんだ。
そして超弩級の不細工ダヌキである兄が巣穴の前で人間に化ける練習を続け、やっと成功したとき。
今度はぼくら家族が全員、食べていたザリガニを取り落とした。
なぜだかわからないが、魔法少女のような光芒と彩雲が兄の体を包んでいる。
僕らが化けるときはぽんっと煙が少量出る程度なのに、何だろうこの差は。
そして光の中から現れたのは、銀幕にもこんなのいねえよと断言できる超絶美少年のホモサピエンスもどきだった。
そのときはまだ耳も尾も隠せていなかった。
全裸にタヌ耳とタヌ尾をつけたホモサピもどき美少年はおもむろに巣穴に入ろうとしたが、もちろん入れない。タヌキとは体のサイズが違う。
焦った様子の兄が発した最初の言葉はこうだった。
「ザリガニ、僕の分は?」
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