春を迎えに
泉水 亮
蕾
阪神競馬第12R、確定の音楽が鳴り響く。
最終レースまで残っていた観衆たちが、仁川駅へと向かう専用歩道橋を一団となって進んでいく。
歩道橋の両脇に見える満開の梅の花が一足先に春の訪れを告げていた。
そしてその木々の隙間からわずかに差し込む木漏れ日が、光の糸となって歩く人々に降り注いでいる。
光の糸につつかれて群衆に揉まれながら帰路につく鳥が一羽。
名はR.B.ブッコロー。ミミズクである。
「なんで馬連にしたんだろう…ワイドにしとけば当たってたのに」
「僕はトリガミだったよ」
と、競馬仲間のNが返す
仁川駅から大阪梅田駅方面へ向かう電車は競馬帰りの客で満員であり、勝った者の顔と負けた者の顔が対照的なのは見ていて興味深い。
「晩ごはん何食べる?」とブッコロー。
「今日は負けたし、立ち食いうどんにしようか」
ずいぶんと味気ない生活を送るようになったものだ。
かつては、関東を中心に展開している有隣堂という書店が配信するYou Tube チャンネルでメインMCを担当し、かわいらしい見た目から飛び出す歯に衣着せぬ物言いで一世を風靡したのだが、そのチャンネルが終了して早や5年。今となっては友人と競馬に入り浸る日々である。
当時はチヤホヤされもしたが、今はミミズクの姿であってもなんら関係なく周りの人間と同じようにごく普通に街を歩くことができている。
大阪梅田駅に到着し、Nと共にうどんをすすった後、Nは用事があるからと足早に帰っていった。
自分もすぐに帰ろうかと思ったが、独りなんともなしに帰ることが憂鬱に感じられたので少し散策することにした。
日曜日の18時、大阪の中心である梅田は多くの人でごった返している。
あまりの人の多さに目まいを催しそうになりながらも、人の流れに乗ってたどり着いた先は大きな書店であった。
本屋に入るなどいつぶりであろうか。
入ってまず向かった先はやはり競馬本コーナーであった。昔はよく大きなデータベースを購入して読み耽ったものである。
競馬本を一通り立ち読みした後、もう帰ろうかと出口の方へ歩いて行くと、平台に一冊の文庫本が置かれているのが目に入った。
おそらく誰かがそれを手にとってはみたものの、文庫棚に戻すのが面倒でそこに置いて帰ったのだろう。
特段目立つような装丁ではなかったが、周りに置かれている雑誌とは対照的な色であり、気にならずにはいられなかった。
そして好奇心のまま手に取り、裏表紙を見てみるとどうやら海外の文学作品らしい。
久しぶりに小説でも買ってみようとその本を片手にレジに並ぶ。この自分が読み切れるかどうかは全く不明だが、突然の出会いに僅かながら運命的なものを感じたのだ。
本を購入した後、いつものごとく一服して帰ろうと、とある商業施設の屋上にある喫煙所へと向かった。
直通エレベーターを降り、屋上へと繋がる重いドアを思い切り引くと、ギィときしむ音が号令となり冷たい夜風が総攻撃とばかりに全身に押し寄せてきた。
その屋上の喫煙所からは昼の天気の良い日には、遠くに力強く脈々と連なる六甲山を眺めることができ、夜は再開発が進んだ大阪駅周辺の夜景が都会の夜空の代わりとなって星のように一面に広がる。
その日は天気が良かったことも相まってまばゆい光がより一層艶やかに輝いていた。
光の海を眼前に捉えて、ブッコローは慣れた手つきで煙草を一本取り出して口にくわえた。
ライターを出そうとポケットを探っていると、隣でベンチに座って煙草をふかしながら本を読んでいる若い青年が目に入った。喫煙所には彼一人だった。おそらく大学生だろう。
若い青年が一丁前に煙草をふかし、本を読みふけっている姿は少し鼻につくものがあったが、ブッコローが隣に座っても微動だにせず本の世界に入り込んでいる様子にブッコローは素直に感心した。
ブッコローはライターを探るのを止めて控えめな声で青年に尋ねた。
「ライター、貸してもらってもいいですか?」
「どうぞ」
感じの良い笑顔とともに黄色いライターが手渡された。
夜気に冷えた手で煙草に火をつけてひと吸い。
「ありがとう」
青年はさっきの笑顔で、今度は何も言わず軽く会釈をしてライターを受け取った。
ブッコローの煙草が残り半分くらいになったところで青年は立ち上がり煙草を捨て喫煙所から去っていった。
ブッコローも残りの煙草を吸い切って立ち上がろうとしたその時、青年の座っていた奥にさっきブッコローに貸してくれたライターと本の帯が置き忘れられていた。彼が読んでいた本のそれだろうか。
すぐに届けに行こうと思いたったが、立ち上がってもう間に合わないことを悟った。
ブッコローはもう一度ベンチに深く腰を下ろした。
煙草を一本取りだし、青年が忘れていったライターで火をつける。ぐっと身体をのけぞらせ、空を見上げながら煙草をふかした。
今は風がなく、煙は一本の筋となって夜空へと消えていく。
さっきの青年と煙草、そして彼が読んでいた本について思案していると、自分も本を購入していたことを思い出し、袋から取り出してみて、その勢いのままページを開いたみた。
気がつけば冷たい夜気も、持っている煙草も、日曜日の夜の憂鬱な気持ちもすべてを忘れてページを繰っていた。目の前に物語の情景が広がりその中を自由に飛んでいるような感覚だった。
50ページくらいを読み終えたところで、見たことのある人影を目の端に捉え、ふと我に返った。顔を上げて見るとさっきの青年であった。
「僕、忘れ物してませんでしたか?」
「これだよね?」
隣に置いていた本の帯とライターを手渡す。
「あ、ライターはさっきコンビニで買ったのでよかったらブッコローさんに差し上げます。」
「ありがとうございました」
礼儀正しく深々と辞儀をして去っていく。
その後ろ姿を見つめながら、貰ったライターをそっとポケットにしまい込んだ。
「そろそろ帰ろうか」
小さくつぶやいた。
しばらく本と向き合っていたので少し疲れも感じていたが、清々しく気持ちの良い疲れであった。と同時に今までまるで感じたこともなかったような高揚感で胸がいっぱいだった。
明日はどんな物語が待っているのだろう。今日はよく眠れそうだ。
春を迎えに 泉水 亮 @YoTorino
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