オクトパスズ・ガーデン

大垣

オクトパスズ・ガーデン

「これが八重子が四歳のときぐらいじゃないかな」

「あそこの空き地の所でしょ」

「そう、もうアパートになってるけどね」

 食後に父親がテレビに映したのは、八重子が兄と一緒に高い声をあげながら虫取りをしている映像だった。古本のように色褪せたVHSの映像はかつての過去そのものだった。

 八重子は新しく転職先が地元の方に見つかり、退職してから再び働き始めるまでの短い間、東京から地方の実家に帰っていた。

 実家は好きだったが地元と言っても広い県なので、結局のところ家族と一緒には住めず、また一人暮らしになる。しかし一昨年の夏頃から体調を崩しがちな母親の元へ車で一時間もあればすぐに駆けつけられるのは八重子にとって十分に安堵出来ることだった。

 八重子が転職を決めたのはその母親の体が理由でもあったが、それよりも以前から八重子は今までの仕事に疑問を持ち続けていた。

 二十二歳の時、新卒で入社して三年ほど勤めた証券会社での営業の仕事は、確かに毎日日頃あまり見ないような額のカネを動かしていた。地元を出て東京の中心のオフィスビルで働くということにある程度のステータスを感じたし、周りの同級生と比べて自分が良い暮らしをしているのではないかという俗な優越感もあった。

 しかしながら実際は実に慌ただしい日々だった。毎日パソコンのモニターに映し出される無機質な数字が刻々と変化していくのを気にしたり、顧客へ株式の購入をひたすら提案したり、そのための資料を作ったりして、残業も多く、中々気の休まることはなかった。

 市場の情報や動向など勉強しばければならないことは多くあったが、それがただ「カネ」という不鮮明なものをぽんと魔法のように中空へ生み出すことにしかならないと思うと、その時間もやりきれなくなっていった。

 誰かが仕事はやりがいではなくて毎月の生活費を得るためのただの手段に過ぎない言ったが、八重子はそんな風に割り切ることが出来ずに、次第にその自分の行為が一体何の役に立っているのか、あるいは何をこの世界に生み出しているのかということを考えずにはいられなくなってしまった。

 そんな思いが胸中に毒素のように蓄積していき、八重子は転職を決めた。

 転職先は以外にもすぐに見つかった。実家のある県と二つの隣県を中心に、タウン情報と広告を扱う雑誌の出版をする会社で、証券会社に比べればとても「現実的」な会社であることを八重子は喜んだ。証券会社を去るとき八重子には一切の残情がなかった。

 いつでも帰って来て、と母親が嬉しそうに言った。八重子もそのつもりだった。母親は八重子が帰って来てから顔色が良くなった気がした。

 久しぶりにゆっくりとした時間を家で過ごすと、八重子はとても安心した、幸福な気持ちになった。昔自分の使っていたベッド、机、何回も読んだ漫画、本、部屋の中を抜ける風、そして町。あらゆる過去のものが母親と同じように優しく八重子を包んでいた。


 気付けば再就職まで一カ月ほどになり、八重子は転職先の不動産屋と二度ほど往復してアパートを決め、引っ越しの準備をしていた。

 不動産屋から鍵を受けとると、少しづつ荷物を父親のワンボックスカーに積んで移動させ始めることにした。

 父親が休みの土曜日に、テーブルやテレビなどを車に載せ、午前中からその運転する隣に乗った。新しいアパートまでは大きな国道を走って一時間ほどだった。

 父親はビートルズや昔の洋楽が好きで、この時はザ・フーの初期のアルバムがかかっていた。

「東京に戻りたくなってないか?」と父親が聞いた。

「別に。東京なんか、面白いんだか面白くないんだか」と八重子は答えた。

「それにしてもやっぱりびっくりしたなあ、八重子が会社辞めたなんて言った日には」

「今の時代、普通だよ」

「そうなのか、俺は本当に自分の働いてる病院のことしか知らないから」

 もうこの話は何回もしていた。父親は八重子や母親に比べてよく喋るが、大抵の話にあまり興味は持てない。八重子はいつもふうんと、適当な相槌を打ってばかりだった。

 父親は本当に真面目な仕事人間で、休みの日でもよく勤めている病院に仕事をしに行ったり自宅で勉強していた。それが父親にとっては生きる活力のようだったし、八重子は大人になってから初めてその勤勉さに気が付きある種敬服した。

 八重子は窓の外を見た。懐かしいような、そうでないような、これまで何度も見てきた景色だった。

 澄み渡る青空の下、広い河川敷で子供たちが野球をしていたり、年寄りらがグランドゴルフをしているのが小さく見える。コピー・アンド・ペーストしたかのように昔から何一つ変わらない光景だった。

 八重子が流れ行くそれらを眺めていると、その河川敷の草むら、濃い藪の生い茂った中に、反射する何かがあるのに気がついた。八重子がよく見るとそれは朽ちた乗用車だった。車は左右のドアが大きく開かれていた。

「車だ、あんなところに」八重子はぽつり言った。

「あの車ね」と父親が答える。車はそう言っている間にどんどん小さくなってそのうち見えなくなってしまった。

「ずっと前からあるよ」

「不法投棄?」

「いや、人が住んでたよ。今はどうかしらないけど、ホームレスみたいな人が居た。無理矢理あそこまで車を持ってったんだな」

「あんなところにね。それだったら生活保護でも貰ったらいいじゃん」

 八重子は無責任に言った。

「あんなところだからいいんじゃないか」

「そうかな」

「昔、お父さんの病院にもああいう人が連れてこられることがあったよ。でもしばらくするとふらっとどこかへ消えちゃうんだ。どこの組織や環境にも居たくないのか、居られないのか、まあいわゆる世捨て人だな」父親はそう言った。

 八重子はまたへぇ、と気の抜けた返事をした。窓の外の景色は海へと移る。広く、深く、青い海だった。


 八重子は新しいアパートに荷物をあらかた移動し終えると、そこで荷解きをしながら泊まってみることにした。それなりに綺麗なアパートで、東京のそれよりも圧倒的に広く安くて、静かで居心地は悪くなかった。

 車は母親の乗っていた古い軽自動車を譲って貰った。その車でしばらく家財を調達したり生活に必要なものを揃えたりでやることはそれなりにあったが、それでも一週間を過ぎると段々と落ち着いてきた。

 八重子は見知らぬ町をゆっくりと散歩した。実家に戻ってからというもの、なんてことない町の木々の緑や空の青を見ることが仕事に追われていた身によく染み込んでいた。鳥の声や、草の匂いを感じることを忘れていた自分に気が付き、まるで幼かった時のように八重子の感覚は蘇っていった。これらの身近な自然を美しいと思える心をいつまでも残しておきたいと八重子は思った。

 八重子は窓を開けたまま、その傍に座って本を読んでいた。しばらくしてから視線を上げ、ぼんやりと隣家のブロック塀から伸びる金柑の木を眺めていた。その枝がカワラヒワで僅かに傾いた時、八重子の胸中には何故かあの時の、父親の車に乗っていた時に見つけた茂みの中に捨てられた車が浮かび上がった。

 翌朝早く、八重子が気付いた時には車であの車の元へ向かっていた。


 河川敷に適当に車を停め、八重子は深い茂みの前に立っていた。横からだと車は全く確認出来なかったが、上にある道路からおおよその位置を見当した。

 一体自分は何故こんなことをしようとしているのだろうかと、八重子は不思議に思ったが、それは好奇心と自分が惹かれる「信号」をあの車が発信していたからだと考えた。「信号」は、日本で生まれ、この時間まで生き、これまでのような人生を送ってきたもののみが──すなわち「八重子」という唯一の人間がこの時間軸の中であの「信号」を最も「受信」しやすい状況にたまたまあったのだ。八重子はそう考えた。

 あの車の中に、本当に人間はいるのだろうか。ただの不法投棄で、行政も撤去するのが面倒くさく、特に誰にも迷惑をかけているわけではないので見て見ぬふりをされているだけの廃車かもしれないし、もしかすると白骨体なんかが見つかるかもしれない。それか本当に人がまだ住んでいて、気が狂っていて衝動的に空の酒瓶で頭蓋骨が割れるぐらい殴られ続けるかもしれない。八重子は様々なことを考えた。

 しかし八重子は「信号」のことを考えると、それらは下らない妄想のような気がした。

 意を決して一歩、八重子は茂みの中へ足を踏み入れた。最初は本当に草むら程度だったが、奥に進むにつれて段々と草木の背は胸元ほどまで高くなった。八重子は軍手を持ってこなかったことを後悔した。藪はどんどん濃くなり、枝の一本一本はかき分けても強く反発し、服には種子がくっつき、複雑に絡んだケーブルのような頑丈な蔦が行くてを阻み、固い棘がちくりと刺さった。

 八重子はそれでも強引に前へ進んでいくと、突然目の前が開かれた。そこには遠くから見たあの車があった。昭和の映画でしか見たことのないような、いわゆるセダンタイプと呼ばれるような白地に黒のラインの入った旧車で、丸目のライトをしていた。フロントには目隠しがされ、左右のドアガラスもカーテンのようなもので車内は見えない。

 車の周囲をよく見ると円形に丁寧に低く刈りこまれており、聖域のようだった。車自体もよく見ると古くはあったが決して全体が茶褐色の錆に全て侵食されているわけではなく、目立った傷やヘコミも見当たらず、タイヤの空気は一杯だった。まるでこの車だけが昭和の時代からワープして来たかのようだった。

「まだ生きてる」と八重子はひとり言った。

 八重子はドアが全て閉じられているのに気が付いた。前に見たときは左右とも開いていた。やはり誰かがいる。

 八重子が恐る恐る近づいて車内をもっと覗こうとすると、突然運転席のドアががちりといって開いた。八重子は自分で来ておきながら驚いて飛び退き、警戒せずにはいられなかった。

 するとドアの上から、ぬっと手が出た。八重子は戦慄した。その手には錆びた鉈が握られていたのだった。

「待ってください!」考えうる最悪の事態に、八重子は焦りながら口走った。

 鉈はぴたりと宙で止まっている。

「私はあなたに何もする気はありません。ただ興味本位で」と八重子が必死に弁解すると、

「何だ、久しぶりに役所の人間が来たと思って警戒しちまったよ」と今度は声がした。すると鉈は引っ込み、今度はドアの上で小さく手招きしていた。

 八重子はそっとその車の横へ、少し大きめに回り込んだ。

「どうしたの、あんた」

 五、六十歳ぐらいだろうか、眼鏡をかけ、白髪交じりの髭と髪を伸ばした初老の男が運転席に座っていた。

 本当に居たのだ、この車の中に。八重子は再び驚いた。男は皺の寄ったTシャツとカーゴパンツを着ていて意外(と言っては失礼かもしれない)に身なりはしっかりしていた。手元にはさっきの鉈が置かれている。

「あ、驚かしたら悪いね。いや驚かすつもりでやったんだけど。これ見せると役所の人間とか、心霊スポットみたいに思ってやってきた若い連中とか簡単に追っ払えれて楽なんだ」男は言った。

「私はいいんですか?追っ払わなくて。その手の若い人たちと一緒かもしれませんよ」と八重子は聞いた。

「いや、あんたは違うな。あんたのような若い女性が、一人でそんな風に草で手を切りながらここまで来ないでしょ」

 八重子は自分の手を見ると、確かに細かな傷がついていて、思い出したかのように痛みを感じた。

 男はそう言うとあくびをひとつして、ガラスに張ってあった目隠しを取り外した。

「ここに住んでるんですか?この車で?」

「そう、見てごらん」と男は言って運転席から外れ、立ち上がって伸びをした。どうやら男は昨夜運転席で眠っていたようだった。

 八重子が車内を覗くと、中にはまずダッシュボードの上に大きなステレオデッキがあった。そこと助手席には哲学書や小説の山があり、クラシックやジャズの音楽CDが散らばっている。助手席のすぐ後ろにはテーブルが設置されていて、キャンプ用のガスバーナー、フライパンに鍋、ナイフ、まな板、コップやフォーク、六個入りの卵のパックにパンやベーコン、はちみつ、ナイフ、それとウィスキーなどの酒瓶があった。

 後部座席は取り外されており、カビ臭そうな布団が一枚敷かれている。車内にピンと張られた紐にはシャツやパンツやタオルが何枚か干されていた。

 よく見ると小型の冷蔵庫のようなものや、読書灯が大型のバッテリーに繋がれている。

「電気があるんですか?」と八重子が訪ねると男は天井を指差した。

 八重子が顔をまた出して車の上を覗くと天井にソーラーパネルが取り付けられていた。そしてよくよく車の周りを見ると、洗濯用のタライや、水を貯めておくタンク、少しだけ耕された区画にトマトかジャガイモか何かしらの野菜も植えられている。鉢にはバジルが生えていた。

 この人は本当にここで住んでいるのだと、八重子はある種の感動を覚えた。

「いつからこうしているんですか?」

「なあ少し待ってくれよ。僕は今日インタビューの予定を入れた覚えはない。僕にとってはいつもの朝なんだ。顔洗ってもいいかな」とくしゃくしゃの白髪が少し交じった髪を掻きながらの男は言った。

「あ、ごめんなさい」と八重子は謝った。確かに高揚して八重子は危うく質問責めにするところだった。

「これに座りなよ」

 男はそう言って大きめのキャンプチェアを取り出してきた。八重子はそこに座って少し低い位置から運転席の方を眺めることになった。八重子は男が朝の簡単な身支度が終わるまでじっと待った。

「あの、お名前をお聞きしてもいいですか」と、再び運転席に座った男に八重子は尋ねた。

「蛸川」男は単簡に答えた。

「蛸川?」少し変わった名字だ、と八重子は思った。

「うん。ただ、今僕の名前にそれほどの価値や意味は存在しない。一本の葦とは良くいったものだ」

 やはり少し変わっていると八重子は思った。いや、むしろこんな所に住んでいて変わっていないほうがおかしいだろうか。

「あ、私、八重子と言います」

 あそう、よろしくと「蛸川さん」は薄ら笑いを浮かべた。こめかみに皺が寄った。どうやらそこまで人嫌いだとか偏屈だとかいうわけではないらしいと思うと八重子は少しほっとした。

「あの、ここで少しお喋りをしていっても構いませんか?」と八重子は蛸川さんに言った。

「うん、構わないよ。椅子を出したのは僕だからね。まあこんなとこに住んでる変人と、こんなところに一人で来る変人。変人同士会話をしてみるのもたまにはいいかもしれない」

「有難うございます」

 八重子は認められて素直に喜んだ。

「じゃあ蛸川さん、はいつからこうして暮らしているんですか? 辛くはないんですか」と八重子は改めて尋ねた。

「何年かな、忘れちゃったよ。ここには時計もカレンダーもないからね。いつからかこうしていて、多分これからもこうしている。辛くはない。結構楽しいよ。あ、でも夏は最近辛いかな。だから川で水浴びなんかする」

「仕事は何かされているんですか?生活費は?」

 八重子は次に尋ねる。

「ほとんどかからない。けど水は近所に湧水がでる所を知ってるし、川の水を煮沸しても飲める。電気はソーラーパネルでどうにかなるし、携帯もない。けど僕は別に完全な自給自足や社会からの断絶を目的としている訳じゃないから、ふらっと日雇いで顔見知りの土建屋の所でアルバイトすることもある。本だって買いたいし、スーパーだって行くよ。目がチカチカするけどね」

「じゃあどうしてこんな所に? ここで一体何をしているんでしょうか。私はてっきり世捨て人で誰からも干渉されたくないからここに住んでるんだと思っていました。アルバイトをしてスーパーに行くぐらいだったら、格安のアパートでも借りたほうがマシじゃないですか」

「干渉されたくないというのは確かなんだ。ところで、朝ごはんはもう食べた?」

「いいえ、まだです」と、八重子は答えた。腕時計を見ると朝の八時だった。

 そう八重子が言うと、蛸川さんはフライパンに火をつけ、六枚切りの食パンを一枚づつ焼き始めた。

「というと?」

「僕が言う干渉されたくないというのは、思考という点でなんだ。アパートに暮らし仕事をするという生活をしていると、どうしても経済や社会の枠組みの中で生きることになる。そうしていると自由に思考する時間はどうしても減ってしまう。僕は随分昔はそうした生活をしていたんだが、それが嫌になってしまった。僕は自由に考えたり想ったりする時間を大切にしたい。それを目指していたら自然とこの形になった。ちょっと行き過ぎた気もするがね」

 おじさんはそう言って笑ってから、四枚焼いたパンを二枚をづつ分けて薄皿に載せた。それからおじさんは卵を使って手早くスクランブル・エッグを作り、それも隣りに添えた。

「蛸川さんは毎日ここでどういったことをしているんですか」

「ぼーっとしたり、散歩したり、哲学書を読んだり、小説を読んだり、音楽を聴いたり、想ったことを書き綴ってみたり」

「高等遊民みたいですね」

「高等ではないけどね。とにかくそうやって過ごしている。さっき言ったように、思考の時間を僕は最も大切にしたいんだ」蛸川さんはそう言った。

「それでここにいるんですね。それを守るために」

「八重子さんは何をしている人なのかな」蛸川さんは八重子に訊いた。

「東京の証券会社で働いてたんですが、辞めてこっちで別の職に就くとこです」と八重子は答えた。

 へぇと言って、焼き目のついたパンにはハチミツがたっぷりとかけられ、スクランブル・エッグには胡椒が振られた。小鍋に湯を沸かし、インスタントのコーヒーも淹れてくれた。どうやら完成らしかった。

「今のお話、正直羨ましいです」

「そうかい? どうぞ」

 八重子とおじさんは時折パンにかじりつきながら話した。甘い朝食だった。

「私も本を読んだり映画や絵画を観たりすることが大好きなんです。自然の中に身をおくのも好きです。私だって、出来ることなら毎日それをしていたい」

「ならしたらいい。僕みたいに」

「うーん、出来ません」

「それはどうしてだろう?」蛸川さんの尋ね方は大学教授のようだった。

「まず私はいわゆる普通の暮らしを知ってしまっています。今からここまで生活水準を、大変失礼ですが──落とすことは難しいです。将来のことを考えると、普通の企業に勤め、貯蓄しておくのが一番堅実に生きる術です」

「なるほど」

「それに、家族や友人、その他知り合いと私は繋がってしまっています。彼ら、特に両親は私が普通に暮らし普通に収入を得ていることを期待し、安心しています。もし私が今の社会的な地位を全て捨て、こうした暮らしを始めると言ったら、恐らく悲しむでしょう。私にそんな度胸もありません」

「ふうむ」蛸川さんはコーヒーを一口飲んだ。

「恐らく私のような人間はたくさんいるでしょう」と八重子は言った。

「不思議だね。『人間には心がある、心がなければ人間じゃない』なんて言っておきながら、その心が最も求めていることを出来ない」

 全くです、と八重子は同意した。それは悲しいことだと思った。

「人類は一つの大きな時計塔なんだ」と、蛸川さんは唐突に言った。

「時計塔?」

「そう。多くの経済人や労働者はその時計を動かす歯車だ。歯車には大きいものや小さいもの、変わった形をしたもの、たくさんの種類と数があって、それらが互いに嚙み合いながら動いている。対して芸術、学芸などの精神に生きるもの、あるいはスポーツなどに生きるもの、これはみな時計塔の外部や内部を美しく華やかに彩る装飾たちだ。もし歯車がなければ肝心の時計塔は動かないし、歯車だけ動いていてもそれは無味無色の滑稽な機械に過ぎない。心を持たないロボットと何も変わらない。そしてその時計塔の周りには森や林があり、川があり海があり、空があり星があり、動物がいる。彼らはその時計塔を愛してもいないし、憎んでもいない」

「つまり我々はその『歯車』か『装飾』のどちらかだと?」

「そう。どちらか一方。どちらにもなることなんて凡人には出来はしないんだ。どちらかになるしかない。二つの利を同時に得ることは出来ない」

「つまり私は『歯車』として生きていて、おじさんはその『装飾』の方なんでしょうか」

「僕は……そうだな、どちらかと言えばそうだけど、僕は何か芸術や学問を産み出したり追究している訳ではないからね。その時計塔の隅に転がる塵芥といったところかな。どちらにもなれない人間もいる。本人がどんなに心の深いところで願っていてもね」

「でも、その内のどれかが正しいというわけではなんですよね」と八重子は言った。

「そう。人間の幸福は絶対的な何かしらの指数で決定出来るものじゃない。立派な『歯車』でいることに誇りを感じるものもいるし、『装飾』であることが生き甲斐なものもいる。かといって彼らを『塵芥』は愚かそうに眺めているかもしれない。幸福を覗くには人それぞれ様々な窓がある」

「その窓を見つけるのは結局のところ自分でしかない」と、八重子は言った。

「イエス。前にも後にも自分だけなんだ。目は二つしかないし、窓は一つしかない。結局ね」

 蛸川さんはパンをむしゃむしゃと食べた。八重子は話している最中に冷めてしまった手にしたコーヒーをじっと見た。なぜ自分はこんな所へ不意に訪れて、こんなことを突然べらべらと話しているのだろう。八重子は人生相談に来た訳ではないはずだった。

 八重子はその理由を、自分が社会という蓋で心の深い所へしまい込んでいた欲求のせいだと考えた。それは人知れず強いもので、それが八重子をここへ引き合わせた「信号」の正体だと分かった。「信号」は蛸川さんから送られそれを自分が感受したのではなく、自分から発せられていたものだった。それを蛸川さんは分かっていて、こういう話をしてくれているのだ。

「蛸川さんは何のために生きてるんですか」

「分からない。でもずっとずっと考え続ける。ずっとずっと悩み続ける。僕はそれが人生の根幹だと思う。だから僕はここで思考を続けているんだ。幸福とは何か。不幸とは何か。何が正しく、何が間違っているのか。この世の全ての事象について考えていると、時間はいくらあっても足りない」

「でも答えには一生辿り着かない」

「プラトンやアリストテレスの頃からずっとそうだ。二千年以上経っても人間はどう生きるべきか、悩み続けている。恐らく人類が火星に住むようになっても、別の銀河へ行くことが出来るようになっても、多分そのまんまだ。でも答えを考え続けることは答えの一つな気がするんだ。高尚な学問であるかどうかは関係ない」

「だとしたら残酷ですね」と八重子は言った。

 この上なく、と蛸川さんは笑っていた。

 八重子がじっと考えると、それは真っ黒で、深い深い、凍えるぐらいの絶望で、人間が生きる意味さえ否定しうるもののような気がした。何処にも辿り着かない夜道だった。すると途端に得体の知れない恐怖で八重子の胸の奥の扉から何かが溢れだしそうになった。

「パンドラの箱の話は知ってる?」蛸川さんは問いかけた。優しい声だった。

「ギリシア神話です」

「そう、パンドラはゼウスから貰った開けてはいけない箱を開けてしまう。中には厄災が詰まっていたんだ。でも箱には唯一残ったものがあった」

「希望です」

「僕はいつもこの話を思い出すと、どこか救われたような気持ちになるんだ。ほんの一ミリね」

 それから蛸川さんはCDを取り出してダッシュボードに置かれたステレオで音楽をかけた。ブラームスの『交響曲第三番』だった。

「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」蛸川さんはぽつりと言った。


 八重子は蛸川さんとひとしきり悩みから他愛のない話をし、音楽を聴き、空を滑るを雲を追い、日の落ちていくのを待った。それはとても良く醸された紛れもない幸福の時間だった。八重子の胸を覆いそうだった暗い影もいつしか消えていった。

 八重子は転職先のタウン情報誌の会社で再び働き始めた。八重子は少なくともまだ『歯車』でいるしか仕方がなかった。確かに証券会社の頃より楽しくはあったが、相変わらず仕事に追われることに変わりはなかった。

 八重子は時折あの茂みの中の旧車にいる蛸川さんことを思い出す。蛸川さんは今もあの場所で考え続けているのだろうか、と八重子は思った。それを考えると心が少し落ち着いた。会いに行かずとも良かった。

 恐らく蛸川さんのような人間は世界中に何人もいるだろう。あの茂みは中の旧車でなくとも。彼らが死ぬ時、人は初めて死ぬのだ。八重子はそうどこかで確信した。それは一つの小さな灯火によく似ていた。

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オクトパスズ・ガーデン 大垣 @ogaki999

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