春にさよなら

水涸 木犀

春にさよなら・上

 ハルに会いに行こう。

 そう思い立ったのは偶然ではない。

 五月の上旬、留学するには中途半端な時期に、おれはイギリスに発つことになった。現地で語学の勉強をして、九月からは向こうの大学に通うのだ。日本での過去を無かったことにさせようという父の思惑が絡んでいる。


 おれは幼少期から、母に「アイドル養成所」に入れられていた。そこで出会ったのがハルと呼ばれる少年。小柄でかわいらしい彼は幼いながらも存在感があった。周りの人を惹きつける、不思議な雰囲気があったのだ。おれも漏れなく、同い年である彼の魅力にとりつかれる。気が付けばおれは、いつもハルの傍にいた。ハルも嫌がることなく、むしろ嬉しそうにしてくれていたことを覚えている。


 「ぼくはね、ずっとひとりぼっちだったんだ」

 あるときハルは、おれに向かってぽつんと呟く。

「お父さんとお母さんはケンカして別れちゃった。ぼくはお母さんに言われて養成所に来たけれど、お母さんは仕事が忙しくて会うことはほとんどない。だからね、養成所にいるみんながいてくれてはじめて、ひとりじゃないって思えたんだよ」

 おれの家には両親が共にいたから、誰もいない家に一人で取り残されるのがどんな感覚なのか想像もつかなかった。だからそのときのハルには、うまく答えを返せなかったと記憶している。


 おれたちが八歳になった年の春、ボーイズアイドルグループ「four🍀seasons」の立ち上げをマネージャーから聞かされた。マネージャーといっても専任ではなくて、いわゆる練習生たちを一括で見ている人である。彼はハル、ナツ、アキ、フユという四人のユニットを立ち上げることを提案した。ハルと、おれことナツ。アキとフユはおれたちより少し年上で、アキは大柄な、フユはひょろりとした体格の少年だった。

 チームの結成が決まり、初めて顔を合わせた時、ハルは満面の笑みを浮かべていた。

「ようやく、ぼくにも仲間と呼べる存在ができたんだね。嬉しい。みんな仲良くしてほしいな」

 おれもハルと一緒にデビューを目指せるのは嬉しい。しかしアキとフユは奇妙な表情でハルのことを見つめていた。彼らの視線がおれには不気味に感じられた。


 ハルとおれは、途中まで帰りが一緒になる。別れ道の少し手前にある公園に寄って、他愛のないおしゃべりをしていくのが日課だった。練習が終わるとさっさと帰ってしまうアキやフユと違い、ハルはいつまででも皆を引き留めておしゃべりをしたがった。結局、付き合うのはおれだけだったけれど。


 「ねえナツ、ここにぼくたちがいたっていう証を残そうよ」

 ある日ハルはいつもの公園で、突拍子もないことを言い出した。

「証? タイムカプセルとか?」

 意味が分からずに問い返すと、ハルは儚げな笑顔をつくって微笑んだ。もしこの公園に他の人がいたら、吸い寄せられるような感覚に陥ったに違いない。それくらい、彼の笑顔は吸引力があった。

「タイムカプセルもいいけれど、勝手に公園に埋めたら怒られちゃいそうじゃない。だから、ぼくたちの身長を刻もうよ。場所はそうだなぁ。あの木はどうだろう」

 ハルは公園の奥にひっそりと佇む桜の木を指さした。もう散りかけで所々若い葉が見え隠れしている桜は、途中まで衣替えをやりかけたクローゼットの中みたいな不安定さがある。

「桜の幹に、身長を刻むのか? それこそ公園を管理している人に怒られないか?」

 疑問を覚えたおれの手をとり、ハルは桜に向かって駆けだす。

「だいじょうぶだよ、きっと。砂場で文字を書いても怒られないじゃない。幹にちょっとだけ、傷をつけるだけだから。枯れちゃったりすることはないよ、たぶん」

 ハルに笑顔でいわれると反論できなくて、おれは彼の後に続いて桜の木のふもとにたどり着いた。

 近くで見ると立派な木だった。小柄なハルが幹を抱えこんでも手と手が触れないくらいの太さがある。おれならぎりぎり届くかもしれないけれど、それを見たらハルがむくれそうだからやめておいた。彼は、小柄な自分とのっぽなおれを比べては羨ましがっていたから。

「じゃあ、お互いにお互いの身長を測って、何かで印をつけよう。いいものはないかな」

 ハルはランドセルを漁り、筆箱の中から定規を取り出した。

「これとか、どうだろう。ナツ、いけそう?」

「たぶん。力を入れれば跡はつけられるんじゃないか?」

 おれの答えに満足したのか、ハルはにっこりと頷いて定規をおれに手渡した。そして桜の木にもたれかかる。撮影セットにするには微妙な散り具合だというのに、その姿は絵画のようだった。満開だったら、どれくらい映えたことだろう。


「ナツ?」

 見とれていたのがばれただろうか。おれは慌てて定規を手に取り、ハルの頭の上にあてた。先ほどの自分の気持ちを誤魔化すかのように力を込めて幹を削る。桜の幹は意外と柔らかく、小学生男子の腕力でもスーッと線を引くことができた。もっとも、綺麗な直線ではなく何度も傷をつけてできたぶきっちょな印だったが。

「はい、できたぞ。次はおれの番だな」

「任せて」

 ハルに定規をわたして、彼がもたれていた場所のすぐ隣に立つ。ハルは腕を目いっぱいのばして、おれの頭上に印をつけようとしてくれる。

「しんどかったら、無理しなくていいぞ。すこしでも跡がついていたら、あとはおれがやるから」

「ううん。ぼくがやる」

 妙に負けず嫌いなところがあるハルは、そういって譲らなかった。かなりの身長差があるから大変だっただろうに、彼は頬を桜色に染めて必死に力をこめ、定規を押しあてる。

「ほら、できた。たぶんナツよりきれいにできたよ」

 ちょっと誇らしげなハルの声を聞いて、おれは幹から離れる。確かに力が入りにくい体勢でつけたとはおもえないほどきれいな線が引かれていた。ハルは容姿や雰囲気だけではなく、こんなところまで綺麗なのか。印自体にハルの性格が刻まれている気がして、ぼうっと幹に付けられた二つの傷を眺める。


「やっぱり、ナツは大きいね」

「まあな。小学校に入ってからまた一気に伸びたし」

「いいなあ。ぼくも、ナツくらい大きくなれるかな」

 両親が長身なら、大きくなれるんじゃない。そう言いかけて口をつぐんだ。ハルの家に両親はいない。母親はいるのだろうがハルは顔を合わせていない。家族の話題を出したら、彼が悲しんでしまうんじゃないんだろうかと思ったのだ。結果として、微妙な間ができてしまったがハルは気にしたそぶりを見せない。

「いつか、ナツと同じくらい大きくなってみせるから。毎年……そうだなぁ。ナツはあっという間に大きくなっちゃうから、半年に一回くらい、こうやって一緒に背比べをしよう。いつかぼくが追いつく日まで、やめないからね」

 それは下手をすれば一生のお願いになるんじゃないだろうか。おれの頭に一瞬そんな考えがよぎったが、断るという選択肢はなかった。それだけ長い期間、ハルと一緒に居られるのなら、願ったりかなったりである。おれが頷くと、ハルは花がほころぶように微笑んだ。

「良かった。これでぼくはひとりぼっちじゃないね」

「もう、おれたちは同じチームなんだから。四人で仲間だろう?」

 正直、アキとフユのことはまだよくわからなかったけれど、ハルを安心させたくてそういうと彼は頷いた。

「もちろんそうだけど。でもナツは特別。チームを組む前から一緒にいてくれたし、これからも一緒にいてくれるって約束してくれた。だからぼくは、ひとりぼっちじゃないって思える」

「特別、か」

「うん」

 笑顔で頷くハルを見ていると、胸に熱いものがこみあげてくるような気がした。

 おれは学校帰り、習い事も課外活動もせずにアイドル活動に邁進している。だから学校には友だちがいない。でも、ハルがいてくれるなら。彼が特別だと言ってくれるのなら。ほかには何も、誰もいらないと思える。

 ハルとおれの間を、終わりかけの桜の花びらが通り過ぎていった。

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