14話「しろくしろくしろ・1」
作業着の固いズボンと、正座に慣れて固くなった膝がかすかすと音を立てる。よろめきながら歩き続ける青年の耳には、体が立てる音や衣擦れの音がひどく大きく聞こえていた。周囲の音が遠ざかる中で、“彼女”の声がまた聞こえた。
たったひとつだけ思い出せる言葉を、また繰り返す。
「白い、冠の……」
ほかの言葉を思い出そうとしてもうまくいかない。自分がなぜここにいるのか、どうして歩いているのかさえ思い出せなかった。天国や地獄にさえこんなみすぼらしい裏路地があるのだとしたら、もうしばらくはアルバイト生活を続けるのもいいかもしれない。
「アルバイト……? クビになった、コンビニの」
手が滑って品出しを何度も失敗し、ガラス瓶を割り続けた。原因は俺ではないと説明したはずが、できる仕事が減りすぎてにっちもさっちも行かなくなった。多くの人員を割けず、少人数で一店舗を回す必要のあるコンビニとは相性が悪かった。■■ジは、すぐに解雇されることになった。
(ん、じ、……ジ? 俺の名前、なんだっけ)
湿った土の匂いがする裏路地は、まったく見覚えのないものだった。そして、蝋人形のように白く、それそのもののようにてらてらと固い質感を持った手も、見慣れないものだ。自分は何者なのか、それさえも揺らいでいく。
「白い、冠の……」
何度かも分からないが、青年は周囲を見回した。
瓶ビールのケースや段ボールが並び、飲み屋と町工場が乱雑に並んだ裏路地。単なる一般家庭の裏口らしきものや漆喰で固めた塀、わずかな隙間を埋める低木とその根元を固めるような苔むした地面。
彼の記憶にある、住んでいたアパート周辺の光景とはまったく違う。こんな無節操な並びの通りはどこにもなく、飲み屋街でも町工場が併設されている場所など見たことがない。そして何より、アパートが立ち並んだ近くには大きな食堂があった。
「い、言わなきゃ。白い冠の、冠……」
カスタードクリームを思わせる、ねっとりと甘くて濃厚なささやき。
――私のところへ来てください。こちらだと思った方向に歩くのです。
また響いた声は、“彼女”を幻視させた。
白いマネキンに透けたドレスを着せたような、導き手にふさわしい姿。頭部には金色の角のようなものが円周上に生えて、冠の形を描いている。差し伸べられた手は、ミミズを押し固めたような、狂気的なおぞましさを感じさせるものだった。
「ああ、俺を導いてください……」
導き手は、裏路地のさらに奥を指さした。いくら歩いても縮まらない距離をもどかしく思いながら、彼はひたすらに歩く。この先に“彼女”がいるのなら、ひどい倦怠感や自分の体、記憶にまで生じてきた違和感をどうにかできるはずだ。踏み出すたびに全身がきしむような感覚に襲われながらも、彼は進み続けた。
心が折れかけるたびに、小さなささやきが聞こえてくる。何度でも無限に救われるような温かい気持ちの中で、彼は歩む。途切れていた光が見え、日向に誰かがいるのが分かった。
「やあ、よかった。来てくれたね」
日陰に入ってきた男は、もじゃもじゃとヒゲを生やした小太りの男だった。絵本か何かに描かれていても違和感のない、愛嬌のある人物である。
「白い、冠の……」
「うん、うん。わかってる、わかってるよ」
男は、彼の求めるものを理解しているようだった。どこか自分と似たものを感じながら、青年はようやく休めることを知って、壁際に座り込んだ。
「因子の度数は、まだ白か。これじゃ使えんねえ。何かしらあってこっちに来たと思ったんだけど、違ったか」
何を言っているのか、何を言いたいのか、そして何をしようとしているのかも分からない。それでも、青年は冷たい不安を感じて男を見上げた。
「うん。そんな目をしなくてもいいよ、どのみちここで終着駅だから。こっちなら怪人犯罪はいくらでもあるから、君なんかの死体がきっちり調査されることもないだろう。それに、偽装におあつらえ向きの怪人がいるそうだからねえ」
首元にぬるりと奇妙なものが這うような感触があった。風船の空気が抜けるように、体中の力が身動きできないほどに衰えていく。立ちくらみを起こしたときのそれと同じく、視界が真っ暗になっていくのが分かった。
「さて、こうして、こうで……よし」
首筋に鋭い痛みが走る。何かで切られたのだと気付いたときには、青年は視界さえまともに確保できなくなっていた。
幻聴を押しのけて、何かが聞こえる。
「む、誰か来たな。まあいい、この街の人間なら誰でも……」
ぽた、ぽた、という――水滴を思わせる足音。消えかけの波紋がときにひどく目につくことがあるように、その小さな足音は、足早に立ち去る男のそれよりもずっと大きく聞こえた。
「あれ、珍しいなあ。このあたりって、このあいだ死に絶えて縄張りが決まってなかったはずなのに」
穏やかで静かな、少年の声。
明らかに異常な状態で、ほとんど死んだ人間を目にしているにもかかわらず、その声はまったく動揺していなかった。それどころか、どこか楽しんでいるふうにさえ聞こえる。声は、密やかに笑った。
「すかすかだね。こんなんじゃ美味しくないよ」
急速に蘇る記憶の中で、食堂で過ごした時間だけがいっとう鮮やかだった。
「まあいいか。城田さんが何とかしてくれるし」
まるでアイスクリームが溶けていくかのように、記憶の映像がゆっくりと傾いて潰れていく。青年が最後に思い出したのは、誰よりも優しくしてくれた老人の笑顔だった。
「おぐら、さん」
「おぐら、かぁ。やっぱりね」
死体を放って、少年は微笑みながら歩き出した。
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