はじまりの魔女の歪つを見つめる瞳は誰のもの

そら

1章 はじまりに前振りという概念はない

第1話 メガネの絵描き娘

はるか昔、アルビオン国にはひとりの魔女がいた。


慈悲深い魔女は、この世の本質を見とおす眼をもち、人の声に耳をかたむけ、アルビオンのために力をふるった。

ある時は悲しみ惑う者の心にささやきかけ、苦しみを取りのぞいてみせた。

またある時は強き者が過ちを犯すことのないよう、正しい道へ導いた。

老いを知ることなく、二百年以上のときを生き、世に数多の魔法を生み出した偉大な女人を、人々は【はじまりの魔女】と呼んだ。

魔法の恩恵を受け、生活が豊かになったアルビオンの民は、魔女を慕い、うやまった。


しかし、ある時を境に、はじまりの魔女は姿を消す。


魔女の強大な力と絶大な影響力に恐れをいだいた時の権力者たちが、ひそやかに魔女を殺し、封印をほどこしたのだ。

死の間際、魔女の体からいくつもの魔法の粒子があふれ出た。

人に裏切られ、無残に命を奪われた魔女の怒りや悲しみが凝った【魔女の残滓ざんし】は、国全土へ飛び散った。


そうして、アルビオン国に花開いた魔法文化は、はじまりの魔女の死とともに終わりをむかえる。


入れ替わるように誕生した科学が目覚ましい進化を遂げる頃には、魔法は存在そのものを忘れ去られてしまったのだった。



* * *



「ほ、ほんとにいいの?」


涙のたまった眼を大きくして、幼い少女は手渡された鉛筆画とそれを描いた絵描きを見た。


たった一枚しかない亡き母の写真をやぶってしまい、泣きじゃくっていた少女に、年若い絵描きがおそるおそる声をかけたのはつい先ほどのこと。

あっという間に描き上がった絵は、写真の母をそのまま紙に写したかのように緻密で、少女は感嘆の声をもらした。


「で、でも、あの……ごめんなさい、わたし、お金ないの……」

「いいよ、いいよ。これは、自分からあなたへの贈り物だと思ってくれたら」


トンボのように大きな丸メガネをした絵描きがへらりと笑う。

少女は泣き笑いを浮かべながら、素描を後生大事にかき抱いた。

何度も礼を言いながら走り去っていく後ろ姿を笑顔で見送った絵描きは、ややあって、勢いよくその場に崩れ落ちた。


(私のバカ―――――――ッ)


「『いいよ』じゃない!『いいよ』じゃないでしょ、シャーロット!紙代だってバカにならないんだから!今日は雨のせいで全然お客がこなかったし、路銀も尽きそうだし、非常食だってもう一日分しか残ってないんだからね!」


顔を両手でおおって、シャーロット、ことチャーリー=ヘイズはうめいた。

涙に暮れる少女に手を差し伸べたことを悔いていないが、自分も他人の心配をしている場合ではないのだ。


流しの絵描きであるチャーリーは、描いた絵を売って金を工面する。

売上のない日はそのまま生活に直結するのだ。

「グゥー」と腹が鳴る。憎たらしい雨雲がひらけて、差し込んでくる春の夕陽が眼にしみた。


「……とりあえず、日が暮れる前に、どこかの宿の納屋を貸してもらえないか、きいて回ろう」


チャーリーは商売道具をしまいながら乾いた笑みを浮かべた。


アルビオン国の南東に位置する街、ウィンドナートへやってきたのは今日がはじめてなのだ。

治安のわからない土地でうかつに外寝などしようものなら、身ぐるみをはがされて放り出されても文句は言えない。

腹の虫をだまらせる前に、今夜の寝床を確保することが先決だ。


「よし、行こう」


顔の半分をかくすほど大振りなメガネを鼻の上におしやって、チャーリーは年季の入ったカバンを手に歩き出した。


* * *


新しい街をおとずれた時は、まず大まかな立地をつかむこと。


師匠であった祖父に「よく守るように」といわれた教えごとのひとつだ。

年寄りと子どもの二人旅だった頃も、娘ひとり旅になってからも、身を守ることは必須事項だった。


「この格好もすっかり板についたなぁ」


夕焼けに染まった路地をチャーリーは急ぎ足で進む。


メガネに、赤みがかったやわらかい茶色の髪をおしこめた古いキャスケット帽、

サイズのあっていないシャツとズボン。どれも祖父のおさがりだ。

祖父はチャーリーを「シャーロット」ではなく、愛称の「チャーリー」と呼んだ。

人前でしゃべる時の一人称も、チャーリーは「自分」を使う。

いずれも、チャーリーの性別をわからなくさせるためのものだった。

そうした方が何かとやり過ごしやすい世の中なのだから仕方がない。


「まあ、絵が描けさえすれば、自分はなんだっていいんだけれど……ん?」


チャーリーが足をとめる。


奇妙だった。

暗い。いつのまに陽が落ちたのだろう。

しかし空に見えるのは夜の青墨ではない。ずっと密度の濃い、闇色だ。


(さざなみ?)


遠くで細かい波がさざめく音が聞こえる。

音にいざなわれるように、ほのかな潮の匂いがチャーリーの鼻先をかすめて流れていった。

風など少しも吹いていないのに。


まるでこの世のものではないどこかへ迷い込んでしまったかのような不思議な感覚に、チャーリーはぞくりと身震いした。


「———— なに?」


ハッと振り返る。

辻の向こうから、光と、人の声が聞こえた。

大事な商売道具が入ったカバンをギュッと抱きしめて、チャーリーはゆっくりと歩みを進める。

そっと壁ごしにのぞいてみた。

そして我が眼を疑った。


「えっ…………?」


ふたりの男が対峙していた。

スポットライトのような光線が照らし出す、ぽっかりとした空き地にふたりは立っていた。

ひとりの男は銃口を相手に向けて、険しい表情を浮かべている。

そしてもうひとりは、チャーリーに背を向けたまま、全身に巨大な黒いをまとうようにして、たたずんでいた。

暗黒の生き物のようなそれは、もつれ合い、はなれ、またたく間に体積を増して、今にも銃の男を飲みこまんとしていた。

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