ドローン
あべせい
ドローン
老朽化したマンション1LDKの一室。
突然、「カーンッ、カーンッ」と、鉄管をハンマーで叩くような金属音が響いてくる。
ベッドで寝ていた20代の男が、眠そうな顔をして目覚し時計を引き寄せる。時刻は、7時半過ぎを指している。
「きょうは、日曜だろうが。先週に続いて2度目だ。もう、我慢しないゾ」
男はガバッと起きると、パジャマの上にガウンを羽織って、廊下に出た。
室内ほどではないが、確かに音はしているようす。
男は、上を見上げ、階段をのぼる。このマンションは5階建てだが、エレベータはない。
男は、自分の部屋の真上に当たる、最上階の504号室を訪ねた。
「どちらさまでしょうか?」
男がインターホンを鳴らすと、若い女性の澄んだ声が返ってきた。
表札には、「佐島」とある。
「下の部屋の大槻です」
「大槻さん? お待ちください」
インターホンが切れる音がして、まもなくドアが開いた。
「なんでしょうか?」
現れたのは、ハッとするような美形の女だった。
カーディガンを羽織り、スカートを履いている。
だが、大槻は、それ以上に驚かされた。彼女が、オレの真上に住んでいたなンて、信じられない……。もっとも、よくよく考えてみると、こういう事態を推理できた可能性はあるのだが……。
彼女の年格好は、26、7といったところ。
彼は、すっかり気勢をそがれたが、眠い朝を起こされたのだ、その怒りを思い起こしてどうにか言った。
「音がして、寝ていられないンです」
「はァ?」
女は怪訝な顔をしている。
化粧っ気のない素顔だが、愛らしい目をしている。
「騒音です。何か、叩いておられないですか?」
女は、合点したという風に、
「それ、わたしも気になっているンです。でも、うちじゃありません。どこか、ほかのお宅だと思います」
「そうなンですか。こちらじゃない……」
男はガッカリしたように俯く。
しかし、心中では、よかった、彼女じゃなくて、と胸をなでおろしていた。
「ぼく、ここに越して来て、1ヵ月なンです。このマンションは、5階建てで、1フロアに3部屋、1階はパン屋さんだから、計12部屋ありますが、どんなひとが住んでいるのか、よく知らない。あなたがぼくの上におられたことも、もちろん知りませんでした。ただ、先週の日曜も朝から同じような音がして、起こされたンです」
「でも、わたしの部屋ではそんなに大きな音には聞こえていないけれど……」
「そうですか」
「わたしはあなたが鳴らしたインターホンで目を覚ましたくらいだから……」
「すいません。ご迷惑をおかけてして。失礼しました」
大槻は、恐縮して頭を下げ、踝を返す。
これ以上、彼女の視線に耐えられない、そう思ってのことだ。本当は、もっと彼女と話をしていたいのだが……。
「待って……」
女はそう言って、奥に消えた。
「お待たせしました」
20秒足らずで戻ってきた彼女は、先端にピンポン玉くらいの青い球が付いた、小さな弁当箱ほどの機械を持っている。
「これ、仕事で時々使っている騒音計です」
「失礼ですが、お仕事、って?」
「わたし、大将建設の現場監督をしています」
「大手ゼネコンですね。失礼しました。ぼくは城西予備校で講師をしている大槻欧路(おおつきおうじ)といいます」
「わたしは、佐島沙耶果(さじまさやか)。この機械は、工事中の騒音トラブルなどで近隣から苦情が来た場合に、騒音の大きさを測定するために使っています。これから、大槻さんのお部屋の騒音を測ってみましょう」
大槻は、沙耶果の提案はもっともだと思う反面、何か間違いが起きるのではという不安がよぎる。
しかし、沙耶果は大槻の返事を待たずにサンダルを履き玄関を出た。
大槻は、何が起きても積極的な彼女のせいだと責任を押し付ける形で、階下にある自分の部屋に彼女を案内した。
沙耶果は大槻の部屋に入ると、
「わたしの部屋と間取りが同じですね」
そう言いながら、騒音計を窓側に向ける。
「34、35、33……これくらいだと、騒音とはいえない。日曜の朝だからだけれど、この値だとだれもいない公園程度の静けさです。この部屋じゃないンだわ。大槻さん、寝室はどちらですか?」
「寝室ですか……」
大槻は、沙耶果の問いに、胸の鼓動が急に激しくなり、すぐには答えられない。
「寝室は、とっちらかっていて、お見せするのは……」
「でも、寝室でお聞きなったンでしょう。目が覚めるきっかけになった、その騒音、って?」
「そうですが……」
大槻は、彼の目の奥まで覗き込むような、沙耶果の深い瞳に見つめられて、もう見られてもいいかッ、と思った。
しかし、彼女のことは、まだほとんど何も知らない。寝室と言っても、机やパソコンがあり、仕事部屋にも使っているが、そこにあんなものが置いてあることを知ったら、彼女はどう反応するだろうか。
「沙耶果さん。少しだけ、待っていただけますか。片付けてきますから……」
「エエ……」
大槻は、寝室に飛び込むと、新しいシーツを二つ折りにして掛けて、全紙大のパネルを覆い隠した。
これでいい。大槻はそう考えて、ホッとしたのだが……。
「どうぞ。汚くしていて、ごめんなさい」
「失礼します」
沙耶果は、ひとり住まいの男の部屋に入ったことがないのだろう。直前になって、そのことを思い出したように、肩をすぼめ、大槻が開けたドアから、そーッと入った。
「カメラがご趣味なンですね」
「少しですが……」
少しどころじゃない。壁には棚がたくさんついたラックが置かれてあるが、そこには4台のカメラ本体をはじめ、サイズの異なる交換レンズ、フィルター、三脚、カメラバッグなどが、整然と並べられている。
プロのカメラマンといっても、だれも疑わないだろう。
沙耶果は、騒音計をベッドの枕側にある掃き出しの窓に近づけた。
「いまは静かだから、こんなものかしら」
騒音計の数字は、「27.28」を示している。これも、深夜の公園の静けさだ。
沙耶果は窓辺から離れて、騒音計を前に突き出したまま、部屋の三方の壁に向けて行く。
そのとき、騒音計の先端にある球形の突起物が、全紙パネルを覆う白いシーツの端を引っかけた。
「アッ」
沙耶果と大槻が同時に声を発したが、それより早くシーツが床に落ち、パネルの中身が顕わになった。
それは、超望遠レンズで撮影した女性の写真だった。俯き加減にカメラのある方向に向かって、軽く微笑みながら歩いてくる。
ウエーブがかかった肩先までの髪、オレンジ色のルージュ、大きな瞳、服装は鍔広の帽子に、モスグリーンのワンピースをうまく着こなしている。
沙耶果は、パネルの女性を見て、
「かわいい女(ひと)ね」
と言った。
「エッ……」
大槻は、驚いて沙耶果を見た。
大槻が、帰宅途中の沙耶果を、ベランダから65倍ズームレンズで撮った写真だ。なのに、沙耶果は、写真の人物が自分ではないという反応をした。
いったい、どういうことだ。てっきり、盗撮を非難されると思っていた大槻は、複雑な気持ちになった。
「このひと、大槻さんの恋人ですか?」
沙耶果は、大槻が予想もしないことを言った。
「イッ、いいえ」
大槻は否定するしかない。片想いの相手です、なんてとても言えない……。
「じゃ、どうして……」
沙耶果は思う。撮った写真を全紙大に引き伸ばしたうえ、パネルにして部屋に飾っているのはなぜか。わたしに見られないように覆い隠していたのは、なぜ。
大槻が部屋を片付けるといって寝室に入ったとき、わずかに開いていたドアの隙間から、沙耶果は見ていた。
大槻が慌てて、パネルにシーツを被せるようすを。
2人はしばらく無言になった。
大槻は、パネルの女性が沙耶果でないと彼女自身から否定されたことが納得できない。
沙耶果は、大槻がどうして自分に似た女性の写真を、隠そうとしたのか。2人は、それぞれ答えが見つからないまま、気まずい空気を残して、その部屋を出た。
大槻を悩ませた騒音の正体が明らかになった。リモコン操作のドローンに特殊なクラクションを搭載して、日曜の早朝、大槻の部屋付近を飛行させては、予め録音してある鉄管を叩くような音で驚かせていた。
ドローンを飛行させていたのは、同じマンションの住人で、大槻が講師をしている予備校に通う3浪の江府高次(こうふこうじ)だった。
高次は、大槻の地理の授業が好きで、受験に必要もないのに聴講している。
高次は、3度目の飛行を試みた日曜日、都の迷惑防止条例違反(つきまとい等の禁止)に該当するとして、管轄の警察から出頭を求められ、きつく叱られた。
高次としては、軽いいたずら心からだったのだが、そのシャレは大槻にも世間にも通じなかった。
高次は警察から帰されたその足で、大槻を訪れ、謝罪した。
高次は裕福な家庭に生まれ、二十歳になったいまも、親から仕送りを受けている。大学受験や予備校通いは、親を納得させるための方便であり、本心はすでに大学生活には興味を失っている。
大槻はそのことを知っているが、まだ目標を見つけられない高次に対して、適当なアドバイスが思いつかないでいる。
すでに夕食をすませていた大槻は、訪れた高次をリビングにあるテレビの前の椅子に座らせ、冷蔵庫から缶ビール2本を取りだし、テーブルに置いた。
高次は警察の取り調べのようすを語ったあと、リビングの壁を見わたし、
「ここには、504号室の女性の写真は飾らないンですか?」
「高次、おまえ……」
大槻は、とんでもないことを言うやつだとばかりに、高次を睨みつけた。
「知っていますよ。先生が、上の階の女性に焦がれている、って。名前は知らないけれど……」
大槻は、唖然となった。
どうして、心の中まで見透かされるのだ。この若僧に。そんな能力がある、っていうのか。
「先生、驚かないでください。種明かしをすれば、簡単なことです。ぼくは2階の203号室でしょう。ベランダからドローンを飛ばせば、先生の寝室はすぐです。昼間はカーテンが空いているから、ドローンに付けたカメラで部屋の中が丸見えです。全紙大の女性が、先生のベッドに向かって微笑んでいる……」
大槻は、顔が赤くなるのを感じて下を向いた。
「でも、先生。彼女はダメですよ」
「なんでだ! 沙耶果さんがダメってどういうことだ」
「彼女、沙耶果っていうンですか。ぼくも一度、玄関ですれ違ったことがあります。そのとき、『504』を押してオートロックを解除していたから、504号室とわかったのですが。でも、沙耶果さんには、ステキな恋人がいます」
「それもドローンの情報か?」
「そんなところです。彼女が恋人とキスしているところを見ちゃいましたから……」
「おまえ、いつ! けしからん生徒だ」
大槻は、心底腹が立った。恋が破れたことも手伝って、高次を殴りつけたくなった。
「先生は、土曜の夜は遅くまで予備校の授業があるからご存知なくても仕方ないですが、先週の土曜の夜、ドローンを飛行させたンです。その時間帯に、504号室の女性は、彼氏を部屋に招いていたようなのです」
「彼女の部屋の中を覗いているのか!」
「決してふしだらな気持ちからではありません」
「バカ野郎。そういうときは、ふしだらな、なンて使うな。邪まな、って言うンだ」
「すいません。ただ……」
「ただ、なんだ!」
「このマンションの周囲をドローンでパトロールしていたら……」
「パトロール!? おまえ、ナニサマのつもりだ。お巡りになったつもりか」
「そうじゃなくて、最近、この辺りの治安がよくない、っていうので、ドローンにテレビカメラを付け、テスト飛行を兼ねて飛ばしていたンです。そうしたら……」
「そうしたら?……」
大槻は、高次の話の続きを催促している自分に気がつかない。
「たまたまドローンが彼女の部屋の前を飛行して、カーテンの隙間から、バッチリ……」
「バッチリ、なんだ?」
「男が、彼女を引き寄せ、そのかわいい唇に……」
「いィ! やめろ、それ以上、聞きたくない」
大槻は、相手の男に殺意を感じている自分に気づいた。
「でも、これだけは言わせてください。相手の男は大手ゼネコンの制服を着ていましたから、現場からの帰り。きっと、上司の権威を笠に、彼女を無理やり……」
「本当か」
「きっと、そうです。彼女は仕方なく応じたンです」
高次は、大槻の心中を読み取り、遊んでいる。
「だろうな。彼女のような美人が、やたらと……」
「先生、その映像、残してありますが、ご覧になりますか?」
「動画があるのか?」
「ご覧になるのでしたら、すぐに取ってきます。見たいでしょう?」
「見たい……、いや、それはよくない。でも……、見るべきか。いやッ……、ダメだ。おれはこれでも、指導する立場の人間だ。そういう、低俗な覗きに加担するわけにはいかない」
大槻は、悪魔と会話して、ひとりで結論を出した。
高次は、惜しいッ、あと一歩だった、とくやしがる。
「しかし、彼女は同じ工事現場にいるゼネコンの男に、いいようにされている。これは、なんとかしなきゃ……」
「そ、そうでしょう、先生。これは由々しき問題です」
「待て」
大槻は、ハタと思い出した。
沙耶果が、寝室に飾っている沙耶果の全紙大の写真を見て言った、「このひと、大槻さんの恋人ですか?」のナゾだ。
沙耶果がウソをついたのか。恥ずかしさの余り、撮影者の手前、そう言った可能性はある。それとも、沙耶果によく似た女性が、このあたりにもう1人いるのだろうか。もし、そうなら、もっと頻繁に出会っていていい。もっとも、沙耶果の帰宅途中の姿を見たのは、あの写真を撮ったときだけだ。
大槻が帰宅するのは、授業の関係で、暗くなってからがほとんど。まだ出会ったことはないが、沙耶果の帰宅も夜だろう。
あの日は、たまたま大槻が休みで、沙耶果の工事現場が定時で終わったためか……。
「先生、どうしたンですか? 彼女を助けましょうよ」
「彼女に似ている女性が、この近辺にいる。おれは、その女性を間違って好きになったようなのだ」
「どういうことですか?」
大槻は、写真を見たときの沙耶果の反応を高次に教えた。
「それはおかしい。あの写真は、このマンションの裏手にある公園の脇道を歩いている沙耶果さんを撮影したのですよね」
「駅からこのマンションに帰るには、ほかに道はない。みんな、あの脇道を利用している」
「撮ってから、彼女が自分の部屋に帰るまでの時間を計ってみましたか?」
「いくら古いマンションと言っても、上の階の人が部屋に入るときの物音なンか、聞こえやしない。よほど、そのつもりで耳をすませていないとわからない。あの写真を撮ったときは、そんなことは考えていなかったから、彼女はそのまま部屋に入ったのかはわからない。このマンションの玄関を素通りして、ほかに行ったかも知れない」
「先生、こうなったら、確かめる方法は一つ」
「なんだ?」
「公園の脇道には、10メートル間隔で街灯が点いています。そこを通るとき、ひとの顔が明かりに照らされて、はっきり見えます」
「24時間、あの街灯の下を狙ってビデオカメラを回せばいいのか」
「そうです。沙耶果さんが写っていて、その時刻、マンションに沙耶果さんが在宅していれば、写真の人物は全くの別人……。あの脇道から、このマンションの5階の部屋に入るまでおよそ5分とみて、5分後にそれらしい物音が上の504号室から聞こえてくれば、写真の人物は沙耶果さんと考えていい」
「おまえはそういうことになると、どうしていろいろ知恵が回るンだ。撮影した動画は膨大な量になる。動画のチェックはおまえも手伝え」
「もちろんです、先生!」
「大声を出すな。通行人を無断で撮影するのは、あまり誉められたことじゃない。こっそりやるンだからな。秘密厳守。いいか」
「ハッ……(小声で)はい……」
ナゾは意外な形で解き明かされた。
2週間後の土曜日。
大槻は、いつもの土曜のように、途中夕食をすませて午後9時過ぎに帰宅した。
彼は沙耶果を自宅に入れたとき以来、常に上の沙耶果の部屋のようすを気にかけるようにしていた。
室内を歩く足音は聞こえないが、窓のサッシの開け閉めくらいはわかる。この日、外から見た限り、彼女の部屋は薄く明かりがついていた。だれかいるのかも知れない。
大槻が部屋に入り、ベランダに取り付けてあるデジタルビデオカメラを確認して、保存用SDカードを交換した。このところの大槻の日課になっている。
大槻は、SDカードを2階の高次に届けようとして玄関ドアに手を掛けたとき、上の部屋でドアが開く音がした。
沙耶果が帰ってきたのか。それとも、いままで部屋にいた人物が、外から来ただれかを迎え入れたのか。ドアの開閉のようすからみて、上の部屋には2人いる。
大槻は、さらに耳をすます。そのとき、彼のスマホが鳴った。画面を見ると、高次からだ。大槻は電話に出た。
「先生、いますぐにベランダに出てください」
「どういうことだ。彼女はいま部屋にいる。2人でいるようだ」
「ですから、それは別人です。公園の脇道にいるのが佐島沙耶果さんです」
「エッ……」
大槻は、ベランダに走って、ビデオカメラを覗いた。
いる。確かに沙耶果さんだ。公園の脇道にある電柱の陰から、大槻の上の部屋に視線を送りながら、困った表情で佇んでいる。
こうなったら、やることは一つ。大槻は、脱兎のごとく、上の階へ階段を駆け登った。迷惑なンて、考えていられない。
大槻は、504号室のドアを叩いた。
「だれ? お姉さん?」
大槻は敢えて黙っていた。無言を通す。
すると、男の声に替わり、
「どなたですか?」
その声とともにドアが開いた。
現れたのは、大手ゼネコンのユニフォームを着た30代の男。
大槻は、彼に向かって、
「私は下の階の、ちょうどこちらの真下にいます大槻といいます。失礼ですが、あなたは?」
ゼネコンの男は、ちょっとムッとした顔付きになったが、
「私は、河嶋です」
大槻は、ドアのそぱにある504号室の表札を確かめる。「佐島」とある。
河嶋は、大槻が、その「佐島」と河嶋を交互に見たことに気がついたのか、
「私は、こちらの女性の婚約者で、きょうはちょっとお邪魔しているだけです」
なるほど。そういうことか。沙耶果の婚約者なら、仕方ない。しかし、高次は、沙耶果は公園の脇道に佇んでいる、と言った。ここは思い切って、話すしかない。大槻はそう決心すると、
「恐れ入りますが、沙耶果さんにお会いしたいのですが……」
「沙耶果さん?……」
河嶋は一瞬、呆気にとられたようだったが、すぐに後ろを振り返って、言った、
「摩耶果(まやか)。お姉さんにお客さんだ」
「マヤカ?」
大槻は、とんでもない勘違いをしていたことに気付かされた。
まもなく、奥から、沙耶果によく似た女性が現れ、河嶋と入れ替わるように大槻の前に立った。
「何でしょうか。姉のお知り合いですか?」
大槻は、日曜日の騒音トラブルのことを話した。
沙耶果は、目の前にいる摩耶果の姉だった。
504号室は摩耶果が借りている賃貸マンションであり、沙耶果はときどき、仕事の都合で泊まりに来るのだという。
大槻が、騒音を訴えた日曜の早朝は、摩耶果に代わって、居候の沙耶果が妹に気を使って応対したのだ。大槻が撮影した全紙パネルの女性は、摩耶果だった。
摩耶果と沙耶果は2つ違いで、姿形が双子のようによく似ている。親しくない者なら、間違えて当然らしい。
大槻は、ナゾの正体を理解できたが、公園の脇道にいまも佇んでいるはずの沙耶果のことを思った。
「沙耶果さんが、今夜来られるかも知れません」
「どうして?」
摩耶果はそう言って、河嶋を見上げる。
河嶋の顔は迷惑だと言いたげだ。そうか。河嶋は今夜泊まって行くつもりなのだ。沙耶果はそれを知っているからこそ、公園からこの504号室の明かりが点いているのを見て、どうしたものか、躊躇しているのだ。
沙耶果が、摩耶果の全紙大のパネル写真を見たとき、「あなたの恋人?」と言ったのは、妹の摩耶果を撮って自分と混同しているとわかったのだが、恥ずかしくて照れ隠しからのことばだったのだろう。
沙耶果は河嶋と同じ大手ゼネコンの現場監督をしている。摩耶果は、姉の沙耶果を通じて、河嶋と知り合い、交際に発展した。しかし、何かがひっかかる。
大槻は、摩耶果の後ろにいる長身の河嶋を見た。
甘いマスクに、がっしりした体躯。女性にモテるタイプ……。
摩耶果は、沙耶果と同じく髪を肩先まで垂らしている。愛くるしい瞳、ツンと尖った鼻、柔らかな唇。どれも似ている。2人の違いは、何か。いや、ある。口紅の色だ。摩耶果は、パネル写真にも写っているがオレンジ色のルージュ。それに対して、沙耶果は、ピンク色のルージュ。
「失礼ですが、お姉さんとは口紅の色が違っていますね?」
「わたし、ピンク色はどうしても好きになれなくて……」
大槻は、急に、いまこそ沙耶果に会う絶好のチャンスだという気がした。
「お邪魔しました。私、沙耶果さんと近く交際するつもりです。摩耶果さんには改めてご挨拶に伺います」
「エッ、姉とですか……」
摩耶果は、戸惑っている。当然だ。いきなり、姉との交際宣言されても、対処のしようがない。
そのとき、大槻は、河嶋がいやな表情をした一瞬を見逃さなかった。
大槻は、摩耶果の部屋を辞去すると、マンションを出て、公園に走った。公園のベンチに、沙耶果が高次と並んで腰掛けている。
「先生。こっちです」
高次が、立ちあがって手招きする。
大槻は、2人のそばに駆けより、沙耶果に一礼した。
「先日は失礼しました」
そう言いながら、大槻は、沙耶果のルージュがピンク色であることを確認してホッとした。2人の違いは歴然だ。
「沙耶果さんは、ピンク色がお好きなンですね。ピンクのルージュがとっても、よく似合っています」
すると、高次が大槻を脇に連れて行き、小声で話す。
「先生、ドローンが撮った504号室の室内で、ゼネコンの制服姿の男とキスしていた女性のルージュは、ピンクだったンですよ。ほら、これがドローンが撮った動画から起こしたプリントです。さっきドローンの撮った動画を見直していて、気がついたンです」
高次は一枚のはがき大の写真を示す。
それは、唇と唇が重なり合っている大写しの写真だが、一方のセクシーな唇は、鮮やかなピンクのルージュで彩られている。
「高次、あのゼネコンとキスしていたのは沙耶果さんだというのか。ゼネコンは妹の摩耶果さんの婚約者だぞ……」
大槻はそう言いながら、ベンチで涼しい顔をしている沙耶果を見て、女がわからなくなった。
沙耶果がこの場所で、504号室に行くのをためらっているのは、2人に遠慮しているのだと思ったが、本当の理由は別にあると考えたほうがよさそうだ。
(了)
ドローン あべせい @abesei
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