■「おれは増田を女だと思ってるから」発言にドン引き


 これはさー、言わなくていいよね?

 これ、どういう意味なのさ、いまのわたしなら中原を板の間に座らせて問い質すよ!

 

 まあでも、当時はそんなことできなかった。

 中原が言わなくていいことを言ってくれたせいで、はたと(はたと、てこういうときにつかう言葉だよね!)、ブラジャーという語句の意味するところが像をむすんだ。そのことばの後に「女」と言われた事実がみぞおちをきゅうっと締めつけてきた。比喩じゃなくて、マジで。彼の目線は礼儀正しくわたしの顔のうえにあったけれど、耳の後ろあたりがざわついた。

 ほんともう、そういうのは聞きたくなかった。生々しいし、気持ちが悪い。もちろん、そう感じる自分もキモチガワルイ。

 でもって、わたしがそう思ってることも中原は察したようだ。そのせいか、みんなそういうもんなんだよ、と呆れ声でつけたして、でも増田にはわかんないだろうからいいよ、とトドメめをさした。

 いいよと容赦されるのが何故なのか気になったけれど、あえて問わないことにした。というより、わけのわからない敗北感に打ちのめされて素通りした。

 敗北感、うん、敗北感だったな、あれは。

 おれは知ってるけどおまえは知らないんだよ、または、おれはもう違うところに進んでるけどおまえはまだそこにとどまってるんだよ、て告げられたわけだ。

 わたしが黙ってうつむいていると、とにかくつけとけよ、と命令してきた。単語を抜かしたのは彼の廉恥(れんち)心(しん)だろうと理解した。でも、なんでそんなことを言われないとならないのかわからない、ていう憤りはつのった。

 一方で、いくどか深呼吸して怒りをおさめたあとには、中原に感謝しないとならないのだろうとも考えた。わざわざこんな嫌な役をかって出てくれたのだから。今となってはそこに野郎ども独特のパターナリズムを感じとってうんざりしないではないけどさ。

 だからこそ、有難迷惑だと撥(は)ねつけるのはカンタンだ。カンタンだよ、そんなの。でもお互いにそれって不毛だよね。

 むろん、あのときの中原はこれが「善行」であると思っていたに違いない。そこをさらに一歩踏み込んで、おのれの善意や厚意すらも「押しつけ」であるってところまで背負わないと意味ないよね。しょせん人間なんて神様じゃないから未来のことまでわかんないんだもん。結果なんて見えないんだから、さ。

 それでもわたしは、中原の忠告にはこちらを案じる気持ちがあったと今も、信じたい。信じてる、ていうのは馬鹿っぽいので口にしないけど。

 でもって、善意や厚意が必ずしも世の中を平安にしないことくらい知っているとつけたしておく。当ったり前にね。でも忘れたくなるんだよね、これ。

 

 教室を見渡すつもりで思い描いてみると、わたし以外にも胸の小さい子はいた。それでも、ない子はないままに、みなに合わせ、我慢してつけていた。わたしは自分の肉体の居心地の悪さを何かとひきかえにできなかった。つまり、「みんなしてるから」ってやつ、と。

 それに、本音をぶっちゃけると、胸の膨らみがないのにブラジャーをするのは見栄を張っているようで逆にみっともないと感じてた。

 そういうあれこれを思い描いて無言でいると、しょうがないだろ、と中原が続けた。

 その苛立った調子に一瞬で気持ちが挫けた。何がしょうがないのか考えるのも投げ出したくなるほどに。

 ある一定数の「平均」から外れるとおかしいと思われることか、彼がそこを気にしてしまうのがしょうがないのか、女のひとの胸が大きくなり男女差ができるのが自然の振る舞いであるから受け止めろという意味なのか、なんなのか。

 でも、だけど、ね。

 なにがしょうがないのか説明せよ、と命じる心積もりもなかった。互いにそれは言わされたくないし聴きたくないことばだってのはワカルじゃん。とはいえ口は勝手に動いた。

 

 わたしも中原みたいに男に生まれたかったよ、そうすれば色々うるさく言われないし。

 男だって、増田が考えてる以上に色々あるよ。

 それもわかってるけど、でも、やなんだよ。

 

 中原はおもいっきりわざとらしくため息をついてみせた。厭味(いやみ)ったらしかった。けどこっちも、いやなものはいやだってことを撤回する気はなかった。

 すると中原は、乾(いぬい)がさ、とクラスメイトの名前を口にした(もちろん、この名前も仮名だ)。

 乾くんがなに?

 乾がおまえのこと色々聞いてきたよ。

 乾くんはちょっと長めの前髪に眼鏡をかけた痩せた少年で、ものしずかでお勉強ができたので一部の女子にはひそかに人気があった。そういえば一度だけ、星座とギリシャ神話について長々と語り合ったことがある。課外学習パンフレットの天体観測の挿絵をかくのに天文部に話を聞きにいったときだ。教室でもあれくらい話せばいいのに、とお節介なことを考えた。

 そんなことを思い出しながらわたしは黙って中原を見あげた。だって、なにを言えばいいのだ。乾くんがわたしに興味があるというのはおそらくわたしが好きだという意味に違いない。でも、そんなことをわざわざ教えてくれてありがとうと答える必要はないし、そういうのは乾くんに対してもわたしに対しても失礼な感じだ。

 責める視線を感じたせいだろうか。中原は、もういいや、と吐き出して背中をむけた。やたら速足な上履きの足音が遠ざかった。

 取り残されたわたしは、ふるふるっと犬みたいにして頭をふった。髪が頬に触れた。そろそろポニーテールにするに相応しい季節だった。

 

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