有隣堂の知らないカメラの向こう側の異世界
未来野未朝希
第1話 岡﨑弘子、みみずくを拾う
岡﨑 弘子は飢えていた。
夜明け前の横浜、伊勢佐木町の道幅の広い商店街を今にも盛大に鳴り出しそうなお腹を押さえながら、弘子は前かがみに歩いていた。
気を抜けば、倒れ込んでしまいそうなほど、弘子は空腹と疲労と眠気でもう限界だった。
弘子がこんなにも飢えている理由、それは半月程前に遡る。
弘子は生粋のお嬢様だった。
何不自由の無い生活ではあったが、弘子はどうしても働いてみたいと家出同然に家を飛び出したのだ。
とりあえず飛び込んだ不動産屋で、たまたま紹介された閉業したばかりのたばこ屋を気に入ってしまい、いきなりキャッシュで物件を購入した。
…弘子は賃貸というものを知らなかった。
お小遣いは半分以下になってしまったが、弘子は顔がニヤけるのを止められなかった。
狭くはあるが、新しい自分だけの家と新しい生活に、弘子は胸を弾ませた。
それにしても。と、弘子は思う。
何か仕事を始めようにも、これといった資格は無い。
運転免許はあるにはあるが、ペーパードライバーだし、パソコンもあまり使えない。
実家暮らしで何不自由無く育ったものだから、弘子はとにかく世間知らずで生活力が無かった。
どうしたものかしらと、ため息をつく。
とりあえず、お茶にしようと、弘子はたばこ屋の裏の小上がりにある6畳間で、前の主人が残していった丸いちゃぶ台に、実家から持ってきたゴージャスなアフタヌーン・ティーセットを並べた。
3段のケーキスタンドには、不動産屋から引っ越し祝いにもらった紅白まんじゅうを上段と中段に、下段に何もないのは寂しいので、お隣さんからもらったみかんをのせ、お気に入りのティーカップで優雅に紅茶を飲んだ。
これまた前の主人が残していっためちゃくちゃ小さいテレビの電源を入れる。
急な引っ越しだったので、前の住人の不要品がほとんどそのままだ。
前の住人のご厚意で、必要なものがあればどうぞ使ってくださいと言ってもらえたので、湯沸かしポットや調理器具、下駄箱やカーテンなどなど、生活必需品はありがたく使わせてもらっている。
たまたまつけたテレビでは、探偵についての番組をやっていた。
「探偵業って資格がなくても必要な届け出をすれば開業できるんですね!」というコメントを聞いて、弘子はこれだと思った。
「ふむふむ。探偵って資格がなくてもできるのね!」
普通なら初めての仕事で探偵なんて大変そうな仕事は選ばないだろうが、弘子は世間知らずだった。
翌日から、早速役所や警察に行って色々な手続きをなんとか済ませ、お隣の喫茶店の奥さんからもらった白いカラーボックスの棚板にマジックで『弘子探偵事務所』と書いてガラスのショーケースの上に乗せた。
元たばこ屋だったがらんとしたショーケースには、これまた前の主人が残したままの木彫りのくまが鮭を咥えて勇ましく立っている。
「よし!」
弘子はご満悦だった。
それから1週間、来る日も来る日もたばこ屋の店先に座ってお客を待ったが、人っ子一人来ない。
たまに目が合う通行人も弘子のお手製の看板を見て笑いをこらえるようにそそくさと去っていく始末だ。
見かねた隣の喫茶店の奥さんが、近所の迷い猫探しの話を持ってきてくれた。
依頼というわけではないが、三毛猫の写真のチラシを見ると、
※見つけてくださった方には金1万円差し上げますと書かれているのに飛びついて、弘子は猫探しを引き受けることにした。
もし、見つける事が出来たら、評判を聞きつけてお客さんが来てくれるかも知れない。
猫用おやつと、スマホで調べた猫の捕獲に便利と書かれていた洗濯ネットなどを買い、
その時点でサイフの残りは300円になってしまったが、引き落とすには土日でATMの手数料がかかるのでしばらく食事はお預けだ。
捜索を開始して数分後、驚くことにすぐに猫を発見した。
弘子は歓喜した。
すぐに捕まえれば時給1万円だ!などと欲張ったのがいけなかったのか、弘子が慌てて猫のおやつの袋と洗濯ネットをビニール袋からガサゴソと取り出そうともたついているうちに、猫は逃げてしまった。
「ああ!猫ちゃん、待ってー!」
すぐに追ったが、あっという間に見失ってしまった。
それから、探してはまた逃げられを繰り返していたら、あっという間に2日が過ぎようとしていた。
それで今、お腹をすかせて歩いているわけだ。
疲れた足を引きずるように歩いていると、目の前にゴミ袋の山が見えた。
透けて見える袋の中に、賞味期限を切らしてしまったのか、手つかずのパンが見える。
思わずゴクリ、と喉を鳴らす弘子。
「はっ、いけない、いけない!」
弘子は一瞬頭に浮かんでしまった想像を追い出すように頭を振った。
いくらなんでも、生ゴミにまで手を出してはおしまいだ。
悔しいが、手数料を払って貯金を下ろしてパンでも買おう。
そう誓った弘子の足元に何かがぶつかった。
それは、茶色のふわふわとした羽毛に覆われた丸い何かだった。
見た感じ、うつ伏せに倒れているといった様子だ。
おそるおそるその辺に落ちていた太めの木の枝でつついてみる。
反応はない。
今度はひっくり返すように押してみた。
ひっくり返ったその物体は、オレンジ色の身体に黒いくちばし、頭の上には大きな耳が生えていて、黄色、ピンク、水色、緑の縁飾りの様に生えた羽毛、お腹には三角の不思議な模様がある。
その異様な見た目に怯んだが、それはどうやら60cmぐらいの大きさの鳥の様な物だった。
「うーん、何かしら?これは…ぬいぐるみ?鳥?ふくろう?みみずく?」
確か、耳があるのがみみずくだとどこかで聞いたことがある気がした。
弘子は恐る恐る、みみずくに触れてみた。
温かい。
どうやらぬいぐるみではなく、生き物のようだ。
でも、息はしていない。
飛んでいて電柱にでもぶつかってお亡くなりになったのだろうか?
だとしたら、気の毒なことだ。
「…どうか、成仏してください」
両手を合わせて目を閉じた瞬間、弘子のお腹が盛大に鳴った。
…そう言えば死ぬほどお腹が空いていたのだ。もう2日以上何も食べていない。
弘子は思わず吸い込まれるようにみみずくのお腹に触れた。
意外としっかりしていつつもやわらかな感触。
それは鶏むね肉を想像させた。
ゴミ置き場とは言っても、このみみずくは少し手前に倒れている。
ゴミというわけではないだろう。
「…みみずくって食べられるのかしら…?」
弘子はまた、ゴクリと喉を鳴らした。
「よし、お隣さんに聞いてみよう!」
弘子はそのオレンジ色の物体を抱えて意気揚々と家に帰っていった。
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