最終章 桑の実
それからの時間は倍のスピードで進んだ。あっけなかった。瞬く間に一ヶ月が過ぎ、気に留めながらも、もう一回行くことも出来ないまま…君彦は寂しい最後を向かえた。
おばさんの計らいで告別式に呼んでもらった。でも、田舎暮らしの私達には場違いな処だった。会社の人達は悲しげでも君彦の業績を讃えていたし、口々に早かったことを残念がりながら次に向かっていたし、静けさより慌ただしさが印象的だった。
最後にお神輿のように若い人たちに担がれて霊柩車に収められた君彦の棺。
君彦を乗せた霊柩車は静かに走り出した。私達のたくさんの後悔を寂しく乗せて。
ひしめき合う黒塗りの乗用車。お屋敷を出入りする葬儀屋の人たち。多くの参列客に紛れて一番後ろで、静かに手を合わせた。
君彦…あなたは何の為にあんなに仕事ばかりしてたんだろう。君彦は何の為に生まれてきたんだろう。出会った時から君彦はいつも何をしても熱心だった。私と荒也がまだ先も見えず、これからに悩んでいた時、君彦はとっくに自分の進路を決めてそれに向かって脇目も振らず歩いていた…ううん全速力で突っ走っていた。
私といることに安らぎを求めたりしなかったんだろうか。普通の人のようにゆったりしたり、怠けたり、時にはずるしたりすることが出来なかったんだろうか。
私は君彦との毎日を思い出す。悲しかった。辛かった。寂しかった日々。そして…若く、まぶしかった日々。
「萌黄、行くか」
「うん」
君彦の生き様を映し出すたくさんの参列者。大きな黒い塊は、いつまでも長い車の列を見送っていた。
私達は君彦の育った、この辺りでは大きなお屋敷に一礼して用意してもらったタクシーに乗った。
君彦は多分、雛子のことを思って高尾に来なかったんだろう。私達の提案にあんなに嬉しそうな顔をしたのに。荒也の気持ちをちゃんと受け止めていたのに。
もう手遅れだと知らされた時、そのままおばさんの待つ福岡に帰ってしまった。あの身体での帰郷はさぞ辛いものだったはずなのに。
おばさんが雛子の事を知ったら大変なことになっただろう。私達の周りの人たちにも知らせまいとしたのだろう。私達との接点を消し去るように君彦は姿を隠してしまった。もう一度、雛子に会いたくはなかったのだろうか。この世に残したたった一人の愛娘に…
死んでしまったらもう二度と雛子には会えないのに。
「タクシー止めて…」
「すみません、ちょっと停めてください。どうした?」
「ほら、桑の実、あんなにたわわになってる。この道、私達の通学路なの、ここを下りると左に曲がって向こうに校舎の屋根が見えるでしょ」
私と荒也が見上げる桑の木に、濃い紫色の桑の実が枝をしならせて重たそうにびっしりと成っていた。
「家の山のとは種類が違う?」
「さあ、大粒でしょ。これ君彦は嫌いだったの。田舎の象徴みたいに言って、絶対食べないの。
昔から此処を嫌ってた君彦が、最後に此処に帰ってこれて良かった。おばさん泣いてたけど最後を看てやれてよかったって」
「お前と君彦の故郷か」
「良い景色でしょ。随分長いこと帰ってないのにこの道が舗装になったくらいよ。変わったの」
「似てるよ、家の山に」
「何も言わないで、逝ってしまったね」
「あいつの強がりに最後まで付き合ってやらないとな」
荒也がポツリとそう言った。
「多分最後まで、萌黄の事が好きだったんだろうな。でも、萌黄のこと幸せにしてやれないとわかってた。そう言うのは嫌だから一緒にはいられない。そういう強がり。
お前のこと幸せにしてやれってあいつが言った時、悔しくて腹がたったよ。俺にはその時わからなかったけど、今思うと萌黄を幸せにしてやりたくてしかたがなかった、あいつの気持ちがわかるよ」
「うん、そうだね」
悲しい、人を思うことは悲しい。一度だけ、たった一度だけしか雛子に会わなかった君彦。あの短い時間に自分の全てを決めてしまったのだろうか。私には理解できなかった深い愛情を私は君彦と荒也からずっともらい続けていたのかもしれない。
君彦のことをいつか私は雛子に話すのだろうか。私の中に生き続ける君彦と荒也の中に生き続ける君彦に育まれて雛子は育っていく。私は君彦のことを消し去ろうとしていた。荒也のために君彦を必死に忘れようとしていた。その君彦が永遠になっていく。もう届かない君彦を思い出して心に刻んで置かないと…
「雛子にこの桑の実、お土産に持っていくわ。この味を教えてやりたい」
「不思議がるかな、わざわざお土産って言ったらさ。お母さん何処行ってきたのって」「そうね。私も行きたかったって駄々こねるわね」
荒也が枝を寄せてくれて私はよく熟した実を枝から採った。
「君彦…さようなら」
私はもう一度君彦に別れを告げた。
了
桑の実 @wakumo
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