桑の実
@wakumo
第一章 朝霧の中に
雨に濡れた廊下を引きずるように歩くスニーカーの音が響く。異様な摩擦音を立てて部屋の前を横切る。時計を見上げると11時…この頃帰りの遅い隣の住人だなと目を画面に戻すと、靴音はまた近づきこの部屋の前で止まった。玄関のベルの音が鳴りこの家への来訪を告げる。私は見始めたばかりのビデオのスイッチを消して細めにドアを開けた。
ドアの向こうにはいつもの決まり悪そうな顔で荒也が立っていた……
「まあ、荒也……」
幼なじみの君彦とこのアパートに住み初めて間もない頃。君彦は、バイト先の友達だと言って、控えめな、真面目な印象の荒也を家に連れてきた。
その後、「食事に誘った」「ゲームをする」と理由をつけては君彦にひっぱられ顔を見せるようになった荒也は、少しづつ打ち解けて話をするようになった。
荒也と私の性格がよく似て馬が合うのを知った君彦は、自分が後ろめたくてバツが悪かったり、喧嘩をした後の機嫌をとりたい時など、穏やかで物静かな荒也をよこして、私の気持ちをなだめさせたりした。
無口な荒也は、いつも自分のペース、人のことなどお構い無しの君彦とは違い、悩みごともなんでも打ち明けられて、頑固になっていても素直な私に引き戻してくれる。君彦と一緒にいる時より荒也とそうしているときの自分が、私にはいつか結構好きな自分になっていた。
「荒也、どうしたの?」
「ちょっと近くまで来たんだ。最近、君彦遅いんだって、どうしてるかなと思って」
「そう、外寒い。私も出るよ」
私は上着をはおりカギをかけた。
君彦の友達だから…私も友達みたいに気やすくしているけど、荒也は私より一つ年上。マメに顔を見せるわりに、話はいつも何処か君彦に遠慮して、当たり障りの無い世間話が多かった。
最近、彼の仕事が忙しくなり、帰りも遅かったり、帰らなかったりでゆっくり話も出来ない。小さな擦れ違いを感じ始めた私と君彦の間は、気持ちが思うように通わずぎくしゃくしていた。
もう駄目かも知れない。勝手に一人で決め付けて、不安な癖に素直になれない。わかっていてもどうしようもない。抜け道の無い思いに、思えばもう長いこと振り回されていた。
私達は近くのコンビニで缶コーヒーを買って、手を温めながら国道のガードレール沿いに車のライトの行き交う中を歩いた。
「君彦この頃遅いのか?」
「うん、忙しそうにしているよ。そうそう、荒也にも手伝って欲しいって前に言ってた」
「人間相手の仕事って俺にはどうも……」
「そうね、営業はむかないかもね。荒也はどんな仕事が好きなの?」
「特に無いな。まだわからない。どうしてもやりたいって事が、見つからないな。もう少し時間をかけて探さないと。
萌黄は?君彦がいなくて一人で心細くはないか」
「…………」
そんなこと真面目な顔して言われたって正直に答えられない。
「そんな心配しなくていいよ。平気、平気。私、結構自分勝手だから一人の方が気楽で好きかもしれない。
だから、荒也が思うほど寂しくしていないよ」
私はそう言うと。思いっきり明るく作り笑いをした。
「そうか……」
「この前ね、納期に間に合いそうになくて徹夜で縫いぐるみ作りながら、あれこれ話してたんだ。競馬の大好きな子がいて、相当注ぎ込んでる話し。むきになって話すの面白かったな。
そうだ。ねえ、馬を見に行こうか?明日休みだし、朝霧のもやの霞む中を突っ切って走ってくるの、映画みたいで結構いいよ」
「二人でか?」
「うん、朝早いからうちに泊まっていくといいよ。君彦いないからベッド空いてるし」
そう意地悪そうに言うと荒也は返事もせずにうつむいてポケットから出したたばこに火を付けた。そう、つい意地悪をしてしまう…
「荒也は優しいんだよね。いつも私や君彦に気を使って。君彦にいわれたからって無理してのぞきにこなくたっていいんだよ。私は元気でやってるからさ」
「そればっかりじゃないさ。俺が萌黄の顔みたいって思うこともあるし」
「……」
「家まで送るか」
付けたばかりのたばこをもみ消す。
「そうね。泊まるわけにはいかないか」
「やっぱりな」
寂しさが胸を締め付けた。誰かに、そう、荒也に支えて欲しいと思った心の動きを止められない。でも、それを必死にカギの壊れた引き出しの奥深く仕舞い込もうとまた今夜ももがいていた。
「じゃあ」
「うん、またね」
「あ、荒也、楽しかった」
「ああ」
重いドアを閉じると。また私は一人になった。一緒に暮らしてる人がいて、寂しさを持て余している自分は一体何を欲しがっているんだろう。
寂しいって一体なんなんだろう。君彦の笑顔がずっと好きだった。明るい笑い声を聞いているだけで私も幸せになれた。あの時の温かい気持ちを何処かに置き忘れてしまっている。
今、私はもう一度手探りでぬくもりを探していた。君彦との時間よりも優しかったあの頃の自分を一瞬でも取り戻したい。そう思っていた。
「ねえ君彦。この前突然荒也が来てくれた。君彦が電話でもしたの」
「え、ああ、前に偶然新宿で会って、この頃忙しいって話したから……気をきかして様子を見にきたんじゃないの」
「そう、私、荒也と一緒に、ほら港の近くにある競馬の訓練所に行きたいなあと思って、朝早いから泊まっていったらって言ったんだけど、やっぱりまずいなって顔して帰っていった」
「そうか、お前、前から行きたがってたもんな。もう少し仕事が落ち着いたら俺が連れていってやるよ」
「えーじゃあ、悪い子にならないでおとなしく待ってよ」
「は、は、荒也何か言ってたか?」
「ううんあなたのこと気にしてた。この頃忙しいかって」
「あいつ、本当は萌黄のことほっとけないんじゃないのか。お前達仲がいいから」
「え……」
『そればっかりじゃないさ、萌黄の顔みたいって思うこともあるし』そう言った荒也の顔を思い出す。洗濯物をたたむ手が止まった。心臓も一緒に止まった。
君彦は私達のことどう思っているんだろう。私達、君彦の前でそんなに仲良くしてるのかなあ。
「荒也は君彦に気を使ってるだけなんじゃないの。友達だし、ほら、私はあなたの……」
「あなたの何?」
「へへ~なんだろう?」
そう言ったきり荒也の話は止めになった。いつからか、私達はお互いの心をきちんと見つめ合うのを止めて、心の行き詰まりを簡単に誤魔化す方法を覚えてしまっていた。
そして、そればかりに夢中になって本当の素直な気持ちを、手の届かないため息の出るほど遠い処に置き去りにし始めていた。
「風の音がする」
「この辺りは大きな木が多いからな、風が吹くとざわざわ揺れて怖い気がするよ」
「君彦に抱かれていたら平気だよ」
「俺あんまり強くないから頼りないけど……萌黄のことなら守ってやるよ、結構大事だから」
「へえ~そうなんだ」
「今のところって言っておこうかな、いつ駄目になるかわからないし」
「ころころ変わるんだね」
「まあな、そんなとこだ」
「君彦、前みたいにいつも笑ってないね」
「そうか?」
「うん、いつも良い顔で笑ってた。そんな君彦が私は好き」
「そうかな、萌黄より俺のほうが一足先に大人になったのかな」
「私は置いてきぼりなの」
「ちょっとだけなら待っててやるよ」
大人振って君彦は静かな目で私を見た。君彦の腕の中で確かに愛されていると感じていながら、私の心は今にもするりと抜け落ちてしまいそう……頼りない自分が君彦には重荷だろうと感じた。
「ねえ君彦、私自分の気持ちが時々わかん無くなって困るときがあるんだけど、君彦もそんな時ある」
「例えばどんな時だい」
「例えば……君彦に抱かれてとっても幸せだと思ってるのに、なんかすごく不安で、嬉しいような悲しいような自分でもどうしたらいいかわからなくなって涙が出たりするの」
君彦は私を見つめて少し考えた後、
「お前が素直だってことだよ。悲しいときは悲しいし、嬉しい時は嬉しいし、俺も今こうしてお前といることが幸せだって思うけど、仕事を始めたらそれどころじゃなくて萌黄のことはすっかり忘れてるよ。
俺も、お前も不器用なとこだけは一緒だな」
と言った。
「私のこと忘れちゃうの……」
「だめか?」
「いつも思って欲しいけど、忘れちゃうんじゃしょうがないよね」
「あんまりしょうがないって顔じゃないな」
「うん」
私は小さくうなづいて君彦の胸にしがみついた。一人で埋められない悲しみは繰り返し私をさいなんで気持ちのどこかを蝕んでいく。それと向き合うのが怖くてどうにかしてと喘いでいるように……
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