第6話 破魔矢

 甘利助教は不在だった。

 講義か、ゼミなのかも。

 さあて手詰まりだよね。

 教授棟の2階で部屋を開けると、「甘利先生は不在ですよ」とまだ若い講師がノートPCに前傾姿勢のままで声をかけてきた。データの一時保存を終えるまでは、目線もくれなかったので、失礼なやつだなあと思った。

 巻き毛で痩せ細っている狸顔に、メタルフレームの眼鏡をかけている。黒目に潤みがないのでそれは伊達で、本当は視力が良さそうに思えた。

 それからこちらを見やって、「いつも仲がいいね」と言った。

 背後では、求厭がにっと笑っている。ボクとは不釣り合いに映るはずだ。それでも彼は視線を戻してキーボードを叩き始めた。

 その違和感を飲み込んで、「じゃあ失礼しますね」と並んでそこを離れた。


 午後のキャンパス。

 廊下には講義の合間だったので、数人の白衣を着た学生たちが歩いている。

徹夜の実験が続いているのか薄汚れた白衣も混じっている。

 無言のまま、彼らに声が届かない距離を稼いで「幻でも見せたの」と尋ねた。

「先刻までご一緒だった、貴女のご友人の残留思念を纏っているだけですよ。名前は知りません」

「その娘の名前、さっき知ったばかりよ」

 それであの若い講師の対応に納得して、また思い出した。

「中講堂でも、そうだったんだ」

「ええ、自分は影であるが故・・・それはそうと、惡意が迫っていますな」

 背後を見ようとすると肩を掴まれて「動かないで」と静止された。正面を向いたまま、その指から拒絶のできない圧を感じた。

 でも千里眼という能力がある。

 意識を蜘蛛の糸のように周囲を巡らせた。小さく畳まれた折り紙を展開するのに似ている。繊毛せんもうを空間に拡大していき、その一本一本に感覚を乗せる。

「それも駄目ですよ。見破られます」

 しおしおとボクの繊毛がしおれていく。

 背後の彼にそれが触れた場所から呑み込まれていく。

 

 その肉体には厚みというものがなかった。

 その肉体には体温というものがなかった。

 その肉体には虚空の深淵のみが存在した。


 この意識の繊毛ですら全て刈り取られて、呑み込まれていく。蟻地獄の暗黒の淵に立たされている焦燥感が脳裏を灼いた。しまった、六花姉を呼ぼうとしたが、その思いも蟻地獄の流砂の壺に吸い取られていく。

 これが彼の能力なのか。

 視界も闇に掴まれた。色彩が崩れて漆黒の、そう彼のまとっている服のような墨色の世界に塗り潰されていく。

 けれど解せない。

 この肉体が、つまり影が空っぽだって知っているはず。こんな能力があれば、憑依も簡単にできたはずだ。それをなぜ実行して来なかったのか。

「もう大丈夫です。そんなに硬くならないで」

 肩に食い込んだ指の力が消失していた。

 色彩の奔流が流れてきて、目眩めまいがした。


 里宮の本殿に顔を揃えた。

 甘利助教は胡座を組んで、本殿の右手に座っている。その隣に求厭が細身を折り畳むように見事に正座している。

 祭壇のある上座は照明だけ灯して、誰もいない。

 本殿の左手には六花姉、とその隣に座った。

 座る際に姉が左肘をくいと引っ張った。なんてモノを連れてきたの、という意味だとわかったわ。

「お久しぶりね」

「先日は失敬を」

 両者の視線が数激すうげきを切り結び、空気ですら発火しそうだったので姉の袖を引っ張る。求厭はさも可笑そうに唇を押さえた。滑稽でならない情念が溢れている。

「このお歴々が揃いも揃って。これだけの知見者が・・・」

 座の中央に史華の、あの手鏡を帛紗の上に掲げていた。

「貴方方が手に入れたものが、一体どんな成り立ちのものかご理解してはいないのですね」と彼は口を切った。

「まず最初にこの手鏡からお話ししましょうか。うつろ鏡というものですね。虚ろつまり空っぽということです。夜光貝の貝殻を集め、銅板に漆で貼りつけたものです。これは人間の姿を転生させて影を作ることができます。それが魍魎でも異能ごと移せますし、魍魎を人体に受肉させることもできます」

 そうして斜視の眼でこちらを見たが、その焦点の先端はボクなのかはよくわからない。

「貴女が実は影ですよね。ここにいない実体は狙われていらっしゃる」

 その言葉に頷くほど、子供でもない。

 求厭は祭壇に掲げた、小太刀を見やった、というか顔を向けた。

「そして小太刀、あれは十束刀とつかとうです。拳十個分の刃渡りの刀ですな。数少ない鬼を屠ることのできる刀です」

「・・・元々、鬼は古語でいうぬという名詞が変化したものです。おぬ、つまり本来は存在していないという意味です。人間の猜疑心や恐怖心を利用して、残留思念となった霊がその磁場に憑依する。鬼というよりも、鬼を畏れる心を斬るということでしょうか」

「貴女はこの十束刀の真名を受け継いでいらっしゃる?」の言葉を六花姉に掛けたが、肩を細やかに揺らしたのは甘利助教だった。

「最後に六龍珠ろくりゅうじゅ、実に惜しいことをしました。奪われるのも道理。図らずもここに全てが揃ったのですからな」

「何がです」と重い口調で助教が言った。

「鏡、剣、勾玉と揃えば三種の神器でしょうよ」

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