10 解

 私が驚愕した一連の数式とは、以下のものである。これは、イギリスの数学者ジョージ・ブールにより一八四〇年代に創案されたもので、以後、オーガスタス・ド・モルガン、ゴットロー・フレーゲらの手を経て、E・V・ハンチントンにより現在の形にまとめられた(なお一八四〇年代といえば、あのヴァイオリン協奏曲が発表された年代――ベートーヴェンが死にワーグナーが台頭してくるまでの、ベルリオーズ、メンデルスゾーン、シューマン、リスト、ショパンら浪漫派の作曲家の時代――であり、また歴史的にはアヘン戦争が勃発し、日本で外国船打払令が緩和された時期に当たる)。


  a + b = b + a (交換法則)

a × b = b × a  

  a + b + c = ( a + b ) + c        (結合法則)

a × b × c = ( a × b ) × c

a × ( b + c ) = a × b + a × c  (分配法則)

 ※ a + ( b × c ) = ( a + b ) × ( a + c )

  a + a'= 1             (和の規則)

 ※ a + 1 = 1     

  a + 0 = a

※ a + a = a

(ここでa' はaの補元、すなわちaでないものの集合、1は全体集合、0は空集合である)

 ※ a × a' = 0            (積の規則)

   a × 0 = 0

   a × 1 = a  

 a^2 = a × a = a (筆者注 ^2 は二乗を示す。^n はn乗)           

 ※ (a^n = a × a × ・・・ = a )

 ※ a + a × b = a           (吸収の規則)

 ※ a + a' × b = a + b

 ※ ( a + b )' = a' × b'        (ド・モルガンの法則)

 ※ ( a × b )' = a' + b'


「※印」のついた式は、このブール代数が一般の演算とは異なる場合を示す。また、この代数が集合論に利用されるときには+記号の代りに∪(カップ)、×記号の代りに∩(キャップ)が用いられることが多い。

「※印」のついた式について集合論的に簡単に説明すると、まず和の規則 a + a = a は、時計の集合と時計の集合との和集合は、依然、時計の集合であるというところから理解されると思う。

 かなり特異な感じのする積の規則 a^2 = a も、a^2 = a × a = a と考えれば、和の規則との類似で、時計の集合と時計の集合との共通部分はやはり時計の集合である、ということから理解できるだろう。そうすれば a^n についても a^n = a × a × a ・・・ = a となるであろうと想像がつく。また a^2 = a より a^2 ⊶a = 0、つまり a (1 ⊶a) = 0 が得られる。1とはここでは全体集合のことだから 1 ⊶a' はaでない集合の全体、すなわち a' の補集合aを表している。つまり積の規則のひとつ、a × a' = 0 が導かれたわけだ。

 これよりもう少し複雑な分配法則や吸収の規則、ド・モルガンの法則については、ベンの図式を用いて話を進めるのがわかりやすいだろう(この図式は外枠が全体集合、中の円がそれぞれの要素の部分集合を表している)。

 例えば分配法則 a + (b × c) = (a + b) × (a + c) では、aは図1、b × c は図2で表されるから、a + (b × c) は、当然図3のようになる。


 ※ 画像表記できないサイトは、以下のURLに飛んでください。

   以下、同じ。


現象_ベン図_1_2_3

https://37368.mitemin.net/i730671/

<i730671|37368>


 次に a + b は図4で、a + c は図5で表されるから、(a + b) × (a + c) は図6のようになる。


現象_ベン図_4_5_6

https://37368.mitemin.net/i730672/

<i730672|37368>


 図3と図6より、明らかに a + (b × c) と (a + b) × (a + c) が等しいことがわかるだろう。

 これは例えば、目覚まし時計の集合aと、日付入りで、かつ、クォーツ式の時計との集合 b × c の和集合 a + (b × c) は、目覚ましで日付入りの時計の集合 a + b と、目覚ましでクォーツ式の時計の集合 a + c との共通部分 (a + b) × (a + c) に等しいということを示している。

 吸収の規則 a + a' × b = a + b の場合は図7~11のようになる。


現象_ベン図_7_8_9_10_11

https://37368.mitemin.net/i730678/

<i730678|37368>


 これは目覚まし時計の集合aと、目覚ましではなく、かつ時計である集合 a' × b の和集合 a + a' × b は、目覚まし時計の集合aと時計の集合bの和集合 a + b と等しいということを示している(ド・モルガンの法則も同様に取り扱うことができるが、ここでは割愛する)。


 さて、この代数を元に私がまず行ったのは、+と×記号を用いたリストの整理だった。 


 ○ 二台の車 → 衝突 → 一台の車


 この<現象>は一台の車をa、衝突という事態を×記号で表すと、


 a^2 = a × a = a (積の規則)


 と表記することができるだろう(このとき私は二つのaを結びつける記号は×ではなく+でもよいと思ったのだが、後に×記号こそ、この事態を表現するのに適しているものだとわかった)。

 なお、走っている車には必ず運転手が乗っているので、aは正確には走っている一台の車となるだろう。

 次に、一輛の列車を、車の例と同じくaで表せば、


 ○ 二輛の列車 → 衝突 → 一輛の列車


 という<現象>は、やはり、


  a^2 = a × a = a


 と表記できるはずだ。

 さらに、いくつかのグラス、いく人かの子供たちの場合は、ひとつのグラス、ひとりの子供をそれぞれa、打つかるという事態を×記号で表せば(押しくら饅頭も、その本質は互いに打つかり合うということである)、その<現象>は、


 a × a × a ・・・ = a


 すなわち、


 a^n = a (積の規則)


 と記述できるだろう(ここで、先の車と列車の場合に+記号ではなく、×記号を用いた正当性が認められると思う。つまり×記号は本質的に打つかるという事態を表現するのだ)。

 次に、本屋にいたビジネスマン風の客をa、私という客(あるいはビジネスマン)もa、本屋の店主をbとし、言い争うという行為を×記号で表せば、


 ○ 本屋で客と店主が争いをしていた → 私が店に入る → 店主が消失する


 というあの<現象>は、


 a + a × b = a (吸収の規則)


 と書き表すことができるだろう。そうすれば、


 ○ 密談中の与野党代議士 → 別の野党代議士 → 残された与党代議士


 という<現象>も、野党代議士をa、与党代議士をbとして、


 a + a × b = a (吸収の規則)


 すなわち、本屋の場合と同様に書き表せる(つけ加えるなら、もしこの推論が正しいとすれば、数式中aとbとを結びつけるのに×記号が使われていることから、料亭での与野党間の密談には、かなり激しい議論の応酬があったと推測できる)。


 ○ 愛しあう夫婦または恋人たちの突然の消失事件


 さて、人間という区分で見た男と女の全体集合を1としたとき、例えば男の集合をaと置けば女の集合はa(男)でないもの、すなわちa’(女)と表される。もちろん、女をaと表した場合は男がa’ である。すると、もし愛しあうという行為を×記号で表すことができたとすれば、この<現象>は、


 a × a' = 0 (積の規則)


 と表記できるだろう。ここで得られた0という結果は、私と絵理子が束の間体験しかけたあの<無>の感覚をかなり的確に表現しているようにも思える。


 ○ 遅れることが必至だった重役会議 → 開催の宣言 → 役員の出現

 仮に会議参加者の全体集合を1とすれば、参加予定者はすべてその集合に含まれていることになる。すると、


 a + 1 = 1 (和の規則)


 そこまで考えて、私は社内スポーツ大会の件を思いだした。そこでは私も参加者リストに加えられていた。すなわち、スポーツ大会参加者の全体集合を1とした場合、私はその部分集合だったわけである。それゆえ、これも、


 a + 1 = 1 (和の規則)


 と表記されてしかるべきだろう。

 さらに、ボーリング支持者の集合をa、野球支持者の集合をbとすると、後にスポーツ大会の種目がボーリングに決まったことは、


 a + a × b = a (吸収の規則)


 となるようだ(ここで×記号は、例の女子社員が口にした喧々囂々の議論のことと解釈される。なおこれは、本屋や密談中の与野党の件と同様の数式でもある)。

 すなわち×記号はどの場合にも二つか、あるいはそれ以上の集合間の激しい(感情を含めた)<打つかりあい>に対応しているのである。それに対して+記号の方はもう少しやわらかく、<出会い>、または<参加>のニュアンスが強いようだ。

 さらに解析を進めてみる。


 ○ 飛行機をキャンセルした無関係の男女 → 飛行機事故 → その男女の愛?


 墜落した飛行機の全乗客を1、飛行機をキャンセルした男女をそれぞれa、bとし、愛しあう、つまり交接の行為――あるいはそういった短絡的な見方が不服ならば、恋愛という<激しい感情の打つかりあい>という表現をしてもいいが――を×記号で表せば、この<現象>は、


 (a + b)' = a' × b'(ド・モルガンの法則)


 と表すことができそうだ。

 また、小旅行に参加しなかった二人をa、b、交接の行為をやはり×記号で表せば、あの乱交パーティーの件は右の例と同じく、


 (a + b)' = a' × b'(ド・モルガンの法則)


 と表すことができるだろう。a'(つまりaではないもの)とb'(つまりbではないもの)との×が、いかにも乱交というイメージを醸し出す。そして、それが二者間の場合には、逆に二人の融合という感じが浮かび上がる。

 さらに、


 ○ いがみあう二つのフットボールチームの観客 → 白熱のゲーム展開 → 称賛しあう二つのフットボールチームの観客


 これは、二つのフットボールチームをそれぞれa、b、その白熱のゲーム展開を×、ともに応援するという行為を+記号で表せば、


 (a + b)' = a' × b'(ド・モルガンの法則)


 と、やはり前二つの例と同様に表記できるだろう。a'(b')には当然b(a)も含まれるので、おそらく、各チームのメンバーも、心では相手チームを称賛していたのに違いない。


 ○ 交戦状態にある二国 → 大国の介入 → 大国の両国への軍事援助


 交戦状態にあった二国をb、c、それに介入しようとした大国をaで表せば、大国が両国に軍事援助をするはめに陥ったというこの<現象>は、


 a + (b × c) = (a + b) × (a + c) (分配法則)


 と表記することができそうだ。とすれば、絵理子の涙を掬った際、私が感じたあのえもいわれぬ感情の起伏も、怒りの感情をb、悲しみの感情をc、そして彼女に対する愛おしさの感情をaと置いてみれば、


 a + (b × c) = (a + b) × (a + c) (分配法則)


 と、右の例と同じ形に表記され得る。


 ○ 客の呼吸を司っていた落語家 → 別の落語家の出現 → 落語家同士の馴れ合い


 最後に、これは解釈に少し手間取ったが、若手真打の落語家をb、現われた大看板の落語家をaとし、a以外の(つまり若手落語家本人bをも含めた)客 a' と、bとの絶妙の芸の呼吸を×記号で表せるとすれば、これは、


 a + a' × b = a + b (吸収の規則)


 となりそうである(この場合、+記号は二人の落語家の馴れ合い的雰囲気を表すものと解釈される)。この状況は二者間の激しい感情の打つかりあいではないところからaとbとの関係は、×記号ではなく+記号で表されるのだろう。

 このことから、今回の<現象>で a + a = a という関係式が一例も現われなかったことが説明できるかもしれない。すなわち+記号はそれ自体ではあまり強い拘束力を持ち得ず、×記号や、別の+記号と複合して初めてその威力を発揮するものなのかもしれないということだ。あるいは、


 a + a = a


は、例えば、

(触れ合いの感情)+(触れ合いの感情)=(触れ合いの感情)

 というように、内的感情についてのみ発現され、そのため、今回の私のスクリーニングでは捕まえることができなかったということなのだろうか?


 以上が、私の発見した<現象>の裏に潜む法則性のあらましである。

 無論、私がここで試みた解釈が絶対的なものであると主張する気はさらさらない。ただそういった見方をすれば、ふいに全世界を襲ったこの奇怪な事態に一応の説明がつくというだけのことだ。だが、偶然の一致か、私の専門の範囲に、この法則に支配される事象がひとつだけあった。

 ブール代数は、はじめ数学の一部門である集合論を取り扱うために利用された。しかし、その代数の真の価値は、実はまったく別のところにあったのである。

 誤解を怖れずにはっきりといおう。

 これは、電気回路の理論なのだ!

 ひとつのスイッチが入る状態がa、それが切れる状態がa'、回路に電流の流れている状態が1、そうではない状態が0に対応する。そして、それら電気回路が複雑に絡み合ったものとは……

 例えば、電子計算機?

 ソフトではなく、コンピュータ・ハードの世界?

 私たちを取り巻く時空構造がブール代数に従う様式に変化した。これは視点を変えれば、(私たち全員が計算機内部(ハードの世界)に囚われているというということを意味しはしないだろうか?)

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