プロローグ②
収拾のつかない頭のまま目の前の暗幕を上げると、そこには身に覚えのない野原が広がっていた。
「どこや?」
一言呟いて立ち上がり、辺りを見渡して状況を把握する。
野原は高さ5cmほどの緑の草が生い茂り、遠くまで隅々見ても一面緑で山らしき突出物もない。空は真っ青の快晴で風は肌には感じられない。寒さもそれほど感じない。そして俺の目の前には端から端までずっと続いていそうな幅10mほどの川が流れていた。
どうやら人どころか動物すらいないようだ。川のせせらぎしか聞こえない、笑ってしまうほど静寂な空間に、もはや笑えなくなった。寂しさを通り越して恐怖すら感じ始めた。
意外にも冷静でいる俺はなぜ俺が今この場所にいるのかについて考えることにした。
まず、俺はあのとき、十中八九事故に遭った。衝撃らしきものの感覚はなかった気がするが、タクシーが何らかに衝突したという記憶はかすかにあるからだ。そして俺は恐らく気を失った。
そこで考えられるとしたら、俺が気を失っている間に誰かに運び込まれた、という説だ。なぜなら今俺は旅行の時と同じ格好をしているからだ。
だが、だとしたら今俺がいるこの空間は明らかにおかしい。植物がこれでもかと繁殖している所で虫の一匹も見られないのは生態系というか食物連鎖というか、そういう観点から地球らしい環境とは言えない。それに、目の前を流れている川の上流の先を見ても山らしきものが見えない。まあ、ナイル川みたく長い川なら分からないでもないが、本当に地球上にこんな場所があるのかと疑問が残る。
そもそも雪の降っていたあの場所から雪の全く降っていないこの場所へ運ばれたのだとすると、少なくとも5、6時間は経過しているはずで、そうなると普通空腹になっているはずだが、全然お腹も減っていない。
そこで下すべき結論は一つ。これが夢だということだ。そうすれば、この奇妙な世界にも合点がいく。俺は今気絶していて、その間にこんな夢を見させられているに違いない。もはやそうだとしか考えられなくなった。
ただ、引っかかる点があるとすれば、やけに夢の中で自分が冷静でいることだ。大方、夢というのは自分が馬鹿げた行動を考えなしにやってしまい、後悔するものだ。夢の中の自分は冷静さのかけらもないものだ。だけれど今の俺はちゃんと落ち着いていて、状況把握も今のところ完璧。おかしい。まあ、でもこういうこともあるのか。
勝手に納得した俺は恐怖すら覚えるこの世界から脱出、つまり夢から目を覚まそうと試みた。
俺は自分の目をぎゅっと閉じた。俺は夢を見ている途中、たまにこれが夢であることに気づくことがある。これが悪夢だと気づいた時には咄嗟にこの行動をとって夢から目を覚ますことができる。
だが、目を開けても夢から覚めることはなかった。何回か目をぱちくりさせたが、いつまで経っても目の前に広がる風景は変わらなかった。
これは恐らく眠るのと気を失うのとでは訳が違うのだと俺は思った。多少焦ったが、そのうち勝手に夢から覚めるだろうと、自分をなんとか落ち着かせた。
特に何もすることがなくなった俺は目の前を流れる川をじっと眺めていた。
「三途の川、かな」
縁起でもないことを口にしてしまった。そんなことがあってたまるものか。だとしたらこの川や草原は花が咲いていないことを除いては自分の中のイメージと一致しすぎて逆に胡散臭い。
でももし本当にそうだとしたら……やめよう。考えるな。絶対に違う。
だが、一度こべりついた思考はなかなか離れなかった。一向に夢からも覚める気配がないので、川を眺めながら、そのことについて考えてしまった。
幾度か考えたことがある。死とは人間ならば誰もが知っているが、その誰もが分からない概念だ。死を一度体験すると、その体験について伝達することができないのだから完全に解明されることなどあるはずがない。
俺は死ぬとき、どのような感覚に陥るのだろうか。どんな体験をするのだろうか。俺はそんなことを幾度か思った。世の中にはその時の俺と同じことを思った人が身をもって死を体験するために自殺を試みる人もいるのかもしれない。
そして、その逆もまた然りだ。俺が今生きているというのはどういうことなのだろう。俺という存在は一体何なのだろうか。俺が生まれた以前の時間で俺という存在は何をしていたのだろうか。前世だとか輪廻転生だとか言われているが、今俺の頭の中に前世の記憶がない時点で、もし本当に俺の前世の姿があったとしても、そいつはもはや俺ではない。
こういうことを哲学と言うのだろう。時折こういった疑問が自分の中にふと湧き出てくる。その度に俺は考え、考えれば考えるほど理系の俺には訳が分からなくなり、湧き出た疑問を吐き捨てるように忘却してきた。もちろん今回もすぐに諦めた。
もしあれが死なのだとしたら、あれが、そうなのか。
いや待て待て。ただこの夢の土地から少し死後の世界を連想しただけであって、俺は死んでなんかいない。多分。
もう考え事はやめよう。まだ現実の俺が目を覚まさないようなので、暇つぶしに川を渡って散歩でもしてみることにした。
別に夢の中なのだからと、靴や靴下を脱ぐことなく足を流水に浸した。足に蹴られた水がジャワジャワと騒ぎ出す。流れは少し速めで、水温は夢が今の季節を反映しているのか、体中に染み渡るほどに冷たい。水深は足首くらいまでしか浸からないほど浅い。川の中は拳大ほどの石が河床を占めており、ごつごつとしていて少し歩きづらい。
幅10mと見積もっていたが、距離があるように思えた。凍てつく水温と不安定な足場をなんとか乗り越えて、川の向こう側へたどり着いた。
と、その時。
気づけば辺りは白い壁に囲まれていた。
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