第20話 暗夜
ステップから踏み出した足が、やわらかい雪に深く沈み込む。
ブーツ越しの冷えた感触は、瞬く間に全身へ伝わり凍える寒気を走らせた。
「はー。噂通りの廃村ですなぁ」
半壊した家々や、畑の跡地らしきものも大半は雪で埋まっている。
当然灯りの類も無く、崩れた石畳に何度も足を取られそうになった。
今宵は月が出ているおかげで、これでもマシな方だろう。
ジェイの命で兵士が松明に火を灯し、寂れた村の全容がようやくおぼろげに浮かび上がった。
小さな村だ。
どこか懐かしくもある。
村の片側にひび割れた煉瓦が連なって積まれ、防壁のようだと思い近づく。
「そちらは崖になってます。危ないですよ」
振り返ると、カナリーが佇んでいた。
“なぜ”と問いかける前にカナリーは、遠くを見るように薄く微笑んで、自ら種を明かす。
「ここはわたしの故郷ですから。その壁の向こうは亀裂みたいな深い谷が、アパリュの丘まで続いています。慣れていないと底まで降りるのは……いえ、もうわたしでも無理かもしれませんね」
はにかんで、顔を村全体へ向けるカナリー。
寒風をまるでそよ風の如く受け流し、憂いを帯びた様は、変わり果てた想い人でも見つめているかのようだ。
「故郷……? ここで生まれたのか?」
「はい。先に大きな孤児院があります」
「カナリー様」
セリンがたしなめる声音を出したが、カナリーは首を振った。
「いいのです。隠すことではありません。わたしはちょうど十歳を迎える頃まで、この村の孤児院で暮らしました。楽しいことも、辛かったことも、
孤児なのに、家族か。
俺と似たような出生でも、環境は大分違ったんだろうな。
前は卑屈に恨み言なり吐くだけだったのに、今は少しカナリーを羨ましく思っていた。
俺の背後で、ヨタが「ハ」と鼻で笑う。
「こんなくたびれた村、なんも良いところねぇだろ」
「色々ありますよ。暖かくなれば、ここにしか咲かない花もあります。谷の川は流れが速いのですが、暑い時はよく皆で泳ぎに出かけました。ちょっとした洞窟がいくつかあって、冒険気分で楽しかった」
「なんだそれ、くだんない」
「冬の寒さは厳しくても、今日みたいな夜は星がとても綺麗で――」
「くだんないっつってんだろ!!」
感情を剥き出しにするヨタに何事かと詰め寄るも、「どけ!」と一蹴されてしまう。
「ヨタ様。場所ではないのです。わたしにとってここは、大切な家族がいたから特別だった」
「へえ! なら、その家族を捨てたんだ? 聖女になるために!」
「……捨てるなんて、あるわけがないです」
「捨ててんだろ! 一人だけぬくぬく王宮で暮らして、残りは村と一緒に朽ち果ててんじゃねぇか!」
「……いいえ。村は残らなくても、皆元気でいます。どこかで、必ず」
「もう十年近くも経ってんだろ! 夢見てんじゃねぇ! とっくに全員くたばってるよ!」
ヨタの暴走は止まらない。
さすがに度が過ぎていると、ヨタの真正面に身を滑り込ませる。
「おい、いくらなんでも――」
だが直後に力強く肩を押し退けられ、よろけて不安定な姿勢のまま振り向いた。
カナリーだった。
これまで一度たりとも見せたことのない怒りの形相で、カナリーはヨタの胸ぐらを両手で掴み上げる。
目を見開いて、ぎりぎり音がしそうなほど歯を噛み締めて、言葉にならない呻きを微かにあげながらヨタに組みついていた。
「――〜〜〜〜……ッッ」
「ハ……はは。やっと見た、アタシを……っ!」
一瞬怯んだように見えたヨタも、すぐに強気な瞳を返している。
動けなかったのは、俺だけじゃなくセリンも同様だ。
ヨタの暴言を考慮しても、カナリーの行動は予測出来ないものだったから。
あのカナリーが、ここまで激情をあらわにするなんて信じられなかったのだ。
「――セリン様。付近に商隊や獣人の使者は見当たりませんね。……と、これは……」
偵察に出ていたジェイが数人の兵と戻れば、カナリーは顔を俯けつつヨタから手を離した。
俺もセリンも、目撃していた兵達を含めた誰も、困惑するジェイに経緯を説明出来る筈もなく。
ただ気まずい沈黙がおりる。
「……寒さから身をしのげる場所に、心当たりが二箇所ほどあります。わたしが案内します」
踵を返し、先を行くカナリー。
セリンが後を追い、ジェイや兵達も続く。
「いやはや……なんとも心の痛むやりとりでした」
言葉と正反対の悪趣味な笑みを浮かべ、ゴヴィンも移動を開始した。
最後まで残った俺は、ヨタに訊ねる。
「いったい何を考えてる。どうしてあんな……」
「ぷ――あはは! 見た!? あのカナリーの顔! よっぽど触れちゃいけないトコ鷲掴みしちゃったんだろーね!」
「怒らせるためだけに言ったのか?」
「あ? そーだよ。それ以外なんかある?」
「っ……おまえは、それで――」
満足なのか?
親に悪戯を仕掛ける子供のように、そんなことで気を引くことになんの意味がある。
そう言おうとして、止めた。
何を熱くなっているんだ、俺は。
まさか、ヨタに説教出来るほど高尚な人間だとでも?
思う通りに感情を制御するのが難しい。
最近は特に、カナリーが絡むとそう感じる。
よくよく考えれば、あれほどカナリーを揺さぶったヨタの行動はむしろ参考にするべきだ。
「……あの頃のアタシじゃない。アタシだって、もうなんだって出来んだ……」
足元を見つめ、ヨタが一人指を噛む。
そうだ、揺らいでいたのはカナリーだけじゃなく、ヨタも同じだ。
見ていたならわかるはずだ、怒りを買うためだけに言ったんじゃない。
ヨタの
こいつはこいつで何かしらの過去を背負っていて、それを振り払うためにもがいているのかもしれない。
“レグルス”……心を暴くだけでいいんだ。
決して必要以上に入れ込むな。
でなければ、俺はきっと――。
固く言い聞かせ、雪に埋まった足を持ち上げる。
冷たく煙る息を置き去りに、カナリー達を追う。
寝取り屋を自称するには、俺はまだあまりにも未熟だと痛感していた。
いっそ寒さで感情も凍りついてしまえば、真っ直ぐ目的だけを見据えて突き進めるのだろうか。
「かつての領主様が住んでいたお屋敷です。わたしが村を出るよりずいぶん前に放棄されたものですが、長らく村の集会所になっていました」
以前はあったのだろう囲いは取り壊され、盛り土はそのままに広い敷地が確保されている。
中央の高い建物は、傷んだ外壁のあちこちに修繕の跡が残り、朽ちかけた他の家々とは違って屋敷としての体裁を保っている。
そして、二階にあたる窓から微かに灯りが漏れていた。
「その領主は今どこに?」
「西の森の開拓を進めて、そちらの集落に移動されました。ここよりは気候も多少穏やかなので」
カナリーに確認を取ったセリンが、ジェイを見て頷いた。
打ち捨てられた村に、わざわざ領主が戻ってるようなことは無さそうだ。
「なるべく音を立てずに一階を捜索。その後一気に二階へ駆け上がるぞ」
ジェイが兵の半数と屋敷へ侵入する。
ちょうどいい具合に月が雲に隠れ、松明も消していたため周囲は暗黒の闇となった。
緊張の走る空気を肌で感じ、不安が募る。
心臓の鼓動が増していく。
森で賊に襲われた時と同じ感覚は、何度経験しても慣れそうになかった。
中にいるのが商隊ならそれでいい。
任務も終了となり、帰還出来る。
けれどもし、そうじゃなかったら……。
獣人も信用出来るか怪しいものだし、野盗の類の可能性もある。
それら敵対勢力が中にいた場合、また戦闘になるかもしれない。
生き残れる自信が持てなかった。
「いいなぁ、こういうの。なんだかわくわくしますな」
隣に立った人影の顔は見えないものの、声でゴヴィンだとわかる。
共感には程遠い精神力しか持ち合わせていないが、恐怖心を紛らわせるならと言葉を返す。
「……あんたは行かないのか?」
「言ったでしょ、あっしには別の目的がありますんで。命は大事にしなきゃ」
名目上は戦力の補充ではなかったか?
仮に戦闘になっても、この男は一人で逃げそうな気配がある。
……
逃走ルートの一つくらい確保しておけばよかったと後悔するも、もう遅い。
すでに辺りは目視不可の漆黒で塗り固められている。
静かだった。
固唾を飲んで、屋敷の小さな灯りを見上げていた。
敵か、味方か。
ふいに屋敷から大きな物音が鳴り、セリンを含めた兵達が一斉に剣を抜く。
やっぱり敵なのか?
また命を秤に乗せないといけないのか?
絶望から、俺は剣に触れることも拒んでいた。
やがて窓の灯りが明滅したかと思えば、フッと消失する。
完全な闇が訪れた中、大声が響き渡る。
「――いました! セリン様、商隊です! 保護して外に出ます!」
力強いジェイの言葉は、全員に心からの安堵をもたらした。
納剣の音に続き、兵達の歓喜や互いの無事を喜ぶ声が大きくなり、俺も深く息を吐く。
「……よかった。本当に……」
聞こえた声を頼りに探り当てたカナリーへ、ゆっくり近づいた。
「ひとまず終わったな。あんたが無事でよかった」
「ええ。……ふふ。あなたもね、レグルス」
小声での短いやり取りだったが、この喧騒で聞かれる心配は無いだろう。
再び松明に炎が揺らぎ、ジェイ達や商隊の面々を出迎えた。
救助された商隊は十名。
うち四名は護衛の傭兵、二名が御者とのことだ。
全員無事であり、飢えは自前でどうとでもなったらしい。
ただ極寒に対する備えは万全でなく、冷えきった体にカナリーとヨタが毛布を掛けて回っている。
四人の商人の一人に見知った禿頭を確認し、顔を見られたくなかった俺は、松明の光源の外から遠目に様子をうかがっていた。
カナリー手製の、沸かしたばかりの茶をすすった宿屋の主人が、少し切羽詰まった表情でセリンに問いかける。
「ほ、本当に王宮の騎士様で? 王宮や街は無事なんですか? む、娘は――」
「待て。なんの話だ? 王宮が無事かとは、どういうことだ?」
奇妙な顔で首を捻った宿屋の主人は、カップの残りを一息にあおった。
「獣人の方に言われたんですよ。王宮も街も酷い戦乱になる。巻き込まれないようにしばらくここで匿ってやるって……」
「……その獣人は? 近くにいるか?」
「え? む、村で会いませんでした? 巡回してるって言ってたんですが。なんでも獣人達の精鋭で、たしか――」
平穏にあった心が、急にざわつきはじめた。
なんだ……?
背にぽつぽつと、悪寒が走る。
「“
ポーン……と聞き慣れない音が、わずかに鼓膜を震わせた。
セリンが勢いよく振り向き、暗がりの向こうへ視線を這わせる。
ポーン。
ポーンとまた、二度、三度。
今度ははっきりと。
楽器の音色でもなく、自然に発生する音ともまるで違う。
高低差はあれど抑揚の無い、不気味な音。
「全員抜剣! 松明を掲げろ!」
セリンの怒号に兵達が慌てて立ち上がる。
食事や雑談の最中だった彼らは、訳もわからない様子ながらも命にはしっかり従う。
複数の松明が高く掲げられ、光が遠く伸びた。
しかし視界には味方の姿しか映らず、光源の先は断絶された闇が広がっているだけだった。
弓に矢をつがえた姿勢のまま後退してきたジェイが、セリンに囁く。
「兵が一名、足りません」
「なに?」
直後、無機質な音が今度は四方から鳴り響いた。
ポーン。
ポーン。
ポーン。
音は断続的に鳴り続ける。
全方向から見つめられる錯覚に、足元からぞぞと不快と恐怖が這い登る。
「円形に散開! あぶり出せ!」
号令を下しながら中心に走り、セリンは必死に周囲の木々も含めて探る。
夜目が利くジェイもそれに従い、歯を食い縛って目を血走らせている。
俺には何も見えなかった。
いや、
最も離れた位置にいた兵、その前方の闇が大きく手を広げたような人型に形を変え、ヌッと伸びたかと思うと兵をぱっくり飲み込んだのだ。
「ぐぎゅ――」
それが断末魔だと知ったのは、兵士が首から血を噴き上げながら倒れた後だった。
倒れた兵がいた地点へすぐさま矢を放つジェイ。
だが手応えを得られず、苦い顔に焦りを浮かばせる。
近くで呆然と立ち尽くしていたヨタを片手で引き寄せ、自らの背に隠すセリン。
切迫した状況も微動だにせず、冷静な声音を絞り出す。
「ジェイ、どうだ?」
「み、見えません。おそらく七、八――いや、十以上潜んでる可能性も」
「レグルスっ!!」
唐突に名を呼ばれ、肩が跳ねた。
こちらに背を向けたまま、セリンが言葉を投げる。
「ヨタ様は私が引き受ける。お前はカナリー様を頼む」
一瞬何を言われたのか理解が遅れたが、ハッと振り返る。
すぐ後ろに、胸もとでぎゅっと手を握り込むカナリーがいた。
肩も足も震わせ、それでも気丈に戦況を見守っていた。
セリンは俺を戦力として期待していない。
それはわかっている。
つまり“逃げろ”と言っている。
敵の規模は不明。
聖女を守り切れるかも不明だと暗に訴えているのだ。
何かを言いたげに口を開くヨタから目線を切って、カナリーの腕を掴む。
驚くカナリーからも視線を外して、強く引っ張りながら後方の闇の中へ駆け出した。
「ま、待って! どこへ――」
ひたすらに前へ、前へ。
暗夜のせいで幾度も躓きつつ、転ばないことだけに気を回して強引にカナリーの手を引き続ける。
「待って! レグルス!」
「逃げるんだ! 頼むから抵抗しないで走ってくれ!」
「そんな――わたし達だけ逃げるなんて!」
「あんたを生かすために全員ここにいるんだ! あんたが死んじまったら意味なんか無いんだよ!」
「――……っ」
ヨタに関しても同じことが言えるが、あいつはセリンが引き受けると言った。
もしセリンでも守り切れなかったら、どのみち俺にも無理だ。
今はどこか安全な場所を求めて、先の見えない闇を駆け回るしかなかった。
うまく食い止めてくれてるんだろうか。
追手の気配は感じなかった。
「そこを左に。段差があるけど乗り越えられるから」
いつしかカナリーは先立って俺を誘導し、平易な道を選んでくれているようだ。
白く染まった村は恐ろしいほど静かで、二人の雪を踏む音だけがいつまでも続く。
「……よかった。まだ、待っててくれた」
「はあ、はあ、はあ……ここは……?」
ずっと身を隠していた月が夜空に現れ、目前に巨大な建物を照らし出す。
商隊を保護した屋敷より数倍ほども広く、奥行きは長くまるで棺のような。
かつては威光すら放っていたであろう姿が容易に想像出来る。
「わたしの家。……ここは、わたしが家族と過ごした大事な場所」
小さな村の孤児院にしては、不釣り合いと思わざるを得ない。
立て付けを確認するように扉へ触れ、カナリーはそっと押し開く。
「レグルス。入って」
少し、躊躇する。
迷う必要などないのに、なぜだろうか。
ここがまごうことなきカナリーの深部なのだと、覚悟を決めるとようやく俺は足を踏み入れた。
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