小晴の呪療旅
氷純
火を噴く子・前編
「母さん、変な音してない?」
「念太? なによ、藪から棒に」
不思議そうな顔で問い返す母を見て、念太はこの音が自分にしか聞こえていないのだと気付いた。
けれど、こんなに大きな音が聞こえていないだなんてあり得るのだろうか。
不思議に思いながら、念太は障子戸を開け、音の出所らしい外を見る。
「ほら、カンカン、カンカンって」
「聞こえないわよ。家鳴りかしら?」
暖かくなり始めたから、と母が天井を仰ぐ。
確かに、季節の変わり目ともなればぎしぎしと家鳴りが酷い家だ。
「あんなギシギシいう鈍い音じゃなくて、炭が爆ぜるみたいな音だよ」
「なにそれ、怖いわね。焦げ臭さはないけど」
眉を顰めた母が縫物の手を止めて立ち上がる。念太が見ている外を一緒になって覗く母の頭は念太のちょうど頭二つ分上にあった。上から覗かれるのが好きではない念太はさりげなく立ち位置をずらす。
すると、先ほどまでは死角になっていた庭木の向こう側にゆらゆらと宙に浮く不思議な火を見つけた。
「あ、あれだよ。カンカン、カンカンって」
「どれよ?」
念太が指差している不思議な火を見つけられないらしく、母は目を凝らして庭を見つめている。
念太が指差す火はふらふらと一か所に定まらず、不意に動きが早くなったりするものだから、念太の指もふらふら動く。
一向に定まらない念太の指先を見て、母はからかわれているのだと思ったらしい。呆れたように肩を竦めた。
「母さんは忙しいのよ。外で遊んでらっしゃい」
「本当にあるんだって。見えないの?」
音が聞こえないだけでなく、姿も見えないとするならば、あの不思議な火は何だろうか。
――火? 蛍?
蛍にしては大きく見えるし、暖かくなってきたとはいっても蛍が飛ぶにはまだ早い。そもそも蛍色の火ではない。
正体を明かしてやりたいところだったが、母に見えないのでは自分の目で確かめる他にない。
そう思い、草履をつっかけて庭に降りた時だった。
「うわっ」
先ほどまで遠くをふらついていたはずの不思議な火がいつの間にやら目の前にあった。
驚いて声を上げた拍子に、開いた口の中へと不思議な火が飛び込んでくる。
尻もちをついた念太に、縫物を再開しようとしていた母が笑いながら声を掛けた。
「大丈夫? 怪我はない?」
「……飲んじゃった」
「何を?」
「さっきの変な火」
まだ続いていたのか、と母が苦笑した。
その直後、
「けほっ」
念太は口から火花を吐いた。
※
熱はなく、苦しいわけでもない。意識ははっきりしているし、身体も問題なく動かせる。
しかし、どういうわけだか咳の度に口から火花が零れ出る。
「このままじゃ家が燃えちまうから、今夜は庭で寝ろ。蚊帳くらいは吊ってやる」
症状を聞いても半信半疑だった父は実際に念太が火花を吐き出すと眉間に皺を寄せて庭を指差した。
下手な物を敷くと燃えてしまうからと布団も持たされず、春から草むしりをさぼっていた事を咎められながら庭に追い立てられた。
寝転がってみても草の匂いが強すぎて落ち着かない。底抜けに高い天井はそのまま星空だ。かといって、上を向いて咳をすると吐いた火花が返ってきて眉毛も睫毛も焦げてしまうと父に注意され、星空を眺めている事も出来なかった。
火花が掛からないように顔を横に向けると、より近くなった草の上を虫がよじ登っているのが見えた。蚊帳を吊っても意味がないじゃないかと、念太は息を吹きかけて虫を飛ばそうとする。
息と一緒に吐き出してしまった火花に虫は驚いて飛び退り、そのまま羽を広げてどこへともなく消えて行った。
「……けほっ」
また火花を吐き出す。
喉や胃の腑が焼けるような感覚もない。昼間に飲んでしまった火と同様に不思議な火花だ。
いつになったら治るのだろう、と念太はふと疑問に思う。
もしかすると一生このままかもしれない。もしも治らないのなら、寒くなる前に温かい南の方へ向かった方がいいかもしれない。
さもなければ、石で家でも作るかだ。
そもそもの原因は昼間の不思議な火を飲んでしまったから。父は明日、村の物知り婆さんに聞いてみると言っていた。
「けほっ……うん?」
火花を吐き出すと同時に風が吹く。火花が吹き流されて戻ってくるかと腰を浮かしかけた念太は、火花が風に逆らってどこかへふらふらと向かっていくのを見て首を傾げた。
いつの間にかあたりはすっかり暗くなり、家を振り返っても父、母ともに寝静まっている。念太が見える場所に障子戸も開いて横になっている二人は不規則な寝息を立てていた。
念太も男の子だ。夜に外に放り出されても恐怖心より冒険心が先に立つ。なにより、こんな機会はまずないだろう。
夜中にこっそり家を抜け出す、こんな機会は。
そろりそろりと、草を踏む音にも神経を使いながら蚊帳の裾まで歩いて、めくり上げる。
後ろを振り返り、父も母も寝入っているのを再び確認した後で蚊帳を潜って外に出た。
「けほっ」
咳をして、慌てて口を閉じて振り返る。寝息が聞こえてくるのに安心して、念太は歩き出した。
月明りを頼りに夜の村へと繰り出す。普段見る景色とまるで違って見えるのは、皆が家で寝ていて無人だからだ。
これはいい、と念太はくすくすと声を殺して笑う。得体のしれない火を飲んで面倒なことになったと思っていたけれど、役得もあった。
「けほっ」
昼間よりも間隔が短くなった咳に顔をしかめた時、吐いた火花が風に逆らって一方向へ向かっていくのに気が付いた。
夜の暗さで少し真新しく感じるとはいえ、今まで暮らしてきた村に改めて見るべきところなどありはしない。そうなれば、自分の吐いた火花がどこを目指しているのかに興味も移る。
咳の度に火花が向かう方向へと足を進めていく。村の外れの林、小さな神社のある山の裾野を目指しているらしい。
少しばかり大きな池しかないはずだけど、と念太は首を傾げながら火花に導かれるまま林に入る。
月の光も遮られて真っ暗な林も、遊び場にしている念太にとっては庭と変わらない。村の友達とかくれんぼをする際によく身を潜める藪を潜ってしまえば、それを目印に自分がどこにいるのか頭の中に描ける。
火花は林の奥、池を目指しているらしい。
なるほど、池のそばなら火事の心配もない。明日の朝に怒られるだろうが、夜を明かす場所としては悪くない。
そう思いながら林を抜けると、開けた視界に浅くて広い池が見えた。見慣れたはずの池は夜の闇の中で月明りを浴び、妖しく輝いている。
一晩明かすなら釣り竿くらい持ってくればよかった。
池に小川が流れ込む岩場のあたりで過ごそうかと目を向ける。
「……え?」
先客と、ばっちり目が合った。
念太より五つほど上、十五かそこらの少女だ。
夜に溶けるような黒髪をおさげにした可愛らしい丸顔に、鈴蘭の花が染め抜かれた白地の小袖にひざ下までの紺色の行燈袴を穿いている。月明かりに照らされてぼんやりと白く浮かび上がるその姿はどこか気品があった。
念太の知る限り、こんな綺麗な少女は近隣の村にいない。
少女もここで人に出会うと思わなかったか、驚いた猫のように丸く目を見開いている。その瞳の美しい青に気が付いて、念太は息を吞んだ。
だが、息を呑んだのがいけなかった。
「――けほっ」
咳と共にふわりふわりと火花が舞う。慌てた念太は片手で火花を叩き落とし、恐る恐る少女を窺った。
明らかに、先ほどまでよりも驚いた顔で念太を見つめる少女と目が合った。
しかし、次の瞬間には少女は納得顔で両手をポンと合わせ、口を開く。
「突然火花を噴くようになって火事にならないよう、水辺に来たんですね」
一度念太が火花を吐いたのを見ただけでここまでの経緯を正確に言い当てて、少女は念太に微笑みかける。
「合っていたみたいですね」
事ここに至っては、念太もごまかせない。
渋々頷いた念太に、少女は岩場の影から紐でつながった二つの竹籠を取り出した。振り分け荷物だ。女の一人旅にしては大きな竹籠は少し年季が入っており、肩に掛ける姿も様になっている。
歳に似合わず旅慣れた様子で、少女は足取り軽く念太に近づいてきた。
「夜分遅くに悪いとは思いますけど、君の家を訪ねてもいいですか? 力になれるかもしれません」
念太の前まで歩いてくると、少女はふと木の上を見上げた。
つられて見上げた柳の木には何もいない。しかし、少女はそこに何かの存在を捉えているらしく小さく頷いて念太の横を抜けた。
「村はこちらですね」
正確に村へと歩き出す少女に、念太は慌ててついていく。
「力になるって言うけど、何か知ってるの?」
質問する合間にもけほっと火花を吐き出して顔をしかめる念太に、少女は得意げに胸を張った。
「おそらく呪いでしょう」
「呪い……」
確かに念太も、尋常な症状ではないと思っていた。しかし、いきなり呪いといわれると気分の良いものではないし、何より信じられない。
呪われるような覚えがないのだからなおさらだ。
疑いの視線を向ける念太をよそに、少女は林を抜けた先の村と畑を見回す。
「あの、奥の家でしょうか?」
小さな村とはいえ、念太の家を簡単に見つけられるはずはない。不思議に思いつつも、少女の指さす方には確かに念太の家がある。
提灯の明かりが揺れる念太の家が。
「……抜け出したのがバレた」
「やはり、あの提灯の明かりは君を探してのモノでしたか」
くすくす笑って軽い足取りで歩き出す少女の後ろを、念太は重い足取りでついていく。
「あぁ、叱られる……」
家が近づくにつれて、念太を探す声が聞こえてくる。しかし、念太が咳と一緒に火花を吐けば、それが遠目に見えたのか提灯の明かりがすっ飛んできた。
「念太!」
駆けてきた父が念太に怒鳴るが、すぐに少女に気付いて固まる。
父の後から追いついた母が少女を見て混乱したように視線をさまよわせた。
両親が対応に困っていると、少女が慣れた様子で一歩進み出る。
「林の池でお子さんに出会いました。何やら火花を噴くご様子。解決のお手伝いができるかと思い、夜分遅くに失礼と知りつつこうして参りました」
丁寧に頭を下げる少女の雰囲気にのまれて、両親は「ど、どうも」と曖昧な返事をする。
どうやら、叱られずに話が進みそうだと念太は顔をうつむけて反省している振りをする。
わずかに視線を感じた念太はそっと顔を上げる。すると、目が合った少女がいたずらっぽく口元だけで笑い、両親に向き直った。
「詳しい話を伺う前に、ご家庭のことを済ませてはいかがでしょう」
そう言って、少女が念太の背中を軽く押して両親の前に突き出した。
突然のことに思考が止まった念太が状況に気付いた瞬間、父のげんこつが落ちる。
「っ痛ぁあ!」
頭を押さえてうずくまり、念太が涙の浮かんだ目で抗議の視線を向けると、少女は夜を吹き飛ばすように明るく笑う。
「私に出会えて呪いを治療できるのは怪我の功名。でしたら、怪我をしていただかないと」
「順序があべこべだ……」
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