四時間目 木登り

 午前の授業時間は、泥団子作りで終わってしまった。ブラッドが最初に言ったように、本当に難しかった。ブラッドは、まん丸でツルっとした泥団子を作って満面の笑みで嬉しそうにしていた。

 リディアは、彼の真似をして少しずつ大きくしていったのだが上手に丸くすることがでず途中で崩れてしまう。それの繰り返しだった。


 上手に作れなかった物足りなさを感じながら、リディアは立ち上がってスカートについた砂をパンパンと叩く。


「さっ、お昼ご飯の時間だわ。夢中になっていたらあっという間だったわね」


 リディアは、ブラッドにニコリと笑いかける。


「全く先生はできてなかったけどな」


 ブラッドは、自分の泥団子を手のひらに乗せて誇らしげに鼻の穴を広げて見せる。昨日もだが、ブラッドの集中力は素晴らしい。

 この集中力で、勉強にも興味を持ってもらいたい。


「本当ね。一生懸命作ったんだけど、ブラッドの言う通り難しかったわ」


 リディアは、ブラッドの言葉を否定せず自分の間違いを認める。ブラッドの女家庭教師ガヴァネスになってリディアは、たくさんの初めてを経験している。

 案外、子供と本気で遊ぶのも悪くない。


「先生って変わってるよな」


 ブラッドが、ぽろっと本音を溢す。


「そう? ブラッドはどんな先生が良かったの?」


 リディアは、遠慮なく聞いた。やっと会話らしい会話ができるようになってきて嬉しい。


「よくわからない……。でも、先生は嫌じゃない……」


 ブラッドは、とても小さな声でそう言った。リディアは、嬉しくて飛び跳ねたい気持ちだったけれど、大袈裟に喜んで引かれるのは困る。余裕のある大人の対応をと自分を落ち着かせた。


「それは、とても嬉しいわ。ありがとう」


 リディアは、ちょっと微笑むくらいで押しとどめる。心の中では、あんなに生意気だったブラッドが自分を認めてくれたみたいで嬉しくて万歳と喜んでいる。


「じゃーな。お腹空いたから部屋に戻る」


 ブラッドは、そう言うなり屋敷の方に走って行った。ちょっと耳が赤くなっていた気がする。


「ふふふ。一歩前進。午後も頑張ろう!」


 リディアも屋敷に向かって歩きだす。午後は、勉強部屋に来てくれるといいなと淡い期待を抱いた。


 リディアが自分の部屋に戻ると、既に昼食が机の上に置いてあった。誰も何も自分に言いに来ない寂しさが胸を翳める。だけど、先ほどのブラッドとの会話で気分のいいリディアはそのことを心に止めることなく流す。

 椅子に座って、冷めた昼食のパンを食べながら午後の授業のことを考えた。


 好きなことには、あれだけ集中力があるのだ。勉強の中にも、きっとブラッドが興味をもつことが何かしらあるはず。それを探して、そこから始めたら案外スルスルと上手くいくかもしれない。


 昼食を食べ終えたリディアは、少しだけ時間があったので昨日の続きで繕い物をした。授業時間が近ずくと、部屋を出て教科書を胸に抱き屋敷の廊下を歩いた。今度こそ、勉強部屋にいて欲しいと願いながら目的の扉の前に着く。

 トントンと扉を叩いて、ドアを開けた。


「また、いない……」


 ちょっと期待していただけに、リディアはガックリと肩を落とす。「はぁー」と溜息を溢すと、窓辺に寄って外を見た。朝と同じように、ブラッドが外で遊んでいるのが目に入る。


「朝も遊んで、午後も遊ぶの? どれだけ元気なのよ?」


 リディアは、呆気にとられながらいっそ感心すらする。昨日の午後もブラッドに付き合って遊んで、今日の午前中もずっと泥団子を作っていた。

 朝起きた時は、腕が筋肉痛で動きが鈍かったのだが……。動いていたらだいぶマシにはなった。だけど、流石に午後も外で遊ぶのかと思うと気が重い。


 それでも、折角心を開き始めてくれたのだ。ここで放り投げたら、また最初に戻ってしまう。


 ――――ッパン!


 リディアは、自分の頬を両手で叩いて気合いを入れた。


「先ずは仲良くなる! そう決めたんだから諦めない!」


 リディアは、声に出して辛い気持ちを吹き飛ばす。女家庭教師ガヴァネスとして授業を始めるのがこんなに大変だなんて予想していなかった。でも、これが最初の試練なのだとしたらそれを乗り越えていくしかない。


 リディアは、持って来た教科書を勉強部屋の机の上にバンッと置く。そして勢いよく部屋を出て庭に向かった。


 ブラッドを見つけると、今度は虫取り網を持って蝶を追いかけていた。次から次に、よく遊びを思いつくものだ。


「ブラッド、今度は虫探し?」


 リディアは、ブラッドに向かって叫ぶ。蝶を追いかけていたブラッドがリディアの方を振り返る。あからさまに「またかよ?」と言いたそうな顔だった。


「そんな顔しなくていいじゃない。先生も混ぜてよ」


 リディアは、ブラッドの傍に寄って彼が持っている籠に目をやった。中で、何かが動いている。もう何か捕まえているらしい。


「先生は、虫なんて興味ないだろ」


 ブラッドは、冷めた顔でリディアを見て言った。さっきは、少し仲良くなれたと思ったのに……。男の子は難しい。


「興味ないってことはないわ。何を捕まえたの?」


 リディアは、籠を指さして訊ねる。ブラッドは、仕方がないといった様子で教えてくれた。


「これは、モンシロチョウ。割とどこにでもいる蝶だよ。ここは花が沢山咲いているから蝶がよく来るんだ」


 ブラッドが、籠の中を覗きながら説明してくれた。虫が好きなのかとても詳しい。他にもどんなことを知っているのか、色々と聞いてみたくなる。


「へー。ブラッドは、昆虫に詳しいの? 凄いわね」


 リディアは、素直にブラッドを誉めた。勉強に興味がないが、昨日から一緒に遊んでいて思うのはとても行動的だし遊び方をしっている。

 平民の子供ならこれが当たり前なのかもしれないが、子供らしくて元気でいい。


「凄くなんかないよ。普通だよ」


 ブラッドは、褒められて恥ずかしいのかリディアから視線をずらす。


「先生、昆虫のことはよくわからないから。ブラッドの方がきっと先生ね」


 リディアは、そう言ってニコリと微笑む。


「そんなことばっかり言ってていいのかよ! 俺に勉強を教えるのが仕事なんじゃないのかよ?」


 ブラッドは、照れ隠しなのか頬を赤くしながら捲し立てる。リディアは、そんなブラッドに何だか可愛さを感じる。


「だっていつも勉強部屋に来てくれないんだもの。私が、ブラッドのところに来るしかないじゃない? 明日は、勉強部屋に来てくれると嬉しいけど」


 リディアは、正直な自分の気持ちを告げた。言うだけはタダだ。でも、言ったところで明日もきっと庭だろうと期待はしていないのだが……。


「ふんっ。そんなの知らねーよ」


 ブラッドは、そっぽを向いてしまう。そんな態度だけれど、リディアは不思議と昨日よりは腹が立たない。

 体力的なことで憂鬱ではあるが、ブラッドと遊ぶのがそこまで嫌ではないのだ。それどころか、遊びの中で勉強できないかと考え始めている。

 そのためには、外用の準備が必要になる。どんな準備をすればいいか頭の中で思考が巡る。


「まあ、いいわ。今度は何して遊ぶ?」


 リディアは、ブラッドの素っ気ない態度に臆することなく聞いてみる。今度は何て答えるのだろうか? どんな答えが出てくるのがリディアはワクワクする。

 尋ねられたブラッドは驚いた顔をして「まだ遊ぶのかよ?」と凄い形相でリディアを見ている。


「じゃー、木登り! 流石に、先生には無理だろ!」


 ブラッドは、ふふんと勝ち誇った顔でリディアを見た。流石に無理だろう? と目で訴え、どこまで自分に合わせてくれるのか試している。リディアだって、望むところだ。


「やってみないと分からないわ。どの木に登るの?」


 リディアは、周りにある木をキョロキョロと見渡す。見える範囲に登れそうな木はない。


「本当にやるつもりかよ? 落ちても知らないからな」


 ブラッドは、一度言ったことを引っ込められないが自分でも無謀なことを言ったと自覚はあるらしく気まずそうにしている。


「もちろんよ。自己責任だから安心して」


 リディアも二言はないとばかりに気合を入れる。そして、ブラッドに連れて来られた先に、屋敷の二階の窓くらいの高さの木があった。

 低い位置で幹が左右に分かれていて確かに木登りには打って付けの木だ。


「これは、初心者用の木だから。低いし登りやすいんだ」


 ブラッドは、蝶が入った籠を気の根元に置いて靴を抜いで裸足になった。そして、徐に木に足をかけてスルスルと登ってしまう。下から二番目の幹の上に座ってリディアを見た。


「ほら、簡単だろ?」


 ブラッドは、木の上からそう声をかけた。リディアは、あっという間のことでどうやってブラッドが登ったのかよくわからなかった。


「ちょっと待って。早すぎてわからなかった。もう一度、ゆっくり登って」


 本気で登るつもりのリディアは、ブラッドにそう要望を出す。ブラッドは、無言で木から降りて来ると今度はゆっくりと登った。

 どこに足を掛けるのか、手はどこに置くのか説明しながら登ってくれた。


「どう? 登れそう? 無理ならいいんだぞ」


 ブラッドは、無理だと決めつけていてリディアに登るのを辞めさせようとしている。しかし、無理だなんて言いたくないリディアに火が灯る。

 リディアも靴を脱いで裸足になった。ブラッドが説明したように、同じ場所に足を掛けて登り始める。六歳の子が登れるのだ、同じように登ればリディアだって登れる。

 要は、その度胸があるかないかだ。


 リディアは、慎重に一つ一つ足を掛けるところ、手を置くところを確認しながら登って行く。下から見ていた時は、そんなに高くなさそうでこれなら自分でもいけると思ったのだ。


 一段目の幹には簡単に到達することができた。難しかったのは、一段目の幹から二段目に移る時。自分の身体を腕の力で上に上げるので少し勢いを付ける必要がある。

 それを木の上でやるのだ。かなりのバランス感覚と度胸が必要だ。下を見たら怖気づいてしまいそうだったので、上だけを見る。登りたい場所を見ると、ブラッドがリディアを心配そうな顔で見ていた。

 さっきはあんなに負けん気強く言い張っていたのに、最終的には心配してくれている。ちゃんと優しさも持っている子なのだと新たな発見だった。


 リディアは、一つ深呼吸をすると万歳して二番目の幹に手をかけた。そして、足に勢いを付けて飛び上がる。腕に力を入れ自分の身体を引き上げて、上の幹に乗り移る。


「できた!」


 リディアは、嬉しくて声が出てしまう。喜びを胸に、恐る恐るブラッドが幹に座っているのと同じ態勢になって座る。

 改めてそこからの景色を見ると、思ったよりも高くてジョーンズ家の庭が見渡せた。


「高いところって気持ちいいわね」


 リディアの顔を、気持ちのいい風がかすめる。


「先生って凄いな。本当に登ると思わなかった」


 ブラッドは、リディアの顔を今までとは違った瞳で見つめている。リディアに興味を持ってくれたような、熱い眼差しだった。


「ブラッドに褒められるなんて、嬉しいわね」


 リディアは、ふふふと笑う。自分でも本当に登れると思わなかった。なんでも挑戦してみることって大切だ。

 その後は、木の上でリディアとブラッドはポツポツと会話をした。リディアはブラッドの好きな物を聞き、彼は自分にどこから来たのかとか、どうして先生になったのかとかと質問してきた。

 やっとリディアに興味を持って貰えたようで嬉しい。結局二人は、長い時間その木でおしゃべりをしていた。


「そろそろ降りないとね」


 リディアがそう言うと、ブラッドは「うん」と元気に返事をするとスルスルッと登る時と同じように簡単に降りていく。

 リディアも降りようと、初めて自分の真下である木の根元を見た瞬間「あっ、これ無理」と青ざめる。


 登るよりも降りる方が怖いなんて知らなかった。今の体勢から、足を降ろして下に降りるなんて足がすくんでしまう。今頃になって怖くなり、手が震え出す。


「ブラッドー。先生怖すぎて降りられない」


 リディアは、その場から動けなくなって泣きそうになっていた。


「まじかよ?」


 ブラッドは、木の根元からリディアを仰ぎ見て絶句していた。


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