第7話 ドル円ドテン買い

「えーと……」


 とカリンがいう。


「アヤノさん? どゆこと?」


 状況が理解できていないカリンに説明する。


「わたし、カリン先輩に腹が立ってしまって……。カリン先輩が部室を出て行ったあと、自分一人で残り6万円を取り戻そうと思って、ドル円のショートをうってしまったんです……」


「うう、えーと、ごめん」


 カリンは謝った。


「たしかに、あんなふうに部室出て行ったら、怒っちゃうよね」


 カリンは申し訳なさそうに言う。


「と、とにかく、わたし、これからまだまだドルは上がると思うんだ」


 カリンの考えに驚いた。ドル円は116円台に入ってきている。これ以上、上がるということがあるのだろうか。


「こういう時、みんなそろそろ下落するって思うでしょ? でも、そこがチャンスなんだよ」


「どういうことですか?」


「116円をこえたところで、ショートのポジションを持つ人が増えてくる。でも、むしろ一度、それを焼き殺そうとして、大口がロングしてくる気もするんだ」


 カリンは、しっかりとした口調で話す。


「それに、いま金や原油も大きく上がっているよね。こうした商品はコモディティーっていうんだけど、これはドル建てで取引されているんだ」


「う、すみません、知りませんでした」


 素直に知らないことを認める。


「ふふん、ちゃんと勉強したまえ」


 カリンは、もう投資モードに入っているようだ。


 先ほどまでの自分の過去については、ふんぎりがついたようだ。


 このように、自信ありげに語っているカリンを見ると、心強い。


「ウクライナの問題で、これからますます、原油の需要や、貴金属の需要が増えていく。しかも、相当に高くなっている。だから、ますますみんな、高値でドルを買わないといけなくなるってわけ」


 カリンが少しドヤ顔をしながら言った。


「でも、そんなにうまくいきますか?」


 自信たっぷりのカリンは心強いが、一方で、本当にそんな簡単にいくかどうか疑心暗鬼にもなる。


「それは、分からないけど……」


「ちょっと、カリン先輩!」


 突っ込みをいれてしまった。


「まあ、予想は予想。一度、やってみない?」


「はい……。たしかに、もう時間もありませんし……」


 不安になる。確かに、総資産120万円は遠のいている。この金額を今月末までに達成するには、無理してでも取引していかなくてはならない。


 カリンの提案は、そうしたことも考慮に入れてのことなのだろう。


 ただ、よくこれだけスラスラ案が出てくるものだ。


「カリン先輩、もしかして、こういうことずっと考えてました?」


「ふふっ」


 カリンが不敵に笑う。


「ぜったいに、アヤノには留年してもらいたくないからね。いっつも、アヤノが総資産120万円を、どうしたら達成できるかって、考えているんだよ!」


「ううっ!」


 ストレートに言われると、なんだか、恥ずかしい。


「カリン先輩、結構おとぼけキャラ演じてますけど、繊細な人ですよね」


 ふう、とため息をついた。


「でも、わたし、無理してでもポジションとらないといけなくなりました。それにかけてみます。カリン先輩となら、なんとかなりそうです」


「おう、後輩に頼られるのは悪くないなぁ」


 そんな冗談をいうカリンを見て、つい笑顔になってしまう。


「よし、じゃあ、もうゆっくりとはいかないよ」


 カリンはパソコンのチャートをみる。


「うん、ここで、ドル円をドテン買いしよう」


「ドテン買いって、なんだか、負けを認めるみたいで、嫌ですね」


「負けを認めるのも、投資だよ」


 ドル円を116円20銭で10Lotロングした。


「じゃあ、今のショートポジションは切ろう」


「もったいないですけどね」


 ドル円、114円90銭のショートポジションは恨めしい」


 マウスで「決済」と書かれたボタンの上にカーソルをもってくる。


 損は嫌だが、損切は必要だ。


 決済はマイナス13万円となっていた。


 総資産はこれで101万円になった。


 3月末までに19万円稼がないといけない。


 相場は、ここにきて、値動きが小さくなってしまっている。


 夕方になった。


 相場はあまり動かない。


「ルールを破るのはよくないけどさ」


 カリンが言う。


「わたしたち、スキャルピングかデイトレードで、短時間で決済するってことにしたじゃん」


「はい」


「でも、ドルは上がると思う。しかも、それはたぶん夜間じゃないかなって思うんだ。だから、今回だけはルールを崩して、週末まで見てみようか」


「ちょっと、怖いですね」


「うん。だよね。でも、ここはがっつり取らないといけないと思うんだ」


「家に帰ってからも、スマホで見ることができますしね」


「わたしも、しっかりと見てるから。もし何かあれば、連絡もちゃんと取り合おう」


 カリンは、本当にアヤノのことを、よく考えてくれている。


 知り合ってから、1年もたっていないのに。交通事故にあわなければ、知り合いになることもなかっただろう。


 どうしてそんなに、考えてくれるのか。


 きっと、面倒見がよすぎるのだろう。それだから、カエデが彼氏から暴力を振るわれたことも、放っておけなかったのだろう。


「カリン先輩、本当に優しい人ですよね」


「うん? 何か言った?」


「いえ、なんでもないです」


 ここにきての大きな損失で気が滅入っているが、カリンを信じて、開き直るしかない。




 家に帰ってからも、ドル円は動きが鈍かった。


 いいかえるならば、値動きが安定してきたともいえる。ただ、そんな安定しているのがまた、不気味でもある。


 しばらく一人でチャートを見ていると、急に恐怖感におそわれてきた。


 本当に、このまま総資産120万円を達成できなければどうなるのだろうか。


 仮に、だめだったら……。


 大孫おおぞんに頼み込むことになるのだろうか。頼み込んだとして、進級を受け入れてくれるだろうか。


 最悪の展開も考えた。


 もし、進級できなかったとしたら。来年から、新1年生ともう一度高校1年生をやり直さなくてはならない。


 貴重な1年を棒に振ることになる。


 寝てからも、チャートが気になって、何度も目が覚めた。目が覚めるごとに、スマホでチャートをチェックしてしまう。


 ほとんど、眠れなかった。




 3月11日、放課後に部室に行くと、カリンはすでにパソコンの前でチャートをチェックしている。


「アヤノ、少し上がってきているよ!」


 その状況は知っていた。


 休み時間になるたびに、気になってチャートをチェックしていたのだ。


 ドル円は、じわじわと上昇をはじめて、116円の半ばまで上昇していた。ドル高だ。


「円だけじゃなくて、他の通貨に対しても、けっこう強いみたい」


 カリンは、ユーロドル、ポンドドル、豪ドル米ドル、ニュージーランドドル米ドルのペアなどを画面に表示させている。


 じわじわと、ドル高になっているようで、ローソク足は、ドル高を示すように下方向に動いていた。


「そろそろ、決済した方がいいでしょうか」


 カリンと並んでパソコンをのぞきこむ。


「うーん、もう少し待とう。欧州時間、米国時間がはじまると、もっと上がりそうだし」


「夜中ですよ」


「今日は、オールナイトだよ」


 カリンは、ここにかける気らしい。


 カリンと一緒に、夕方まで、ずっとチャートをみつめる。途中、様々なヘッドニュースが飛び交い、その内容に一喜一憂する。


 目下、ウクライナ情勢の進展に左右される展開だ。


 二人は、116円台半ばで推移しているドル円を抱えたまま、帰宅した。




 家に帰るなり、すぐにパソコンをつけ、相場とにらみあう。


 相場が気になって仕方がない。


「連日は、きついな」


 昨夜はほとんど眠ることができていない。


「ぜったい、上でしょ。きっと」


 そんな時、ユーロが大きく上昇した。ポンドも、ほぼすべての通貨だ。


 アヤノのスマホが鳴る。


「もしもし、カリン先輩?」


「アヤノ、見てる?」


「はい」


「プーチン大統領が、ウクライナとの和平交渉は進展があったってコメントしたみたい」


「ですね。リスクオンですね。ドルは下がるんでしょうか?」


「ううん、読み通りだよ。ドル円では、ドルの方が強い。ドルはリスクオフであってリスクオン通貨でもあるみたい。このまま保有だね」


 たしかに、ユーロドルではユーロが強さを増しているが、円に対してはドルの方が圧倒的に強そうだ。


 しばらくすると、今度はユーロが下落をはじめた。


 今度は自分からカリンに電話をかける。


「ユーロ、落ちてきました。でも、ドルは上昇を続けています」


「だね。ウクライナの外相が、和平交渉に進展はなかったって発言したみたい。今度はリスクオフが機能して、上がっていくね」


 ドル円は、一気に117円を超えていく。


 もう、日付は変わっている。


 こんな時間まで、為替と向き合うとは思わなかった。


 青春の時間を無駄にしているのではないか、という自覚はある。しかし、進級がかかっているのだ。仕方がない。


 ついに、117円20銭を超えた。


「プラス10万円……」


 ここまでくると、そろそろ約定した方がいいのではないか、という気になってきた。107円以上の高値は5年ぶりのことらしい。


 含み益が10万円をこえたところで、スマホに着信が入った。


「そろそろ、切ろうか。私は、まだまだ上がるんじゃないかなって思うんだけど、週末だし、土日に何があるか分からないから。ポジション調整の行動になるけど、いい?」


 電話口の向こうから、カリンが、少し自信のないような声で言っている。


 たしかに、ノンストップでこんな夜まで為替と向き合っているのだ。疲れもたまってきている。


「はい、わたしも、そろそろ潮時かな、と思っていました」


「それじゃあ!」


「はい!」


 思い切って、決済のボタンを押した。


 ドル円決済10万円。


「10万円、戻した……」


「やったね! アヤノ!」


 電話の向こう側で、カリンの喜ぶ声が聞こえた。


 こんなに喜んでくれるのはとても嬉しい。


「これで、残り9万円です」


「10万円以内なら、なんとかなるよ!」


 しばらく話をして、土日には、しっかりとお互いに戦略をたてようということで、電話を切った、


 時刻は、すでに午前3時だ。


「昔なら、お化けとか怖い時間だったのにな……」


 今は、お化けよりも、為替の方がこわい。


 ふと、窓から外を見る。


「ウクライナか……」


 ウクライナの人たちが苦しんでいるのに、自分はそうしたニュースに振り回される為替で勝負している。


 不思議と、罪悪感がわいてきた。


「これが終わったら、私にも何ができるか、考えてみよう。そのためにも、今は進級のことだ」


 今日の勝利と、ウクライナの人々に思いをはせながら、眠りに落ちた。

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