盗聴犯

@sweet-sora

第1話 回想

 人を想うこと、恋をするということは、こんなにも現実を忘れさせてくれるものなんだね。


あなたの笑顔をこの目に映すたびに、わたしの不機嫌な口角は上がって、平坦なわたしの心に穏やかな波が立った。


それはとても心地の良いもので、あなたを見つめる目も自然と細まっていた。


この目に映るものすべて、丁寧にシャッターを切っていくような毎日は、とても幸せだった。


妊娠期にお腹を蹴ってくる愛おしい感覚、エコーで元気に動き回る小さな身体…。


珠のようなかわいい娘を授かって、育てられて、幸せだった。


わたしの選択は、間違っていないはず。






桜の花びらの中心が赤く色づき始める三月下旬。


わたしはお気に入りのピンクベージュのパフ袖ニットセーターを着て、自室の鏡の前にいた。


「琴音、準備できた?」


部屋の扉からひょっこりと顔を出した父は、花の女子大生の部屋、という配慮や遠慮を一切感じられない態度で、いつもの柔らかな笑みを浮かべて言った。


「もう、ノックぐらいしてよ。」


むくれながらふんわりとした白いマキシ丈スカートの位置を正し、父を押しのけて部屋から出ていく。


すれ違いざまに父の整髪料の爽やかな匂いがかすかに鼻を揺さぶる。


―なにも休みの日までジェルで固めなくてもいいのに。


そんなことを思いながら、リビングの壁にかけられた電波時計を見ると、時刻は七時三十分前。


そろそろ出発しなければ、電車に間に合わない。


「お父さん、もう行くよ。」


あとからリビングに入ってきた父を振り返り、ソファの横に立ててあった、ピンクのアルミ製スーツケースをよいしょと持ち上げ、ドタドタと小走りで玄関へ向かった。




 大学生になり、県外で一人暮らしをするわたしを、駅のホームまで父はお見送りにきてくれた。


「あとの荷物は送ってもらっていい?」


電車を待ちながら父と会話をする。


「わかった。」


短く返事をする父の目は、花粉のためか涙を我慢しているのか、真っ赤だった。


間もなく音楽が流れ、電車がホームに入ってくる。


「じゃあまたね。」


相変わらず辛そうな父に手を振り、ホーム側の窓際の席に座る。


父はたまらずティッシュペーパーで鼻をかんでいた。


こちらに気づいて手を振る父に、精一杯の笑顔で応えた。




電車が動き出し、なんともなしに外の景色を眺める。


ところどころに咲いているピンクのかわいらしい桜が目に入る。


桜を見ると強く思い出すのは、高校生のころ父から聞いた母のことだった。

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