第2話 私のママは小学生?

「美衣――いい加減に起きなさい。せっかくの朝ごはんが冷めちゃうじゃない」

「うーん……」


 窓から薄明かりが差し込む静かな早朝。

 美衣は、母に揺すられて目を覚ます。昨日、夜遅くまで配信をしていたせいか、まだ眠い。配信者は、どうしても生活リズムが乱れがちになってしまう。

 できればあと一時間くらいは寝ていたいところなのだが、生活リズムの整った母は、それを許してはくれないだろう。


「わかった、起きるから揺らさないで。気持ち悪くて吐きそうだから」


 美衣が重たい目蓋を開けると、そこには小学生にしか見えないような女性が、こちらを覗き込んでいた。

 癖の強い栗毛を頭の脇で束ねた黒目で童顔の彼女こそ、美衣の母親――美亜みあである。


 ……とてもじゃないけど、バツイチ子持ちとは思えないよね。


 十六で美衣を産んだのだから、もう三十過ぎであるはずなのだが、老いを微塵も感じさせないほど若々しい。

 きっと、漫画やアニメに登場するロリババアとは、こういうタイプのことをいうのだろう。

 もっとも、まだババアという年齢でもないが。


 ……というか、冷静に考えて娘の私より背が低いってどういうことよ。


 以前、一緒に外を歩いていて、美衣が姉だと間違われたこともあるくらいだ。


「おはよう、美衣」

「おはよう、ママ。どうしたの? 今日はいつも以上に早いけど」


 母に挨拶を返しながら、枕元にある時計を見た美衣は、六時という時間を見て、率直に思ったことを口にする。

 いつもなら、七時半くらいに起こしてくれるのだが、それよりも一時間半も早いと、何かあったのではと心配になる。


「今日はお出かけをしたいから、早めに家事を片付けてしまおうと思っただけよ。ほら、洗濯物が片付かないから、早く脱いで」


 母はそう言うと、布団をめくって美衣を着替えさせようとする。

 いくら母といえど、自分より幼く見える人に着替えさせてもらうというのは、妙なくすぐったさがある。


「自分でできるから。この下、何も着てないし」


 美衣は、母の手を優しく振り解く。家で過ごす時は、下着もつけずにTシャツ一枚。それを剥ぎ取られたら、すっぽんぽんになってしまう。

 流石に美衣も思春期の女の子。相手が母でも、それは恥ずかしかった。


「もう、下着くらいつけなさいっていつも言っているでしょう、だらしない。幼児体型の私だってブラつけてるんだから。決めた、今日は美衣の下着を選びにいきます!」


 確固たる決意を持って言い放つ母に、美衣は大きくため息をつく。

 一度こうなった母は、何を言っても聞かない。娘であるが故に、それはよく知っている。


「わかったから、着替えるから出ていって」

「親子なんだし、そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃない。つい数年前まではおねしょをしてたあなたをお風呂に入れたり、着替えさせたりしていたのに……」

「そ、そんなことは思い出さなくていい!」


 小学六年生までおねしょが治らなかったという黒歴史を思い出し、美衣は赤面する。いくら母でも、そこを掘り返されると恥ずかしいのだ。


「自立はいつかしなくちゃならないことだから、母親としては喜んだ方がいいのかしらね。私だって、いつまで生きているかわからないんだから」


 しみじみと噛み締める母に、美衣は語気を強めて言った。


「嘘でも、そんな話しないでよ。私、ママがいなくなっちゃうのなんて、想像もしたくない」

「それでも、私はいつまでもいられるわけじゃない。そんなに心配しなくても大丈夫よ。美衣なら、自分一人が生きていく分なら十分にイラスト一本で稼いでいける。学校に行かなくても生きていけるだけの術を私は教えたつもりだから」

「ママ……」


 コミュ障で、不登校の自分のことをどこまでも気遣ってくれる母の優しさに、思わず熱いものが込み上げる。

 それを悟られぬように、美衣は背を向けてシャツを脱ぎ始めた。


「それじゃあ、またあとでね」


 そう言うと、母は部屋を出ていく。

 扉が閉まるのを待ってから、美衣は呟いた。


「そうだよね。いつまでもママはいないんだ。母の七光としてじゃなく、早く自分一人で稼げるようにならないと」


 外の世界から隔絶された引きこもりとしての生活を続けてきた美衣にとって、自立は大きな課題だ。

 外に出ることを想像しただけで、お腹が痛くなってしまう自分の体質をどう変えていくか。まずはそこからだった。

 母もそれがわかっているからこそ、何か理由をつけて、外に引っ張り出そうとしてくれているのだろう。

 信じてくれている母のためにも、その期待に応えなくてはいけない。


    ◯


「うわぁ……やっぱり凄い人」


 電車に乗り、隣街にまで来た美衣は、母の小さい背中に隠れながら、恐る恐る周囲を見渡した。

 街行き交うのは大勢の人々。ドキドキと心臓が嫌な音を立てる。目と目が合ってしまいそうで、下を向くことしかできない。

 誰も自分のことを気に留めることなどないと心では理解していても、やっぱり他人の視線は怖いのだ。


 ……正直、一分一秒でも早く帰りたい!


 そんなことを思いながらも、美衣は母の後ろをピッタリとくっついていく。親鳥の後をくっついて歩く、ひよこになった気分だった。

 緊張している美衣に気づいたのか、母は言った。


「不安なら、手を繋いでてあげるから。もうちょっとだけ、頑張りましょう」


 そっと手を握ってくれる母に感謝しながら、美衣は手を握り返す。

 そして、休日で人が密集しているショッピングモールへと繰り出した。



 まず立ち寄ったのは、当初の目的であった服屋、その洋服売り場だった。


「洋服は家にあるので間に合ってるよ」


 美衣が小声で囁くと、母は首を横に振った。


「あなた、放っておくといつも同じ服着てるじゃない」

「だって、あれが一番過ごしやすいんだもん」

「せっかく可愛い顔してるんだから、おしゃれしなきゃ損よ。せっかく女の子に生まれたんだから」


 母は子供みたいに頬を膨らませると、こちらに歩いてくる一人の女子高生らしき少女を指差した。


「あの女の子可愛くない。お母さん的には、めちゃくちゃ萌える。特に、スカートから伸びた脚がたまらないわ」

「ママ、オタクの部分出てるって……一応人前だからさ」


 美衣は、また始まった、と呆れて言葉を失う。

 母の若い子好きにはほとほと困らされているのだ。

 それは女性だけに留まらず、もちろん若くてかわいい男性も大好きである。


 ……パパと別れた理由も、若い子が好きだから、だもんな。


 どうしてあんなにイケメンでスペックも高かった父と離婚してしまったのか、今でも不思議なくらいだ。

 父とはもう何年もまともに顔を合わせていないが、特別仲が悪かったという話は親戚からも聞こえてこない。


 ……本当に、ただ若い子が好きだから、って理由でふったんだろうな。


 母の思い切りの良さに、美衣は苦笑いを浮かべる。


「ねえ、これなんてどう?」


 美衣が考え事をしている間に、いつの間にか近くの試着室に入っていた母は、フリルがこれでもかとついた白のワンピースを着て、ひらりと回ってみせる。

 子供のようにはしゃぐは母を見ていると、人前にいるという不安も忘れられる。美衣にとっては、まさしく太陽のような存在だった。


 ……結局、自分の服選んでるじゃん。


 美衣は、ツッコミたくなる気持ちを抑えながら、母の元へと駆け寄っていく。

 相変わらず、服のセンスが小学生だった。


 やがて、母が気に入った何着かをレジに持って行き、会計を済ませると、いよいよ下着売り場までやって来た。


「そろそろ高校生なんだから、可愛い下着選ばないと」

「別にいいよ、誰かに見せるわけでもないし」


 ルンルン気分の母に、私はげっそりとして言う。

 すると、母は真っ向から反論してきた。


「彼氏とか彼女とかできた時にどうするのよ。私は、高校に行かないで十六で結婚しちゃったから、わからないけどね」


 あまり明るいとは言えない過去をあっけらかんと話す母に、美衣は呆気に取られる。


 ……母の若い子に対する憧れは、自分が当たり前の青春時代を送れなかった過去からきているのかもしれない。


 そう考えると、強く否定もできないので困ってしまう。

 しかし、母はきっとそんな気遣いは望まないので、美衣はいつも通りの返しをする。


「いや、できないし、できちゃまずいでしょう。一応アイドルなんだから」

「子持ちで未だにアイドルとして活躍している私の前で言うセリフ?」

「ママは特別だから。結婚して子供もいるって告白したのに、全然リスナーが離れていかなかったって有名だよ」


 もちろん、昨日のナインというリスナーのように、離れていった人がいなかったわけではない。

 それでも多くの人が残ったということは、母の人柄を気に入っている人が多かったという証拠だろう。


「よし決めた。お母さんが勝負下着を選んであげるわ」


 意気揚々と腕まくりをする母に一抹の不安を覚えながらも、楽しそうな母が見れて、美衣は満足していた。


「これなんてどう? 結構派手だけど、勝負だったらこのくらい攻めてみてもいいんじゃない?」


 そう言って母が見せてきた下着を見て、美衣は軽く悲鳴を上げそうになる。


「こ、こんなヒモみたいなパンツ穿けないよ……。ていうか、どっから持ってきた!?」

「えへへ、流石に冗談よ。お母さんとしても、娘にこんな破廉恥な下着は穿かせられません。初めてなら、レースで色は無難に赤か黒かしらね」

「初めて前提か!」


 昼間からなんてことを口走っているんだ、と美衣は口走りそうになる。

 しかし、それは周りの客の迷惑になるので、どうにか思い止まった。


    ◯


「いっぱい買っちゃったわね」


 満足そうに買い物袋を抱えた母と美衣は、帰りの電車に乗るために、駅のホームに立っていた。


「今日は付き合ってくれてありがとう」

「何、急に改まって」


 体がむずがゆくなってしまうような母の一言に、美衣は顔を引きつらせる。


「この間久しぶりに昔の絵描き仲間から連絡があってね。今日娘とお出かけするんだって伝えたら、うらやましいって言っていたのよ。私のとこは、全然見向きもしてくれないって。それ聞いたら、これは当たり前じゃないんだなって思って」

「そうだよ。普通、娘なんてそんなもんだから。まあ、友達いないから知らないんだけどね」

「いつかあなたにも、お友達ができるといいわね」


 母の言葉に、美衣は黙り込む。

 別に、一人でいるのが好きなわけではない。よくを言えば、友達の一人や二人くらい欲しいのだ。

 しかし、コミュ障の自分に付き合ってくれる友達なんて、夢のまた夢である。


「はあ……」


 もしもの世界を想像して、大きなため息をついた時だった。


「美衣――! 危ない!」


 突然、耳元で母の叫び声が上がる。

 美衣は、咄嗟に何事かと振り返る。

 するとそこには、黒いパーカーを着て、フードを目深にかぶった男がいた。

 その男の手を、母が掴んで押さえ込んでいる。


 ……もしかして、私を線路に突き落とそうとした?


 自分が突き落とされかけた。そう意識した瞬間、ヒヤリとしたものが胸の下を撫でていく。

 美衣は、あまりの恐怖に足がすくんで、動けなくなってしまった。


「美衣! 早く逃げなさい! お母さんは大丈夫だから、助けを呼んできて!」


 母の必死な叫びで、フリーズしてしまっていた美衣は、どうにか正気を取り戻す。


 ……そうだ。助けを呼ばなくちゃ。


 美衣は、いつも歌のレッスンでしているように、お腹に空気を溜めて、大きな声を出そうとする。


「……!」


 しかし、何度やっても言葉はおろか、音も出てこない。

 世界で一番大切な人が危険だというのに、緊張で助けての一言も言えない自分。それがなんとも情けなかった。


 ……私がコミュ障じゃなかったら。


 美衣は自己嫌悪に陥る。

 すると、母の手を振り解いた男がこちらに向かってきた。

 その時、ふと目が合ってしまう。


「……」


 男の目は、美衣に対する憎しみで黒く染まっていた。まるで、美衣を襲うことだけを、生き甲斐にでも感じているような、そんな瞳だった。

 そのあまりのおぞましさに、美衣は反射的に目を伏せる。


 ……私は、ただ普通に生きたいだけ。私が、あなたに何をしたって言うの?


 美衣が頭を抱えて、その場にうずくまると、鋭い母の声がホームに響いた。


「私の可愛い娘には、指一本、触れさせないわよ!」


 タッタッタという足音の後に、揉み合うような衣擦れの音が聞こえる。

 直後、バサリという音と共に、母の悲鳴を聞いた気がして、美衣が目を開ける。すると、そこにはホームに倒れふし、苦しげにうめく母の姿があった。


「ママ――!」


 美衣が叫ぶと、母はこちらを見ながらゆっくりと起き上がる。

 そして、ぎゅっと抱きつくように覆い被さってきた。

 嗅ぎ慣れた母のいい匂いが、肺いっぱいに広がる。途端に、私の体はポカポカと温かくなった。


「大丈夫。美衣は、お母さんが守るから。こんなのは悪い夢。目をつぶっている間に終わってしまうから」


 そう耳元で優しく囁いて、母は背中を優しくさすってくれる。

 昔、怖い夢を見て眠れなくなった時も、仕事で疲れていたはずなのに、こうして柔らかく囁いてくれたことを思い出す。


「ママ……」


 ありがとうの言葉を伝えた時、ドスンと体が揺れる。

 母が覆い被さっているせいで、何が起こったのかはわからない。だが、衝撃からして、母が殴られるか蹴られるかしたのだろう。


「ママ――!」


 美衣は、ここが家の外であるということも忘れて、耳が痛くなるほど、大きな声を出す。

 すると、母は頭をそっと撫でてくれる。


「心配いらないわよ。ママはいつまでも、あなたの側にいるから」


 母はそう言うと、立ち上がって、男の方へよろよろとおぼつかない足どりで歩いていく。

 そして、美衣にしたように、優しく男に語りかけた。


「あなた、ナインさんでしょう?」


 母の言葉に、男は激しく動揺する。

 ナインという名前を聞いて、美衣は思い出す。


 ……昨日も、私の配信でアンチコメントをしていた、ママの熱狂的なファンの人。


 男の正体がわかったことで、美衣の中ではどす黒い感情が膨れ上がる。


 ……悪いのは私じゃないか。


 ナインは、母が作った子供――美衣を目の敵にしているのは、これまでの投稿美衣一人が


「私がまだ中学生。娘と同じくらい立った頃。小さな同人誌の即売会に来てくれたでしょう。お互いに、歳をとったものね」

「お、覚えていてくださったんですか……?」

「当然よ。熱烈なファン、第一号だもの。作家にとってはファーストキスみたいなもの。忘れられるわけがないじゃない」


 母は、屈託のない笑顔で、ナインに近づくと、そっと抱きしめる。


「配信でも、いつもたくさんお金を使ってくれてたわね。こんなにガリガリになるまで、生活切り詰めて。これからは、ちゃんとご飯食べるんのよ」

「……俺は、俺はなんてことを」

「大丈夫。まだ誰も死んでないよ。みんな生きてる。それだけでハッピーエンドだよ」


 母はそう呟くと、ナインを突き放して言った。


「早く行きなさい。騒ぎを聞きつけて、他の誰かが来る前に。あなたはまだ、十分やり直せるんだから」


 天使のような微笑みを見せた母は、ふらふらと床に崩れ落ちる。美衣は、咄嗟にそれを受け止めた。

 どうしていいかわからず、おろおろとするナインに、美衣は力強く告げた。


「いいから行って!」

「は、はい……!」


 ナインは一礼すると、何かに追われるように駆け出していく。その背中を、美衣は複雑な気持ちで見送った。


 ……本当は、警察に突き出してやりたいくらいだけど、ママはそれを望まないだろう。


 美衣は安らかな顔を浮かべる母の顔を撫でながら訊ねた。


「これで、よかったんだよね?」


 美衣の問いに、母は力なく頷いて、ゆっくりと目を閉じる。ぐったりと脱力した母の体重が、急にのしかかってきた。



 母はその後、通行人の通報によって呼ばれた救急車に乗って、病院に運ばれた。

 その病院で、医者から告げられた言葉を聞いて、美衣は絶句した。

 いつ目を覚ますかわからない。もう二度と、意識が戻らないかもしれないと、そう告げられたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る