モノと会話できる私の話編
モノと会話できる私の話 -1-
ある日の私は、誰もが良く知るあの方と口論を交わしていました。いつもお世話になっており、快適に生活するには必要不可欠な偉大なお方です。
「これは一体どういうことなのですか!?」
滅多に怒らない私が声を荒らげるこの状況。しかし、あの方は訝しみながらも泰然と構えていました。
「なんの事だよ……」
突然の事で何がなんだかさっぱり分からない。そんな呆けた顔をしておられました。
それだからそう言うのも無理はありませんでした。しかし、ご自覚がないというオチも考えられます。
そこで、私は言いました。
「呆けても無駄ですよ。証拠はこの手中にありますから」
そう、証拠は揃っているのです。
「だからマジでなんの事だよ……」
あら、優しく教えて差し上げましたのに、未だ呆けているとは白々しいことこの上ないですね。ここは1つ証拠をお見せする必要がありそうです。
「逃げ切れるとお思いですか? だとしたら特別に教えて差し上げましょう」
さっ、さっ、とあの方の眼前にて湿ったワイシャツを広げて見せた私。やはり意味が分からないと言った顔をしています。
「ここです。この胸ポケット」
私は広げたワイシャツの胸ポケットを指差し、あの方の眼前にこれでもかと見せつけました。
これにはあの方も、近い近いと必死に体を反らしていましたが、逃げ場のないこの場所では反らせる角度もたかが知れていました。
それだから、ぺたんとあの方の顔にワイシャツが覆い被さってしまいました。ちょっと近すぎましたね。
気を取り直して咳払いを1つするあの方と私。息ぴったりです。
「ただの胸ポケットじゃねーか」
「見て分からないのですか?」
「俺が洗ったワイシャツって事ぐらいしか分からねぇな」
「はぁぁ、本当にあなたは呆けるのがお上手で」
「はぁ? 喧嘩売ってんのか!? 俺はきれいにきれいに誠心誠意、精魂を傾けて洗っているんだ! それをなんだ、俺がワイシャツを汚したとでも言うのか?」
おっと、まさか反論されるとは思っても見ませんでした。証拠を眼前に突き付けても尚、しらを切るとはどうしても認めたくないようです。自らの大罪を……。
仕方ありませんので、敢えてにこやかに言ってやりました。
「えぇ、そうしましたとも」
その微笑みが不安を一気に駆り立てたのか、多少の水滴を額に浮かべたあの方。それでも毅然とした態度に変わりはありませんでした。
「なんだよ、言ってみな。特別に聞いてやるよ」
はぁ……と思わず溜息を吐いてしまうのは致し方ないでしょう。私が懇切丁寧に事の顛末をお話しなければならないようです。
はぁ……と再び溜息。もう幸せが2つも零れ落ちてしまいました。
「やはり、あなたは自らの犯した大罪から目を逸らそうとしていますね。特別に罪状を読み上げて差し上げます」
それから私は真実をお話しました。
「あなたはくず取りネットという機能がありながらも、ワイシャツの胸ポケットに糸くずを入れた。くず取りネット無使用罪に当たります」
私はドヤっと大きく胸を張って見せました。
「なんだそれ? 俺が知らないと思って小馬鹿にしてるな?」
「まさか、そんなこと……そんなことありません」
「おい、なぜ躊躇った?」
「今はそんなことどうでもいいのです。それでやったのですか? やりましたよね!」
「やってねぇよ! 糸くずの方が勝手に入ったんだろ」
半ば呆れながら答えるあの方。それもそうです。この罪はたった今、私が作りましたから。
それよりも気になる発言が私の鼓膜にべっとりと張り付いて離れませんでした。
「糸くずが勝手に入った? 何を馬鹿なことを仰っているのですか? 糸くずを取るのがくず取りネットの役目というものでしょう。それをあなたは使いもせず、一番やってはいけない洗濯前よりも汚すという大罪を犯したのですよ」
「いや、そんなことはしていない……はずだ。俺の仕事は完璧で、汚す事など有り得ない! 毎日定時退社で有名なんだ」
そうあの方は仰いましたが、実際問題糸くずは胸ポケットに入っています。おしくらまんじゅうのように。
それにあの毅然とした態度も、今では少し揺らいでいるように見えます。水滴も心做しか増えているように見えるのは気のせいでしょうか……。
その時でした――
「あ、そうだそうだよ! 糸くずの野郎が実家に帰省したと考えられる。きっとそうに決まっている。うんうん」
なんと! あの方は驚くべき事を口にしました。そうです。自らの罪を擦り付けたのです。
しかし……そうきましたか、とも思いました。確かに、あの方の仰ることにも一理ありました。元を辿れば出処に戻ったと言えます。あの方にも意思があるのですから、糸くずに意思がないとも言い切れません。本当に実家に帰省したかっただけであれば、それを咎める私こそが罪人でしょう。
激流の中を悪戦苦闘し、一皮剥けた彼らは実家へと帰省したのです。それは褒め称えるべきことです。
しかしながら、腑に落ちていないのも事実。その激流を操るのはあの方なのですから、あの方の裁量次第と言っても過言ではありません。やはりここは白黒はっきりさせるべきです。
「そうだとしても、あなたの支配下にあり、自由行動もできない糸くずに対して、罪を押し付けるのは大人としてどうかと思います」
「知るかよそんなこと。むしろくず取りネットに集める方が難しいんだよ。あいつら俺の腹の中でちょこまか動き回ってやがる、から……いや、くず取りネット内が満室で入室の余地がなかったとしたら、胸ポケットの中の入ってもおかしくねぇな」
本当に何を言っているのだろうかこのでか物は? まるで私が、くず取りネットも綺麗にできないダメダメ乙女とでも言いたそうな顔をしています。これにはさしもの私も怒りますよ。ひっぱたいても文句は言えませんよね? ね?
私は怒りを露わに、じとーっと見つめながら言いました。
「ではあなたは、くず取りネットを綺麗にしておかなかった私による自業自得な事件とお考えなのですね」
「然り。俺は無実でこれは冤罪だ」
残念でした。決定的な証拠を今も抱えているというのに……。
「そうですか、でもその推理は外れていますよ。洗濯前にくずは全て取り除いていますから」
私のその言葉に、あの方は若干目を見開いたように見えました。
「証拠はあるのかよ。全て取ったという証拠は」
私は近くにあるゴミ箱を指差しました。
「ゴミ箱を見れば分かります」
「あったとしても、それが洗濯前に取り除かれたくずだとは判断できかねるな。予め捨てていた可能性も否めない」
「ふふっ、随分と誇らしげですね」
「そうだとも、俺は無実だからな」
やはり、核心的な証拠をご提示する必要がありました。茶番も終わりです。
「でもあなたは、今し方このワイシャツの洗濯を終えたばかりです。それにしてはくず取りネットが新品同様ピカピカですね。これは些か不自然ではありませんか? 一体どういうことですか?」
自らのくず取りネットを揺らしてみるあの方。顔が引きつっておられました。
「それに、あなたは汚す事など有り得ないと断言していました。しかし、胸ポケットには糸くずの集団。これはどうご説明するおつもりですか?」
私は首をふるふると左右に振りました。
「いえ、訂正いたします。どう逃げるおつもりですか?」
「そ、それは……」
私がこのように言ってしまえば、糸くずの意思など関係なく、それが恰も真実であるように思ってしまうものです。結局、モノは捉えようなのです。
「いい加減に観念したらどうです? 」
あの方はぷるぷると小刻みに震えながら、明後日の方向へと視線を背けています。焦りが如実に体現されていました。
「それにこの程度、ポケットを裏返せば直ぐに取れますからなんてことないのですよ」
ここで私は今までとは正反対な事を言いました。それはあの方からしたらとんでもない事です。時間をただ浪費されただけですから……。
それだからあの方は余計に焦っておられました。その結果、駄々をこねてしまうのは仕方ありません。
「だっ、だったら事件にするなよ! これでも一仕事終えた後だぞ! ゆっくりさせろー! 時間を返せー! お金くれー! 広い一人部屋を用意しろー!」
と、まあこんな事を仰いながら、ガタガタと揺れておられました。
顔を真っ赤に染められたあの方。ぷんすか怒っているように見えます。
「すみません。責め立てるつもりはそこまでありませんでした。どんな話題でも良いのであなたとお話がしてみたかったのです」
「…………」
ぽかーんと疑問符を浮かべるあの方。
「それと、いつもお洗濯ありがとうございます。今日はもうお休みになっていただいて大丈夫ですよ」
「…………」
やはり、ぽかーんと疑問符を浮かべるあの方。
それ以降、あの方が口を開く事はありませんでした。ただ、体を捻って顔を見られないようにはしていました。
きっと、私のプリティーな笑顔に心を奪われてしまったに違いありません。これは想像に難くありませんね。
そして、あの方を一瞥してその場を後にする私。零した分の幸せは十分手に入れられました。
そう、ずっとお話してみたいと思っていた方とお話できたのですから。
静まり返った部屋の中、ハンガーに掛けられた真っ白なワイシャツ。カーテンの隙間から溢れる陽の光に当てられ、直視するのも難しいほどに眩く輝いていました。
洗濯機さん、面白いお方でした。でもちょっと困らせちゃいましたかね。
次はどなたとお話しましょうか?
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