第43話 私たちのお城


 少し暑さが和らいだ日差しが、柔らかく差し込む窓辺。


「今日は、天気がいいな」


 少し掠れた、けれど穏やかな声色が私の背中に当たる。

 笑顔を心掛けて振り向けば、ベッドの上で横たわる彼が、薄らと微笑む。


「ええ。久々に良い天気で、気持ちがいいわ」

「子供たちは、裕太は学校か?」

「ううん。今日は夏希が少し咳をしてて。熱は無いけど、念のため、二人ともお義母かあさんにお願いしているの」

「そうか……。なんだか、静かだな……」

「ふふ。そうね。でも、風邪の引き始めだと思うから、すぐ治るわ。そしたら、また賑やかになるわよ」

「ああ……。そう、だな……」


 彼が、少し寂しそうに眉を下げ、微笑む。

 きっと、今日は体調が良さそうだから……そういう時に、子供達と話したかったんだろうな。



 医師から、余命宣告を受けた。


 転移が見つかったのは、半年前だった。それは、凄まじ勢いで彼の身体の中に容赦なく広がって、手術を受けても助かる見込みが低いと言われた。


 余命を宣告され、私達が選んだのは、在宅ケアだった。


 残りわずかの時間を、家族でゆっくり過ごそう。

 子供たちがまだ小さいから、静かに、とはいかないけど、彼は「子供達の声が聞こえる場所に居たい」と言った。

 お父さんが帰って来ることに、二人は大喜びをした。

 けど、以前の様に一緒に遊ぶ事は出来ない。その理由を、ゆっくりと……何度も、伝わる様に願いを込めて説明をした。まだ七歳と三歳とはいえ、ちゃんと生命と向き合うことを伝えないと。

 二人共、最初は大泣きをしたけれど、今はちょっとだけ愚図る程度で、彼に甘える。

 彼もそれを嬉しそうに受け入れて、病室にいた頃よりも顔色が良く見える。


 このまま、奇跡が起きたら良いのにと、私は何度も何度も、一人願った。


「この家を、君が気に入って……ここで一緒に暮らしはじめて……僕は、ずっと、しあわせだった……」


 彼が、窓の外に視線を向けながら、静かに語りだす。


「だった、なんて……過去形なの?」


 私はつとめて明るい声でいえば、彼は否定せずに、そのまま続ける。その言葉に、私の視界はジワリと歪み、少し喉が詰まった。


「絵本で『ちいさなおうち』という本があるだろ?」

「ええ。私、大好きな絵本だわ」

「うん……あの家に、似てると……。君が嬉しそうにいうから、僕も、あの絵本が、大好きになった……。あの絵本みたいに、あの頃より周りの風景が変わってしまったけど……僕は、この家を買って、良かったと思っているよ……」

「うん。私も。この家で、本当に良かったって思う」

「……もし、この家の周りが、ビルだらけになったら、家ごと引越しするといい……」

「あははは、あの絵本みたいにね?」

「うん……」


 ここは、私たちにとって、初めてのお城だもの。何があっても、私はこの城を守る。


 そう口に出そうとすると、彼がゆっくり手を上げた。


「……こっちへ……」

「うん」


 私は笑顔で彼に顔を近づける。

 彼の痩せ細った僅かに震える指先が、私の頬に触れた。私はその手に自分の手を重ね、頬を彼の手に押し付けるように寄せる。

 すると、もう自力で起き上がれる力など無い筈の彼が、上半身を僅かに起こし、私に口付けをした。それは、ほんの一瞬。触れるか、触れないかの、微かなもの。


 私の視界が滲んでいく。ポタリと、彼の頬に涙が落ちて。


「……」

「ん? なぁに?」


 口が動き、私は耳を寄せた。



『あいしてる』



 耳に当たった吐息の中に残った言葉。私は顔を上げ、彼を見つめる。薄く目を開いて、微笑む彼に、私も笑顔を向けた。


「うん……うん。私も、愛してる。ずっとずっと、ずぅっと、愛してる!」


 その言葉に、満足そうに僅かに顎を引き、ゆっくり瞬きを二回繰り返し、そして、確かに聞こえた。空気の中に、溶ける様に消えてしまった……。


『ありがとう』


 幻みたいな、その言葉と同時に。彼は、そのまま静かに瞳を閉じた。


「……あなた……? あなた……!!」


 眠っているのとは、違う。何故か、すぐにそう感じた。心臓が冷えていく。一気に、自分の身体が、彼の身体とリンクしているかの様に冷えて行く気がした。

 震える冷えた手で、彼の頬に触れる。まだ、温かい……。


「ねぇ、起きて?……嫌よ! まだ一人にしないで! 私を置いて行かないで! 子供達の結婚式だって、まだ見てないのよ? 子育て終わったら、一緒に温泉旅行に行こうって、約束したでしょ? お願い、もう一度……もう一度、笑って……目を覚まして……もっと私を愛してよ……お願い……」


 私は、彼のカサついた薄い唇にキスをした。


 目を覚ましてよ。お願いだから……。


 物語の世界なら、王子様のキスでお姫様は目を覚ます。けど、私達は王子様でもお姫様でもないから、あなたは目を覚まさなかった。


 神様……。



 どのくらい、彼の隣で泣いていただろう。病院へ連絡しなくてはと、顔を上げた。すると、部屋の中に、ふわりと風が入ってきたのを感じた。今日は本当に暖かかったから、少し窓を開けていたのだ。


 レースのカーテンを柔らかく揺らす風が、金木犀の香りを連れて入り込む。


 私は、金木犀の香りを嗅ぐたびに、今日を思い出すだろう。

 最愛のあなたと過ごした、長くて短い、最高に幸せな日々の思い出と共に、最期に交わした口付けを。




×××


 

※『ちいさなおうち』(The Little House)

アメリカの絵本作家・バージニア・リー・バートン作。 1942年に発行された作品。


※金木犀の花言葉には【隠世】という言葉がある。

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