第32話 少女漫画みたいな恋
下校時間を過ぎてから、私は昇降口を後にした。
図書室で受験勉強をしていたら、司書の先生に声を掛けられて、初めて下校時間を過ぎていた事に気が付いた。
朝はさほど重たく感じなかった鞄は、弁当箱も空になって、その分、軽くなっているはずなのに、何故かとても重たく感じる。
中学の頃、そんな話をした相手がいた。
その人は「なら、その重たくなった分はきっと、君が今日学んだ知識や経験、楽しかったことも、悲しかったことも。全部がちゃんと、身体に入り込んで、染み込んで。それで、重たく感じるのかもね」と、笑った。
その笑顔が、あまりにも綺麗で。その言葉は、すんなり私の中に染み込んで。
帰り道、夕暮れ空の下をゆっくり帰路へ向かう時、ふと身体が重たく感じた日は、私は必ず思い出すのだ。
彼の声が、耳の奥に響く。そして、あの夕日に照らされた、オレンジ色の綺麗な笑顔を。
その度、私の胸の奥はトクンと音を立てて、顔が熱くなり、なんだか身体がふわりと軽くなる。
いつだったか私は、彼を思い出すたび、そんな風になる自分に、この感情は何だろかと考えた。
これを恋と言っていいのか。あまりにも漠然としたカタチのない感情は、今思えば憧れだったのだろう。
恋ではない。
そう思うのは、私が『恋』が、どんなものかを知る前に、失恋したから。
卒業式の日、私は引越しが決まっていて。だから、最後に彼と話がしたかった。でも彼は、誰もいない裏庭で、他の女の子とキスをしていた。
『好き』という感情は、あったんだ。だから、ショックだったんだ。
だけど、その『好き』がlikeなのかloveなのか考えた時、どちらとも分からなかった。どちらとも分からない『好き』を、粉雪みたいに心の奥に降り積もらせて。考えることを放棄したら、氷になって固まった。
それ以来、私には『好き』も『恋』も、よくわからないものになっていた。ついでに言えば『嫌い』も特にないから、例え誰かに嫌われていたとしても、その人とは縁がなかっただけだ。なんて考えて、それ以上、感情の深追いする事なく終わるのだ。いつもなら。
そう。終わっていたんだ。
今日という日が、来るまでは。
運命というものがあるのなら、それはいつだって唐突に訪れるのだと思う。
「やっぱり。久しぶりだね、この路線だったんだ」
私の目の前には今、中学の頃に数回言葉を交わした事があるだけの、彼が立っていた。
あの、鞄の重さの謎を、唯一話した相手。
あの頃と何も変わらない。いや、身長は明らかに高くなっているし、少し大人びた顔付きになっているけど。彼の笑顔は、あの夕暮れの教室でみた笑顔と、何も変わらない。
「中学卒業と同時に引越しちゃうし、誰にも連絡先教えて無かったろ?」
彼は懐かしい声で、笑いながら言う。
「もう、二度と会えないかもって、思ってたんだけど。また会えて嬉しい」
そんな恥ずかしい言葉、よくスラスラと言える。私は恥ずかしくて、俯いてしまった。顔が熱くて、きっと今、赤いだろうなと思ったけど。
でも。きっと、夕日に染まって分からない筈だ。今の彼が、夕日色に染まった笑顔を、私に向けているように。
「これから少し、時間ある?」
思いがけない問に、私は顔を上げた。
優しい微笑みを湛えた彼は、小首を傾げて私の返答を待っている。
待って。何で女子の私より可愛い仕草するのよ。思わずドキッとしちゃったじゃないっ。え、嫌だ。何これ、私、知らない。鼓動がドンドン早くなってるんですけど!?
はっ……。待って。落ち着いて。落ち着くのよ、私っ。
さっきまでの冷静さを取り戻すのよ。
そう。私は『恋』とか『好き』とか、知らないのだから……。
そう。知らないのだから。
「やっぱ、急だから無理か」と、彼が「ごめんね」と困ったように……どこか、寂しそうに。眉を寄せ微笑む。
え、嫌だ。帰っちゃう。待って。
その気持ちが先立って、私は無言のまま彼の手を掴んでいた。
「え……?」
「……あ! ご、ごめんなさい」
「いや……」
「じ……時間、あ……あります……」
尻窄みになる私の声を、ちゃんと聞き取った彼は「本当?」と、今度は満面の笑みに変わる。
コロコロ変わる表情に、私が目を奪われていると、彼は私から繋いだ手を強く握り返した。
「じゃあ、ちょっと付き合って」
そう言って、彼に手を取られたまま向かった先は、住宅街の一角にある小さなカフェだった。
「俺の隠れ家」
彼はそう言って笑った。
その言葉は本当のようで、カウンターに居る店主に軽く挨拶をして、奥が空いているか確認をしている。
「あれ? もしかして、その子……」
「マスター!」
ん? なに?
彼が何やら慌てて店主の言葉を遮ると、マスターと呼ばれたダンディなお兄さんは、何やら意味深な頷きをして私を見ている……。
なんだろ、めちゃくちゃ生暖かい眼差し……。
私は恥ずかしくなって、その視線から隠れようと彼の後ろに立った。
「一番奥。衝立のある席、使っていいよ。飲み物はいつもので良いか?」
「うん。あ、コーヒー飲める? 紅茶の方が良いかな?」
彼が振り向き訊ねるので、私は「うん。紅茶がいいかな」と小さく頷いた。
やり取りを聞いていた店主が「了解」と嬉しそうに頷くと、彼はさっき許可をもらった衝立の奥の席へ向かった。
レトロな雰囲気の店内は、夕日と同じ色をしたオレンジ色のライトで、薄暗いけど落ち着く感じがする。
客席はカウンターに四席と二人掛けのテーブル席が四つ。その奥に衝立の席があるようだった。もう夕方を過ぎたせいか、他に客はいなかった。
衝立の奥へ進むと、半個室みたいになっていて、窓際は出窓になっている。そこにも、可愛らしいライトが。
私が視線だけを動かして店内を見ていると、彼が「気に入った?」と訊ねてきた。
「うん……可愛いお店だね」
私の返答に満足したのか、彼は飾らない笑顔で頷いた。
何を話そうかと思っていると、店主がコーヒーと紅茶、そしてケーキが乗ったプレートをテーブルに置いた。
「え、注文してないですけど……」
「これは、僕からのサービス。ショートケーキは嫌いかな?」
「いえ、好きですけど……良いんですか?」
「もちろん。気に入ったら、またコイツと来てよ」
「マースーターぁ……」
「はいはい、では。ごゆっくり」
店主が去ってから、私達は静かにポツポツと会話をした。あんな風に誘われたから、もっとたくさん矢継早に話してくれるのかと思いきや、そんな事はなく。中学の頃の話や、最近見たドラマの話を静かな声で。話題は途切れることなく穏やかに流れていき、それがとても心地よかった。
ゆったり流れていた時間も、気がつけばあっという間に帰らなくてはいけない時間で。
私たちは、どちらからともなく、立ち上がり店を後にした。
しばらく歩いていると、ふと彼が足を止め「本当は、中学の卒業式に伝えたかった事があったんだ」と、静かな声で言った。
「伝えたかったこと?」
「うん……。今日、久々にあって、やっぱり好きだって思った」
「……え?」
「卒業式の日、俺、君に告白しようと思ってたんだ。付き合って欲しいって」
その言葉に、私の心臓がドンと大きな音を立てた。初めての音になのか、彼の言葉になのか、私は酷く驚いた。
が、私は思い出した。
「……ウソだよ、それ」
「嘘じゃないよ」
「だって、私、見たんだもん」
「見たって?」
「キミが……キミが、他の女の子と裏庭でキスしてたの!」
その言葉に、今度は彼が酷く驚いた様子で顔をこわばらせた。
しかし、すぐに気を取り直し、声を上げた。
「違う! あれは、向こうから急にしてきて! すぐに離したんだ!」
「そんなの、どうだって言えるよ」
「本当なんだって! 俺はキミが好きだから、応えられないって言ったら急に……」
「そんなこと……いわれても……私……!!」
勢いよく腕を引かれ、瞬く間に彼の腕の中で……。
唇が……。
「こんな風に、急にされたんだよ……」
彼は泣きそうに顔を歪め、私の顔を覗き込んだ。
私は自分の唇に指先で触れる。
少し苦い、彼のコーヒーの味がほのかに残る唇に、いま、私たちキスをしたんだと、実感した。
「ごめん、嫌だったよね……」
我に返ったのか、彼が身体を離して項垂れた。
なにこれ、なにこれ、なにこれ、何コレーーー!!!
少女漫画っぽくない?!
いま、めちゃくちゃ少女漫画っぽいよね!!!
これ、もう『恋』だよね!?
恋じゃん! これ、恋だよーーー!!
心の中に固まってしまっていた『恋』という氷が、一気に溶けていく。
氷が溶けて溢れ出した感情が、私を動かす。
気が付けば、私は彼の頬に手を当てて背伸びをしていた。
その唇に吸い寄せられるみたいに、自分の唇を重ねて。
いち、に、さん、よん、ご。
そっと離れて、至近距離で彼を見る。もう辺りは薄暗いのに、真っ赤なのが分かる。
「これで、おあいこ」
「え……?」
「私、いま、好きって感情がわかった!」
「へ?」
「えへへ」
「え……あの……じゃあ、あの。あの、改めて。俺はキミが中学の頃から、ずっと好きです。今日あって、やっぱり好きだって思った。俺と、付き合ってもらえませんか……?」
どんどん声が小さくなる彼に、私はクスクスと笑いながら頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
「……ははっ! やった……!」
彼が再び私を抱きしめて。私も、彼の背中に腕を回した。心臓が痛いくらい飛び跳ねる。
これが、『好き』なんだ!
これが、『恋』なんだ!
少女漫画みたいな恋だけど!
これが、私の『好き』で。
高校最後の夏休み前。ここから始まる、私たちの『恋』なんだ!
×××
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