第26話 未来を夢見て


 リビングの日の当たる場所で、彼が気持ちよさそうに寝息を立てて寝ている。

 そのお腹の上には、彼の髪の毛と同じ色をした猫が丸まって寝ていて。

 

 穏やかに流れる時間が、贅沢で愛おしい。

 あたしは寝ている彼の近くに静かに座って、少しパサついた金色の髪を撫でる。ゆっくり優しく、何度も。目を覚さない彼。あたしはそっと、その薄い唇にキスを落とした。

 それで目が覚めたのか、はたまた、近寄った時に目を覚ましていたのか。

 彼はあたしの頬に手を当てて、そのまま深い口付けをする。

 唇が離れ、彼の顔を見ると、まだ眠そうに目を細めている。


「……起こしちゃった?」

「ううん。丁度、目が覚めたとこ……」


 少し寝ぼけた様な声が、甘い……。


 なんだか可愛くて、一緒に寝たくなったあたしは、彼の横に寝転ぶ。

 すると彼は、自分の腹の上で寝ている猫を優しく降ろし、あたしを抱き寄せ、再びキスをする。どちらからとも無くお互いを求める様に深まるそれに合わせ、徐々に彼の手が不埒な動きをはじめる。キスは更に深く長く続く。濃厚なその行為に、眩暈がしそう……。キスの音が妙に耳の奥に響く。それに意識を奪われていると、いつの間にか服の中に彼の綺麗な手が侵入して……。

 









 ……と、そこでハタと気がつく……



 カッと目を見開き目覚めると、あたしは発狂しながら布団の上をゴロゴロ転げ回る。


 恥ずかしい!! 恥ずかしい過ぎるっ!!


「なんて夢見てるの!! あたし!!」


 あたしは、寝癖だらけの髪の毛に両手を突っ込んでグジャグジャっと掻き混ぜる。小さく呻いてから時計を見ると、丁度、起きる時間で。気を取り直すように勢いよく布団から出る。


 如何しい夢を見てしまった……。え? 欲求不満……?


 まさかっ!

 確かに、暫く彼氏いないけどっ! 今は毎日が充実していて不満はない。なのに、欲求不満とか……。


 ただ、正直にいうと。


 夢の中の彼に恋をしているのは……確かだ。でも……。


 彼とえちえちな事したいなんて考えて無かったのにぃー!! 深層心理とか分かんないけど! 自分が怖いっ!


 夢の中の彼。


 実は、名前も年齢も知らない。彼とは、たった一度しか会った事が無い。


 いや、会ったというか、ほんの数分だけ一緒にいて、ほんの数回、言葉を交わした。たった、それだけ。


 たったそれだけの出会いで、あたしは何処の誰かも知らない彼に、恋をした。


 金髪に染めた髪。長い前髪の奥から見える切長の瞳は、とても優しい眼差しを持っていて、低すぎない声はとても落ち着く。

 整った顔立ちで中性的な美しさがあり、ダボついた服ではあったけど、あたしより少し背が高く細身の体型。手が暖かくて。男性にしては、少し小さめで指が細く長い綺麗な手だった。



 あれは、ちょうど一ヶ月前。

 あの日は、夕方から雨が降りそうな空模様だった。


 社会人になって間もなく一年。初めて一人暮らしをはじめた。

 仕事帰りに家の近くのコンビニに寄って帰るのが、日課になりつつある日々。

 その日もいつも通りコンビニへ寄ろうとして、捨て猫を見つけたのだ。


 路地に隠す様に置かれた段ボール。その中には、まだ目が開いたばかりかと思う茶トラ柄の仔猫が一匹、震えながら懸命に鳴いていたのだ。

 使い古されボロボロになったタオルが敷いてあり、まだ開いていないミルク缶が一つ。


 酷い……捨てられたんだ……。


 そう思いながらも、どうしたら良いかと一人困っていると……。


「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」


 突然、背後から声をかけられた。

 それが、彼との出会いだ。


 振り向くと、金髪少年が立っていた。

 少年は鳴き声に気が付き、あたしの隣にしゃがみ込む。肩が触れる距離感にドキリとする。チラリと彼を見ると、随分と綺麗な顔立ちをした……少年では無かった。が、年齢不詳だ。そんな事を思っていると、彼が小さく何かを呟きあたしを見る。長い前髪の隙間から見える、鋭い視線。


「……この子は、あなたが?」


 あたしが捨てようとしていると勘違いされたのか?!


 あたしは慌てて、あたしが捨てたのでは無く、見つけたのだと訂正した。

 彼は直ぐに申し訳ないと謝り、あたしにこの子を飼えるか訊ねてきた。

 ウチは動物禁止なので、どうしようかと困っていた。と、正直に伝える。今日は雨も降りそうな空模様で、余計に困っていたのは本当だ。彼に飼えないか訊ね返すも、彼も同じだった。


 しかし……。



「……でも、確かに雨が降りそうだ……。このまま放置するのも後味悪いんで、自分が連れて帰ります」


 そう言って、どう連れて帰るか考え始めた。大丈夫なのかと訊くあたしの問いに、知り合いに飼えないか当たってみると返事をしつつ、彼は自分が着ていたパーカーを脱いだ。その服に仔猫を包む様にしてから抱き上げる。随分と手慣れた様子なので、一瞬惚けて見守ってしまった。そんなあたしに気付きもせず、彼は近くに動物病院が無いか訊いてきた。

 怪我や病気が無いか、ついでにノミダニ駆除やワクチンもやっておくとか、それに病院ならキャリーケースもあるだろうと言い、なるほどと思いつつ、随分と詳しくて何だかとても頼もしく感じた。

 家の近くに一箇所あった記憶があり、あたしは彼を病院へ連れて行った。


「ありがとうございます。それじゃあ」と病院へ入ろうとした彼を呼び止め、あたしは財布から一万円札を二枚取り出し、彼の片手を掴んでお金を握らせた。診察代の足しにして欲しくて。

 彼は酷く驚いた様子で、あたしに返そうとした。が、あたしが見つけた子だからと言ったら、少し考えて、礼を言い受け取ってくれた。


「……助かります。有り難く使わせて頂きますね。それじゃ……」と、病院へ入って行くのを見送った。ドアが閉まり、ふと思う。


 二万円は多すぎたかな。カッコつけちゃったな。なんて思ったけど、キャリーケースを買ったりワクチン打ったら二万では足りないくらいだろう。あたしがやるべき事を、彼がやってくれたのだから、それでいいんだ。なんて思った。



 あの日以来、何度か見る彼の夢は、最初は普通だった。なのに最近、今朝の様な淫らな夢になって来ており……。非常に恥ずかしい上に、名前も知らない彼に申し訳なく思うのだった。




 その日の夕方。


 定時で仕事を終え、いつもの様にコンビニへと立ち寄った。買い物をし、店を出てすぐ。

 

「あの、すみません」


 後ろから聞き覚えのある声に呼び止められて……。


「あ……」


 目の前には、今朝の夢に登場した彼が、そこに立っていた。


「ああ、やっぱり貴女だ。良かった、やっと会えた……」


 一ヶ月前に会った時より、少し髪が短くなって切れ長の綺麗な目が見える。あたしが驚き戸惑っていると、彼は焦った様に、突然すみません、と謝罪をした。


「あの、仔猫をそこで保護したの、覚えてますか?」


 恐る恐るといった風に訊ねる彼に、あたしは声もなく何度も頷く。


「良かった……えっと、……仔猫の事で、貴女も気にしてたらと思って。会えたら、伝えたいと思ってたんです」


 思いもよらない言葉に「そうだったんですね」と、少し顔を綻ばせる。彼も合わせてふわりと微笑んだ。中性的な綺麗な顔の笑顔は罪深い……。心臓が痛い……。


「実は、ここに来れば貴女に会えるかなと、何度か来てたんです……」


 驚いた。あたしも会いたいと思っていたけど、来てくれていたんだと知ると嬉しくなる。


「そうでしたか……すみません、普段は、この時間なんですけど。最近ちょっと残業が続いていたから……。ごめんなさい」

「いえ、俺も時間が空いた時に勝手に来ていただけなんで、謝らないでください」


 風貌からでは想像の出来ない丁寧で穏やかな口調は、一ヶ月前と全く同じ。低すぎない心地よい声に、あたしの胸の奥がキュンと疼く。


「あの、これ。お返しします。ありがとうございました」


 彼は水色の封筒をあたしに差し出した。あたしは小首を傾げながら受け取り、中身を見る。そこには、あたしが手渡した金額と同じ額の札が入っていた。


「あの時、自分の手持ちでは足りなかったので、本当に助かりました。ありがとうございました」

「そんな……。これは、あの子の為にお渡ししたお金ですから。返さなくて良いんですよ?」

「いや、でも……」

「あたしも実家で犬を飼っていたので、動物病院の高さは知ってます。ワクチンだけでも一万近く掛かるんですから。そうだ! じゃあ、半分ずつ出すって事でどうですか?」

「え、いや、でも……」

「じゃあ、一万円だけでも受け取ってください」


 そう言って、あたしは封筒から札を一枚取り出し、そして封筒を彼に返した。中には一万円札が一枚入っている。

 彼はおずおずとした様子で、頭を下げて封筒を受け取る。


「じゃあ、有り難く頂戴します」

「ええ!」


 小さく頭を下げる彼。あたしは黙ったまま彼の顔を見つめた。彼は不思議そうにあたしを見つめ返す。


「あの……。もしお時間あれば、カフェに行きませんか?」


 立ち話も何ですし、と言うあたしを、彼は一瞬、驚いた表情で見下ろしたが、すぐに「お時間は大丈夫ですか?」と、あたしの心配をしだした。


「あたしは大丈夫です。あ、もしかしてご予定がありましたか?」

「いえ、何も……。じゃあ……駅方面へ行きましょうか。それなら、色々店がありますし」


 彼の提案に賛成し、あたし達は駅へ向かった。途中、お互い簡単な自己紹介をしあいながら。


 年齢不詳に見えた彼は、あたしの一つ上だった。彼は劇団員で、この近くにある知り合いのダンス教室に通っているのだとか、正職で宅配便の仕事をしているけど、いつかはプロの俳優になりたいとか。

 夢に向かって頑張っている人なのだと、純粋に応援したくなる。


 駅ナカにあるカフェに入り、席につくなり「ああ、そうだ。仔猫なんですけど……」と、彼の言った言葉に、あたしは本来の目的をすっかり忘れていた事に気がつく。何だか、仔猫に申し訳ない。

 彼はスマホを私にも見える様にテーブルの上に置き、写真を見せてくれた。


「仔猫、自分が飼うことにしたんです」

「え? でも、住んでる所では飼えないって……」

「はい。契約時では、そう聞いていたんですが……」


 大家さんとは以前から良好な関係だった様で、事情を説明すると、すぐに理解してくれたそうだ。彼の住む部屋が一階の角部屋でもある事から、猫も出入りしやすいだろうし、古いアパートだから多少、傷が付いても良いと言ってくれたそうだ。舞台でどうしても数日家を空ける時は、預かってくれるとも申し出てくれたらしい。

 彼の事は、今、色々知ったばかりだけど。周りの人に恵まれていて、何より彼が愛される性格なのだとわかった。


 写真の中の仔猫は、たった一ヶ月でもうすっかり大きくなっていて、安心し切った顔をしていた。

 茶トラ模様のはずだったけど、見事に金色に見えて、それは彼の髪の色と同じで……。


 ……夢で見た猫の姿そのもので……。


 あたしは急に夢を思い出し、必要以上に鼓動が速くなる。その間も、彼は柔らかな表情で愛猫の写真を見ながら、色々と話してくれた。本当に優しい人だ……。


 小一時間程経ったところで、そろそろ帰ろうかと店を出ると、空はすっかり夜の姿をしていた。


「もう暗いので、コンビニまで送ります」

「え、いえ、そんな。大丈夫ですよ! せっかく駅に居るんですから、このまま電車で帰ってもらっても、全然、大丈夫ですから!」

「いや……」


 本当は心の中で、その申し出を喜んでいるのだが、でもやはりここは我慢だと思って断ると、彼は少し考える様に視線を地面に下ろす。そして、その瞳が再びあたしを捉えた。


「もう少し、一緒に居たいなと、思って……」


 予想だにしなかった彼の言葉に、あたしの顔がどんどん熱くなる。そんな言い方、断れない。


「……じゃあ……お願い、します」


 あたしがそう言うと、彼はこの日一番の笑顔を見せた。

 その笑顔が可愛すぎて、一瞬、気を失いかけそうになる。いけない、いけない。


「じゃあ、行きましょう」

「はい……。お願いします」

「はい」


 お互いが、ゆっくりとした足取りなのは、きっと気のせいなんかじゃない。

 だけど、どんなにゆっくり歩こうが、歩けば進むもので。コンビニに辿り着いてしまった。


「今日は、ありがとうございました。あ、あと、ここまで送って頂き、ありがとございます」

「いえ……。あの……」

「はい?」


 彼は少し咳払いをする。そして、真っ直ぐにあたしを見つめた。


「また、会ってもらえますか?」


 真剣な表情にあたしの視線は、もう彼に釘付けだ。だけど、あたしが何も答え無いからか、彼は慌てて付け加える。


「あ、彼氏さんとか居たら、勘違いされちゃうかな」

「いえ、付き合っている人は、今はいません……!」

「そうなんですね……! ……あの! 良かったら、連絡先交換しませんか?」

「……はい! もちろんです」


 あたし達は真っ赤な顔で、お互いを見つめ合って笑う。



 何かが、始まる予感。



「あの……。実は、今日会って、思った事があるんです」

「思ったこと?」

「はい」


 彼は恥ずかしそうに目元を赤くし、照れ笑いをする。


「仔猫を保護したあの日から、貴女を素敵な人だなと思ってました。今日、色々お話しして、さらに貴女に惹かれました」


 それは、まるで告白の様で……。


「今後とも、ゆっくりで良いんで! 宜しくお願いします。それじゃ! また連絡しますね!」


 彼は言うだけ言って軽く走る様に去って行ってしまった。


 残されたあたしは、呆気にとられながらも、その背中を見えなくなるまで見つめていた。

 仔猫が繋いでくれた縁……。



 きっと、あの夢は正夢になる。



 何故か確信めいたものが、あたしの中に生まれた。そう思うと、あたしの唇がヤケに熱く感じ、夢でみた濃厚なキスを思い出す。恥ずかしいと思いつつ、思わずそっと指先で自分の唇に触れたのだった。




×××

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