2-10 雨の日の散歩と来訪
朝から雨が降り続いていた。朝といっても、未明から降り出していたのだが。
雨の日は、六夏はいつも以上に外に出たがらない。理由は頭が爆発するからだという。それでなくとも癖っ毛な六夏は、雨の湿気にさらにその癖が強く出る。普段あまり髪型を気にするような六夏ではないが、さすがに自然の摂理にはお手上げのようだった。
「佐々木さん?」
渉はバクを探していた。お昼ご飯の時間だからと、ご飯片手に家中を探し回っていた。しかし、バクの姿はどこにも見当たらない。
「佐々木さん知りませんか?」
「佐々木さんなら散歩に行ってるんじゃないかな?」
「散歩!? この雨の中を、ですか……?」
驚く渉をよそに、「佐々木さんはお散歩が好きだから、雨の日でも出かけるよ。僕とは大違いだ」と笑う。
聞けば、雨の日でも変わらず身一つで散歩に出かけているという。びしょ濡れで帰ってきたバクに驚き、その次の雨の日にはバクでも着られるレインコートを調達したらしいのだが、バクが身につけるのを嫌がったのだとか。犬用に作られた服で、バクにも着られそうなものをいくつか見繕ったこともあるそうだが、やはりどれも着てはくれなかったという。バクが唯一身につけているのは、首に巻いているリボンチョーカーだけだ。
「じゃあ、佐々木さんが帰ってくる前にタオル準備しておいた方がいいですね」
洗面所からバスタオルとフェイスタオルを一枚ずつ、そして足拭きマットを玄関へと運ぶ。マットを床に、タオルは下駄箱の上に置いてからリビングに戻ると、六夏が渉を呼んだ。
「遅くなってしまったけれど、これピョン吉くんに」
そう言って六夏は名刺を渡した。一枚ではなく、束になった名刺だ。
名刺には『宇佐見 渉』の文字。もちろん探偵事務所の名も刻まれている。
「俺の名刺、ですか……?」
束から一枚取り、顔前に持ってくる。両手で持つ名刺が震えていた。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「よかった。気に入らなかったのかと思ったよ」
前職は名刺の文化がなかったので、これが初めての自分自身の名刺だった。そのことに言い表しようのない感動を覚え、渉はしばらく自分の名が書かれた名刺を見つめていた。
***
依頼人が再び探偵事務所を訪れたのは、空き巣被害に遭ったと警察が訪ねてきてからわりとすぐのことだった。
相変わらずフリルの多い服を着ている。一歩間違えれば足首をやられそうな厚底靴も健在だ。
ストーカー被害——これは勘違いだったのだが——の次は空き巣と、災難が続いた被害者とは到底思えないような、初めてここに来たときと変わらない明るい表情で探偵事務所の扉を開いた。
六夏が呼び出したのだろうかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
依頼人は開口一番、引っ越しをするのだと告げた。理由は、ストーカー被害もまだ怖く、さらには空き巣に入られて同じ家に住み続けるのは精神的にも難しいという。
今よりももっとセキュリティのしっかりした家に引っ越せることになったので、挨拶に来たとのことだった。
ストーカー被害については、依頼人の兄による行為だったと警察側から連絡が行っていたはずなのだが、そのことは六夏も触れなかった。
「あ、それとぉ、前に言ってた悪夢ももう見なくなったのでぇ。もぉ大丈夫ですぅ」
相変わらず語尾が伸びる喋り方は鼻につくが、そんなことよりも依頼人の口にした言葉に渉は首を傾げる。
確かに最近、追いかけられる夢は見ていない。
しかし、ストーカー被害にはいまだ恐怖を感じていると、つい今し方言っていなかっただろうか。にもかかわらず、
自問自答を繰り返す渉の横で、六夏は案外あっさりしていた。
「わざわざご足労いただき、ありがとうございます」
「こちらこそぉ、ありがとうございましたぁ」
表立っては依頼についてこちらでは何もしていないので、お礼を言われるのはおかしな話だが、双方気にしていない様子だった。
結局のところ、理由はなんであれ悪夢を見なくなればそれでいいということなのか。——いや、悪夢に悩んでここに来ているのだから、悪夢を見なくなればそれでいいに違いない。
依頼人を見送る間、六夏は世間話とでもいうように軽い会話を交わしていた。依頼人も話好きなのか、取り留めのない会話に花を咲かせる。
「この間、食べ終わったおやつの袋をそのままにしていたことがあって」
考え事をしていた渉は、聞き捨てならない六夏の言葉に、二人の会話に意識が向く。眉間にはシワが寄る。
開封したお菓子の袋をそのままにしておいたというのも、こめかみがピクリと動く要因だが、そもそも狛犬家に市販のお菓子は置かれていない。食料を調達してくれている大東のセレクトなのか、六夏が好まないのか。大の甘党の六夏はおやつは欠かさず食べているが、渉がここにやってきてからは渉が作ったものしか食べていないはずだ。
——実はこっそり買って食べているのだろうか。
もちろん渉にそれを止める権利もなければ、止めるつもりもない。なぜコソコソ隠れるようにして食べているのかは不思議だが。ただ、ゴミをそのまま放置していたという点だけはいただけない。
「放置してたことも忘れてて、気づいたら袋に蟻が集まっていたんです」
六夏は恥ずかしそうに頭をかく。
「うわぁ、それは想像するだけで気持ち悪いですねぇ」
「そうなんですよ。袋を縛ってゴミ箱に入れてしまいたかったんですけど、それだと今度はゴミ箱が蟻だらけになってしまう可能性があるし……でも私、蟻を潰したときの匂いが苦手で、潰すに潰せなかったんですよ」
「蟻の匂い? どんな匂いですかぁ? 潰したことないので想像できないですぅ」
「一度もありませんか? 何と言えばいいか……こう、甘いような、虫らしからぬ匂いがするんですよ」
「へぇ、そうなんですねぇ」
依頼人の相槌は興味があるのかないのか、わからない絶妙なものだった。こんな話に興味を持ったところで、とも思わないでもないが。そもそも蟻の話題だけでここまで話が盛り上がっただけですごいと思う。
依頼人が帰るまで二人の会話は続いた。楽しそうに語らう二人の横で、渉の中のモヤモヤは蓄積し続けた。
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