2-8 朱い夢

 一面に赤が広がっていた。

 赤というよりも、朱という方が適当かもしれない。紅とも言える。

 朱は炎の色だった。円を描くような形で炎が燃え上がっていた。高さもある炎は、まるで壁でも作っているかのようだ。

 周りには何もなく、何が燃えているのかもわからない。炎は、ただそれだけで存在しているかのようだった。

 炎の円の中心には一人の女性が座っていた。逃げ遅れたのか、いや、炎の外に出たいという気概は見られない。とうに諦めてしまったのだろうか。

 炎の朱の周りには、黒いものが同じように円を作って動いていた。黒いものは小さな虫だ。小さな虫が群れをなして歩いている。集団になっているからこそ、その存在を知らしめられているかのように、一匹たりともその列を乱さない。


 女性が振り向いた。しゃがみ込み、すでに低い目線を、顔を地面に近づけるようにさらに落とす。


『どうしてに入ってくるの。ここはあたしだけの場所なのに……』


 か細いとは裏腹に、その言葉には怒気のようなものが含まれていた。


 女性が見下ろした先には一匹の虫がいた。虫が炎の底から円の内側へと入ってきたのだ。

 女性はその虫を親指と人差し指で摘んだ。顔の目の前まで持ってくると、おもむろにそれを半分に引きちぎる。引きちぎった片方を周りを囲む炎の中へと投げ入れる。もう片方は炙るように、炎の端に近づけた。息も絶え絶えになっている虫が熱さと痛みにもがく。


『入ってこないで』


 先ほどよりも強い口調で言い放つ。


『入ってくるのが悪いんだ。ここはあたしだけの場所なの……入ってこないで!』


 女性の瞳は炎の朱を映し、激しく燃え上がっていた。





 ***





 冷蔵庫からバットを取り出す。バットの中には卵と牛乳、そしてたっぷりの砂糖に浸されたパンが入っている。大東がお裾分けに持ってきてくれたバケットだ。六夏のリクエストでフレンチトーストに変わろうとしていた。

 ひたひたに卵液を入れていたはずのバットは、一日置いたことですべてバケットに吸い尽くされ、ほとんど液体は残っていなかった。いい感じだ、と口元が緩む。


 コンロにフライパンを置き、その上にバターを落とす。

 ボタン式のガスはボタンをひとつ押せば、ぼっと音を立てて火がつく。不意に今朝見た夢を思い出した。炎に囲まれた夢。炎の中心にいる女性は間違いなく依頼人だ。

 炎は依頼人を取り囲むように燃えていた。どこにも出口はなく、中心にいる依頼人が炎の外に出ることは不可能だろう。

 しかし、怯えている様子は見られなかった。まるで、炎の中にいる方が安全だとでもいうように。


 卵液がよく染み込んだバケットをフライパンに投入する。じゅっといい音がして、バターの香ばしい香りに空腹が促進する。


「おはよう、いい匂いだね」


 匂いにつられたように起きてきた六夏が、メープルシロップはあったかなとキッチンに入ってくる。

 もう甘さは十分足りているように思うが、六夏の甘党っぷりは渉の基準には当てはまらないので口にはしない。メープルシロップの他にチョコレートシロップも手に持っていたので、なおさら何も言えずにいた。


「それで今朝はどんな夢を?」


 それはここに来てから日課となった食事の合図のようなものだった。


「依頼人の夢でした」

「依頼人? 追いかけられている夢?」

「いえ、炎の中にいる夢です」


 渉はいつものように夢で見たことを話して聞かせた。今回の依頼はすでに解決したと思っているので、この話が必要かどうかは疑問なところではあったが、訊かれるがままに話していた。その間、シロップでひたひたにされたフレンチトーストは見ないようにした。


 話していて気づいたことが二つあった。

 炎の周りを囲むように歩いていた大群は、あれは蟻だったのではないだろうか。黒い塊くらいにしか思っていなかったが、依頼人がつまみ上げていた大きさから蟻のような気がしてきた。

 もし黒い大群が蟻なのだとすると——


「前に見た女の子が出てくる夢。あれ、依頼人だったんじゃないかと思うんです」


 蟻の頭と胴体を分離し、頭の方を火で炙っていた少女。あの映像と、依頼人が炎の中に蟻の半身を近づけていた映像がダブった。

 少女に誰かの面影を見たような気がしたのも、それが依頼人だと言われればしっくりくるような気もする。


「どうして半分に引きちぎって、片方を火で炙っているのか‥‥あの夢にも何か意味があるんですかね?」

「それは何とも言えないけど、繰り返し見ているというのは気になるね。もし少女が依頼人だとして、子どもの頃からそういうことをやっていたのか、もしくは子どもの姿で見ているというのは単なる無邪気さの象徴なのか」

「そういえば『入ってこないで』と言ってました。ここは自分だけの場所なんだと」


 最後の一切れを頬張ると、六夏は口を閉じた。うーんと唸りながら、これまたたっぷりと砂糖が入ったコーヒーを飲み干した。

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