私のお仕えする王太子妃様はチョロい

佐々木尽左

第1話

「あああ、政務が終わりませんわー!」


 超高級な革張りの椅子に座った私の仕える王太子妃様が目の前で頭を抱えられました。淑女らしからぬ言動ですがやむを得ません。


 ここは王宮にある王太子ヴィクトル様の執務室でした。けれど、公爵令嬢であり婚約者でもあるアンジェリーヌ様が今やこのお部屋の主です。


 幼い頃に婚約が決まってからアンジェリーヌ様は王妃としての研鑽を積んで来られました。その甲斐あって王国随一の才色兼備な淑女と謳われる主人は私の誇りです。


「アンジェリーヌ様、少し休憩なされてはいかがですか? お茶をご用意いたします」


「そうですわね。お願いしますわ」


 ハーフアップで飾った癖のある金髪を両手でがっちり押さえたアンジェリーヌ様がおもてを上げられました。


 執務机の上に積み上げられた書類を脇へと押しやって空けた場所にティーセットを用意します。


 愁いを帯びたお顔のアンジェリーヌ様がレモンバームティーを口にされてため息をつかれました。ようやく表情が穏やかになって何よりです。


「どうしてお仕事ってやるほど増えるのかしら?」


「見えないところでネズミみたいにたくさん子供を産んでいるのかもしれませんね」


「やめて悪夢よそれ」


「まじめにご返答しますと、王太子妃様が順調に仕事をなさるので予定通り取り扱う範囲が増えてきているだけですね」


「いいことなのよね、本来ならば」


「そうですね。すべて王太子様がなさるべきお仕事という点から目を背ければ、すばらしいことです」


「あああ」


 いけない、せっかく落ち着きかけたアンジェリーヌ様の精神を砕いてしまった。このままではご政務に滞りが生じてしまいます。


 努めて平静を装いながら私はアンジェリーヌ様を慰めました。そうして二杯目のレモンバームティーを用意する頃には何とか持ち直していただけます。


「ところでソフィア、ヴィクトル様は今どこにいらっしゃるのですか?」


「市井のご視察と伺っております」


「また冒険者ギルドに行っていらっしゃるのね」


 若干厳しくなったアンジェリーヌ様の視線から私は目を逸らしました。


 王太子ヴィクトル様は幼い頃に読んだ本の影響で冒険をして武名を上げることを夢見ていらっしゃいます。そのため、政務そっちのけで冒険者ギルドで活動されています。


「無礼を承知で申し上げますと、王太子様は働く場所を間違えておいでです」


「ソフィアの言う通りだわ。でも、結果は出していらっしゃるのよね。この前は村を襲う飛竜ワイバーンという空飛ぶ魔物を討ち取ったと伺いましたが」


「その通りです。近くの山に住み着いて家畜を奪い去られた民が困っていたのを助けたとか。それはそれで結構なことなのですが」


「ふふふ、すばらしいわ! さすがわたくしのヴィクトル様!」


 アンジェリーヌ様が両手を合わせて満面の笑みを浮かべられました。その美貌もあって無邪気に笑われると本当に太陽のように眩しい。


 しかし、惑わされてはいけません。魔物退治は王太子としてのお役目ではないのです。


 本来ならばアンジェリーヌ様もその辺はご理解いただけているはずなのですが、一途に愛していらっしゃるヴィクトル様が活躍されるとよくお忘れになられるのですよね。このときばかりは目の前の書類も目に入らないご様子です。


 ご機嫌な主人を拝見するのは私としても嬉しいことですが、ヴィクトル様に王太子としての自覚を持っていただきたいとも強く思っています。


 どのように言い返そうかと私が思案していますと、突然執務室の扉が開きました。そして、革の鎧を身につけた銀髪の美丈夫様が入っていらっしゃいます。


「アン、今帰ったぞ!」


「ヴィクトル様!」


 大股で執務机を回り込んだヴィクトル様が立ち上がったアンジェリーヌ様を抱きしめました。そのままの勢いで両の頬に軽く口づけをなさいます。


「今日はお早いお帰りですわね。いつもでしたら日が暮れる頃ですのに」


「うん、実は仲間に早く帰れって諭されちゃってね」


「仲違いされたのですか?」


「そんなわけない! あいつらは気持ちのいい友人だよ。そうじゃなくて、君一人に政務を押しつけるなって怒られたんだ」


 話を伺った私とアンジェリーヌ様は固まりました。最初は何を言っているのかわからずに脳内で言葉を反芻し、次いで意味を理解して何が起きたのかと驚愕したからです。


 ヴィクトル様の冒険者仲間は王太子様が王宮の仕事をきちんとやっていると思っていたそうです。ところが、事実を知って王太子様を諭したのだとか。すばらしいお仲間です。


「それでね、俺も政務をしようかと思うんだ」


「ヴィクトル様! ああ、なんということでしょう! ようやくこの席をお返しするときがきたのですね!」


「今まですまなかった。これからは俺も一緒に政務を頑張るよ」


「はい!」


 先程とは異なる意味の涙を浮かべたアンジェリーヌ様が改めてヴィクトル様の胸に飛び込まれました。


 感動の抱擁に私も胸がいっぱいになってしまいます。これでこの国の未来は明るいとこのときは本当に思いました。




「あ゛あ゛あ゛、政務が終わりませんわー!」


 超高級な革張りの椅子に座ったアンジェリーヌ様が目の前で頭を抱えられました。人が出してはいけない声が聞こえた気がしますがやむを得ません。


 ヴィクトル様が政務に励むことを決意した日から一週間が過ぎました。今の執務室は以前よりもひどいことになっています。


 数字を記入するべき欄が空白のままなのはまだいい方で、サインをしてはいけない書類にサインが記入されていたり、余計な但し書きが追記されていたりしているのです。おかげで配下の者たちは大混乱に陥りました。


 最初は何が原因なのかわからなかったアンジェリーヌ様ですが、調べてみるとどの書類も王太子様が関わったものばかりなのです。


 こればかりはさすがに見逃せません。証拠の書類を手に王太子様を追及なさります。


「ヴィクトル様、お伺いしたいことがあります」


「何かな?」


「この書類に見覚えはございますか?」


「ん? ああ、あるよ。俺がサインしたんだ」


「内容は確認されましたか? 例えば、こちらとこちらの書類は内容が正反対です。これにどちらも許可をされると、担当の者たちが衝突してしまいます」


「ええ!? サインするだけじゃないのか!」


 目を丸くして叫んだヴィクトル様をアンジェリーヌ様が目を見開いてご覧になりました。内容を見もせずに処理したと返答されたのですから当然です。


 そこで私はヴィクトル様が政務をなさる前の執務机の様子を思い出しました。机を埋めてしまうのかというくらいの書類の山がありましたが今はほぼありません。


 つまり、それらすべての書類はヴィクトル様によって考えなしに処理されたことになります。


「あの書類の山を、もう一度、見直、す」


「王太子妃様! お気を確かに!」


 背後に控えていた私は倒れようとしていたアンジェリーヌ様のお体を支えました。お気持ちは痛いほどよくわかります。


 私たちは王太子様を執務室に迎え入れることですべてが正常になると思い込んでいました。ところが、一つ大きな点を見逃していたのです。それは、王太子様が政務に関しては無能どころか有害だということです。


 この件はもちろん国王陛下のお耳にも入りました。何しろ行政が混乱しているのです。すぐにヴィクトル様は呼び出されて叱責されてしまいました。


 一方、アンジェリーヌ様も国王陛下と王妃様に呼び出されました。もちろん叱責ではなく謝罪です。


「すまぬ、アンジェリーヌ。まさかヴィクトルがあそこまでひどいとは思わなんだ」


「どうかこれからもあの子を見捨てないで支えてやってちょうだい」


「もちろんですわ。陛下、王妃様、どうかご安心なさってください」


「すまぬ、すまぬ」


「ああ、アンジェリーヌ、ありがとう。嬉しいわ!」


 私の目の前で高貴な方々による心温まる光景が繰り広げられました。お互いに手を取り合い、抱擁を交わすその様子は感動的です。


 ただ、冷静になってみますと、今後ずっとアンジェリーヌ様お一人で政務をなさることになるような気がするのですが、どうなのでしょうか。




「あああ、政務が終わりませんわー!」


 超高級な革張りの椅子に座ったアンジェリーヌ様が目の前で頭を抱えられました。淑女らしからぬ言動ですがやむを得ません。


 国王陛下と王妃様に泣きつかれてから一ヵ月が過ぎました。ヴィクトル様がやらかした後始末も大体落ち着いてきたところです。


 この執務室はヴィクトル様のものですが、再びご本人の姿は見かけなくなりました。王太子様には冒険者のお仕事に専念してもらうことになったからです。


「アンジェリーヌ様、少し休憩なされてはいかがですか? お茶をご用意いたします」


「そうですわね。お願いしますわ」


 ハーフアップで飾った癖のある金髪を両手でがっちり押さえたアンジェリーヌ様がお顔を上げられました。


 執務机の上に積み上げられた書類を脇へと押しやって空けた場所にティーセットを用意します。


 レモンバームティーを口にされたアンジェリーヌ様がため息をつかれました。ようやく表情が穏やかになって何よりです。


「やっと通常の政務だけになりましたわね」


「亭主元気で留守がいいと市井では申すそうですが、正にその通りですね。なんとなく使い方が違う気もしますが」


「こんなことは申し上げたくありませんが、いらっしゃらない方がはかどるのは確かですわね」


 世の中には何もしない方がよい方がいらっしゃるということを今回の件でよく理解できました。そういう方には下手に何かをさせてはいけないのです。


 そのとき、執務室に文官が入室してきました。いつもより多めの書類を携えて。


 いつものように書類の上にその書類の束を置くと文官は立ち去ろうと踵を返しました。しかし、やや慌ててアンジェリーヌ様が声をおかけになります。


「待ちなさい。いつもはこの時間に書類は届けてこないですわよね? それに、この書類の量は一体なんなのですか?」


「急ぎの案件です。先日、魔物と盗賊の討伐で村々が荒らされたので、その後処理を求められております」


「魔物と盗賊の討伐?」


「はい。その、申し上げにくいのですが、ヴィクトル様とそのお仲間たちがなさったとか」


「あああ」


 いけない、せっかく落ち着きかけたアンジェリーヌ様の精神がまた砕かれてしまいました。このままではご政務に滞りが生じてしまいます。


 立ち去る文官を尻目に私はアンジェリーヌ様を慰めました。そうして二杯目のレモンバームティーを用意する頃には何とか持ち直していただけます。


「なぜ、どうしてあの方は」


「お気を確かに。王太子様も悪気があってなさったことではないはずです」


「承知していますとも。それだけに。ああ、いっそ悪意を抱いていただけていれば」


 大きなため息をつかれたアンジェリーヌ様はうつむいてしまわれました。


 執務室にいなくともヴィクトル様はやらかしてしまうことを知った今、王太子妃様のご心境はいかばかりかと私も心を痛めてしまいます。


 なんとお声をかければよいのかと私が迷っていますと、王太子妃様は突然お顔を上げられました。そして、立ち上がって私の右手を両手で優しく包み込まれます。


「ねぇ、ソフィア」


「何でしょうか、アンジェリーヌ様」


「わたくしたち、姉妹のように仲がよいですわよね?」


 圧を感じる主人の笑顔を前に私は言葉を飲み込みました。


 私とアンジェリーヌ様は主従関係です。もちろん小さい頃から一緒に育ってきたことは確かですが、突然どうされたのでしょうか。


 何やら不穏な気配を私は感じ取ります。


「ソフィア?」


「もちろんです、アンジェリーヌ様」


「よかった! 思い違いではありませんでしたのね! それでは、苦労は共にしていただけますわよね?」


「国の秘密を一介の侍女が知るのはいかがなものかと」


「陛下に許可をいただきに参りましょう。あなたって確か伯爵家の政務をしていたでしょう?」


「あれは一時的なものです。お父様が倒れて兄上がすぐに戻れなかったものですから」


「つまり、政務の経験はあるのですよね?」


「あ」


「嬉しいわ!」


 手を合わせて喜ぶアンジェリーヌ様の前で私は肩を落としました。目の前の執務机にある書類の山を見て気が滅入ってしまいます。


 しかし、もはや拒否はできません。こうやって否と言えないところに相手を追い込むが貴族社会のたしなみです。さすがアンジェリーヌ様、未来の王妃様です。


 お仕えする方々の笑顔を見ながら、私はそっと心の内でため息をつきました。

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