図書館ブリーフィング / 置き手紙
「どうしたん?その怪我」
翌朝、洗面所で鉢合わせした妹は俺の左腕に巻かれた包帯を見て、そう聞いてきた。
「昨日、自転車で転んでさ」
「ふうん。ホントに?自転車は綺麗だったけど」
「えっと、それは......」
俺は言葉に詰まる。妹は疑いの目を俺に向けてきた。
「身を
とっさに出てきたのは苦し紛れの言い訳だ。
「あ、そう。まあ、自転車の方が高いもんね」
俺の返答を聞くと、妹は納得した様子で去っていった。
俺は妹が納得していることに納得できない。兄と自転車を比べて「自転車の方が高い」とは、なんと冷血な妹だ。兄と自転車でトロッコ問題をするな。俺の価値はプライスレスだぞ!そう叫びたい気分だった。
結局、昨夜家に帰ったのは21時を過ぎた頃だった。破れた制服と怪我のことは、自転車で転んだと言い訳をした。我ながらバレバレの嘘だと思ったが、両親はそれをすんなり受け入れてくれた。
ザリガニ星人に切りつけられた時には、このまま死ぬのではないかとさえ思ったが、落ち着いてから見ると左腕の怪我はそれほどではなかった。包丁で指を切ったときの切り傷を少し大きくしたぐらいの程度だ。
その程度の怪我だったとしても、包帯を見ただけで一筋の傷跡を鮮明に思い浮かべることができた。それだけではない。同時に呼び起こされるのは、昨日遭遇した異形の怪物の姿もだ。その恐ろしい姿が不意に脳裏に浮かび、初夏の朝だというのに思わず背筋が凍った。
俺は洗顔を済ませて、朝食を食べるためにダイニングに行った。
『市民スポーツセンターの建設を巡り
テレビでは、前髪を七三分けにしたアナウンサーがスラスラとニュースを読み上げている。テレビから流れる音声にしばらく耳を傾けてみたが、人間の皮をかぶったザリガニの話や昨日の誘拐未遂事件の話は影も形もなかった。今日もこの町にあるのは平和なニュースだけだ。
ニュースを聞きながら、俺は昨日の
彼女の話を聞いてから、俺は気持ちが張り詰めていた。それは、身近な人たちに危害が及ぶのではないかという不安からだ。この瞬間にも、ザリガニ星人は水面下で儀式の準備を進めているのだろうか。
気が付くと、食事の手が止まっていた。俺は悪い想像を頭から追い出すように、一思いにサンドイッチを飲み込んだ。
俺は朝食を済ませ、学校に行く支度をした。真ん中に穴の開いたリュックサックの代わりに、無地のトートバックに教科書を詰めていく。破れた教科書やノートは近いうちに買い直さなければならないと思うと、思わず溜め息がこぼれた。
必要な教科書を全て詰めると、トートバックはパンパンに
「星、自転車は怪我が治ってからにしな」
そう言ったのは、丁度家から出てきた父親だ。俺は体に染みついた癖で自転車を取り出していた。
「ご忠告どうも。父さん」
「学校まで乗せていこうか?」
「いや、いいよ。バスで行くから」
反抗期の中学生のように、父親の車に乗るのが無性に気恥ずかしいわけではない。ただ、真っ赤なクラシックカーの助手席に乗って学校の近くまで行くのは、どうしても気乗りしないのだ。実際妹の中学校では、真っ赤なクラシックカーと言えば
「なら、気を付けて。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
校門には、
「おはよう、巡坂。やけに涼しげな格好やな。学ランはどうした?衣替えはまだやで」
「すいません。昨日破けてしまって、直してるところなんです」
「ふーん。なるほどな。まあ、今日だけは昔の担任のよしみで見逃したるわ」
「ありがとうございます。そういえば、今日は生徒指導の先生じゃないんですね」
「あの先生は休みらしいわ」
「らしい、ということは連絡はなかったんですね?」
先生は不用意に話し過ぎたことを自覚し、「しまった」という顔をした。
「他の生徒には話さんといてな。あんなに
「そう、なんですね......」
「さあ、はよ行った行った。ホームルームに遅刻するで」
そう言って、先生は手で追い払う仕草をした。
きっと生徒指導の先生は、もうこの世にいないだろう。あるいは森林木の言うように、儀式の
同じ学校の先生が襲われたという事実は、ザリガニ星人が平和な日常を浸食しつつあるという現実をひしひしと感じさせてくる。それに俺は、底知れない不気味さを感じていた。
教室に入ると、森林木の席の周りには人だかりができているのが見えた。昨日より人だかりは小さくなっているが、それでも彼女にはひっきりなしに質問が来ていた。それに対して彼女は、時折明るく笑いながら言葉を交わしている。
同級生と談笑する森林木に、昨日の放課後のときのような特別な、ある種の異常なオーラは全く感じられなかった。どこからどう見ても、彼女の姿は、まだ学校に慣れ切っていない
席に着くと、机の中に1枚の紙が入っていることに気が付いた。紙には
手紙の主は森林木だろう。彼女の方をちらりと見ると、彼女は他の人にばれないように小さく手を振ってきた。
「何それ?」
話しかけてきたのは隣の席の女子生徒だ。
「いや、ただのゴミみたい」
俺は隣人に見られる前に、その紙を破り捨てた。
「あ、そうだ。これ教室に落ちてたよ」
そう言って、俺は昨日森林木から受け取った除光液を見せた。
「え、まじ?ホントに私の?」
隣人は半信半疑の顔で机の中を確かめたが、すぐに合点がいった様子で目を見開いた。
「ホントだ。私のみたい。サンキュー。あれ?こんなラベルだっけ?」
「え、うん。そう。そんなラベルだったよ」
「そうだったかなあ......」
隣人のモヤモヤした表情を見て、俺は彼女を騙していることに申し訳なさを感じた。とはいっても、正直に全てを話すのはもっと悪手だ。あなたの除光液は火炎瓶になったと説明しても、どうせ信じてはもらえないはずだ。
それからしばらく机に
数学のワークを開いて途中になっていた問題が目に入ると、昨日の記憶も同時に呼び起こされる。これまで信じていた全てがひっくり返されるような非日常的な出来事。いや、それを日常に
「放課後、図書室で」
俺はその言葉を心の中で繰り返した。そこでは一体、何が待っているのだろうか。
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