第8話 ぶちまけられた本音

 ある夕暮れ間際、一頭の赤獅子に襲われた彼らは、珍しく数時間ほどに及ぶ長期戦の末、ようやく訪れた静寂に安堵の息を吐いていた。

 一行が暫しの休息を得ている目の前には、黒い大地を赤黒く染めるほどに血糊を溢れさせる傷の口を大きく開けた獅子の亡骸がただ横たわっている。

 亡骸の傍にフリトがいつものようにしゃがみ込み、それに触れ、それから固く指先を複雑な形に結びながら何か言葉を唱える。魔獣への弔いの歌なのだろうか、かすかに漏れ聞こえるそれは戦いに疲れた身体にしんみりと染み渡っていく。

 その様子を、獅子に牙を引っ掛けられて出来た左腕の傷をメルに治療してもらいながら、テレントが遠巻きに眺めていた。

 テレントとグドは精霊との混血の人間ではないため、魔術の一種である弔いの歌を聞き取ることは出来ないし、魔獣らの屍から乖離して浮かび上がる魂を目にすることも出来ない。

 精霊の血をひくメルやザングであっても、フリトの唱える文言のすべてを解読できるわけではない。

 極稀にほんの僅かに気配だけを感じ取ることの出来る者も人間の中にもいるというが、実践に役立つわけではない。そのため、二人からすればフリトは自分たちを襲った敵を、ただ手厚く埋葬しているだけにしか見えなくもないのだ。

 自分たちは傷を負ってまで闘っているのに……こいつは何もせずただワケのわからないまじないばかりしている――そんな思いが彼の口をついてしまったのは、珍しく流した自分の血の臭いに酔ってしまっていたからかもしれない。

 しかし、そんなことすらもその時の彼にはわかるはずもなかった。


「――いいよなぁ……おまえはそーやって葬式ごっこをしてりゃいんだからさ」


 唄い終え、獅子の魂が丑寅谷の方角に消えていくのを確認したらしいフリトが立ち上がった時、粗方の治療を終えたテレントがその背中に投げつけるように呟いた。

 両者の間ではザングとグドが、赤黒い地面を掘り返すなどして夕餉のための簡単な竈を作っている最中で、彼の言葉に手を止め驚いたようにテレントの方を振り返る。日頃から仲がいいとは言い難い間柄であるとはいえ、あまりに棘のある言葉を突然投げてきたからだ。

 ザングとグドはすぐに言葉を投げつけられたフリトの方にも視線を寄越した。フリトは佇んだままただ背を向けていた。

 「テレント、おまえなに拗ねてんだよ」と、メルが彼の言葉を誤魔化すように慌てていつものように言いかけると、「メルは黙ってて」と、鋭い言葉が返ってきた。

 返してきたのは背を向けているフリトの方からだった。口調の鋭さに、座って傷の手当てを受けていたテレントも立ち上がって数歩踏みだす。

 歩み寄ってくる彼に、ゆっくりと黒尽くめの背中が振り返り、黒い布の影からきつく激しい紅色に燃え始めた眼がその姿を睨みつける。


「お守りがいなきゃ歩けもしないヤツに言われたかないね」

「んだと? 俺らが身体張らなきゃここであっという間に食われるような弱っちぃヤツがよく言うよな」

「その言葉、そのまま返すよ」

「それはそっちだろ! 常識がねぇなぁ!」

「常識も何もないのはどっちだと思ってんの? 術も使えないくせにエラそうに……俺がいなきゃあんたなんてとっくに喰われてるのにさ」

「んなわけねーだろ、俺の腕がありゃ……」

「そんなもん、あいつらに本気でいつまでも通用すると思ってんの? 殺しといてろくに弔ってやんないと、逆に食われるってことも知らないくせに……なにが、常識だよ。狗宵のいろはも知らない素人が」

「俺らが必死に戦った後にのこのこ出てきてワケわかんねーことだけやって、恩を売りつけてこようとしてるおまえがどうかしてるよ!」

「恩……? ……っはは……なぁんだ……俺が最後にあんたの手柄横取ったとでも思ってんだ?」

「そ、そういうことじゃ……なにがおかしいんだよ!」

「べつに……っくははは……明卯あけうの名門剣士さんだかなんだか知らないけど……くっだんないなぁって思って」

「――っな……!」

「手柄や名誉が大事なら、さっさとお家に帰りなよ。やさしーい父上母上のいるお家にさ。常識知らずの坊ちゃんなんているだけ足手まといなんだからさぁ」

「んだと……!」

「ま、あんたみたいな弱腰剣士を跡取りにしようだなんてろくな家なんかじゃな――」


 紅く輝く眼が嘲笑うように揺れてくつくつと笑い声を零し始めた口元に、乾いた音と熱い衝撃が走ったのは次の瞬間だった。耳に痛い音が辺りに響き、固唾を呑んで見守っていた他三人の間に戦慄が走る。微かに木霊した音に臆病な何かが逃げていく音が小さく聞こえた。

 当人たちよりも早く、テレントを燃えるような紅い眼で睨みつけるフリトの腕をグドが、そのフリトの頬を感情のままに張ったテレントの肩をザングが咄嗟に掴むことで、二人が勢いと感情のままに殴り合いを始めることはどうにか避けることが出来た。

 しかし二人の感情がそんな簡単におさまる筈がなく、身体を捕えている腕を振りほどかんばかりに身を捩りながら互いを罵り続ける。


「俺はともかく、家をバカにするな! おまえみたいなヤツに何がわかんだ!」

「くだらないからそう言っただけじゃん! そんな弱腰だからあんなつまんないので怪我なんてすんだよ!」

「だいたいなぁ、おまえなんて最初っから気に食わねえんだよ! いかさまでバカみたいな占いやら葬式ごっこやらしやがってさぁ!」

「そういう常識のないやつにどうこう言われたかないね! 人の話もろくに訊かない莫迦ばか者のクセに!」

「ったりめぇだろ! 赤眼がすることなんて信用なんねぇからな!」


 箍を外した怒りの感情を食い止める術などが存在するとしたら、テレントが放ったのは決定的な沈黙にすべてを叩き落すとどめの言葉だろう。陽が落ち暗がりを帯び始めた樹々の中にそれが木霊しいつまでも彼らの耳に纏わりつく。

 ザングとグドにそれぞれ捕まれていた二人の身体が感情に震え、その音までもが聞こえてきそうなほどに重たい空気が漂う。

 誰一人として沈黙に捕まれたまま指一つ動かせずにいたその時、隙をついてグドに腕を捕まれていたフリトがその腕を振り解いた。そして踵を返し、獅子の屍を飛び越えて樹々の奥へと駆け出して消えた。


「フリト! テレント、おま……なんてこと言うんだよ!」

「知るか! あいつが悪いんだからな!」


 「ちょ……捜してくる!」と、グドが言い残し、青ざめた顔でフリトが消えていったと思われる方角の藪の中に後を追うように消えていくと、その後ろにいたメルもまた立ち上がってその後に続いた。

 生身の人間であるグドがひとりで森の中を彷徨うことは命をみすみす差し出すような危険と同意であるため、反射的に足が動いたのであろう。

 二つの影と足音が茂みの中に消えて行くのを見届けてしまうと、途端にザングに肩を捕まれるほどに感情の昂ぶっていたテレントがその場に崩れる。

 驚いたザングが、「テレント?傷、痛むんですか?」と、訊くも、ただ黙って俯いたまま首を横に振るだけだった。

 ザングは、いつもテレントと行動を共にしていたメルがフリトの後を追っていったことが気に食わなかったのかと思い、傍らに座って頭を撫でてみた。メルがいつも口喧嘩の後に彼にしてやっていることの見様見真似で。


「大丈夫ですよ……すぐ、帰ってきますから」

「…………」

「火でも起こして、待っておきましょう、ね?」


 ザングの言葉にテレントは幼い子どものように頷き、座り込んだその場で膝を抱えた。

 ザングがフリト達に蹴散らされてしまった焚きつけの木々にちいさく火を点すのを、テレントはぼんやりとした表情で見つめる。炎を見つめる表情は何の感情もないようであって、容易に言葉で言い表せない感情が複雑に絡み合っているようにも見えた。

 日暮れが早い北端の地が近づいているせいもあるのか、陽が陰っていくと瞬く間に周囲の空気はひんやりとした冷たさを帯び始める。

 暫くすると、目の前で横たわったままの亡骸から漂っていた生臭い風が、いつのまにか気にならなくなっていたことにテレントは気がついた。

 魂が乖離した亡骸は、一定の時間が過ぎると土に還ってしまう。勿論それは丁寧に弔いの術を施された亡骸に限って起こる現象で、それを放置したままであると、邪念を孕んだまま朽ちた肉体から乖離できない魂が残り、更なる凶悪な生き物を生んでしまうことが多い。

 普段は戦闘の傷を癒してもらうことで気にもかけていなかった出来事に気づいたテレントは、先ほど罵った彼の必要性を僅かに認識した気がした。亡骸が消えなければ、こうしてその場に留まって火を焚くことなどできるわけがないことは彼も知っているからだ。

 ごく当たり前に思えてきた光景が誰の恩恵かを思い知ることはできたが、だからと言って、彼が投げてきた言葉による侮辱を許す気にはならない。

 憎しみと悔恨が入り混じる眼が映しているのは、ただ小さく揺れる炎だけだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る