第一章

第2話

 ファリルは、週の終わりの朝、岬の上で市の景色を眺める。


 ファリルの住む市の外れから帝国単位で二kmほど離れたその岬は、市の半ばを見下ろす高さにある。そこまでの道のりの傾斜は四〇度ほどとなかなかの坂になっていて、たいそうなペースで歩みを進めた為、うっすらとファリルの額と背中に汗がにじむ。


 岬までの道のりは、傾斜がきついことを除けば手すりなども整備され、滑り止めの石が撒いてある。主に、岬の近辺にある潮風を受けて回る風車と、古く堅牢なレンガ造りの灯台を兼ねた見張り塔の為だ。


 ファリルの背丈よりも何倍も高い見張り塔は、今日も朝日を受けて聳え立っていた。


 ゆっくりと、けれど力強く回る風車は海に近しいファリルの生まれた市の為の用水を地下深くからくみ上げて地下で分配する。地下水道は上下水道が分離され、古い時代に作られたものだが今でも現役だった。


 見張り塔には一階部分に休憩室と、地下には機械室があるものの、ファリルが入ったことはない。ファリルが赴くのはもっぱら地下ではなく、見張り塔の頂上だった。


 塔の中の薄暗い階段は通い始めた当初は、距離感を計り難く頭や体をぶつけながら登ったものだが、今やすいすいと淀みなく登り切ることができた。


 朝のまだどことなくまろやかな光の中、見張り塔の上に立つ。


 そこで愛用のポケットラジオでニュースや教育講座を聴くのがここ数年で定着したファリルの習慣になっている。


 このポケットラジオはファリルが一〇代に差し掛かる頃、入学祝いに託けて祖父が気まぐれに出した『マスグレイヴの式辞』という三角測量を用いる宝探しゲームを解いて、地面の下に丁寧に梱包されて埋められていたものだった。


 手慣れた手つきでいつものチャンネルへあわせる。程なくして聴き慣れた音楽にあわせ聞き取りやすい男性の声で番組の開始が告げられた。


 ファリルのお決まりのラジオ番組「へびつかい座ホットライン」のメインコンテンツといえば、帝国の風物詩や社会経済、歴史文化のホットトピックに関係する身の回りのものを交えたトーク番組だった。


 クロードとカイソンという二人のコンビが織りなすラジオトークには色々なエッセンスが含まれている。今日の番組は、歴史や文学のネタが多いようだが、数学や工学、天文、生物、歴史文学、経済、政治といった様々な会話がツッコミ役のクロードと、ボケ役のカイソンの二人で親しみ易く展開される。


 ボケ役でありつつも、カイソンの知性は確かなもので、ファリルはこの二人のバックグラウンドを想像しようとするも、毎回異なる分野で豊かな意味を包含した訓戒、古典、数理、多国語などを駆使した独特の会話を繰り広げる彼らのイメージは容易に雲散霧消してしまい、像を結ぶのは困難だった。


 ちなみにファリルがラジオをわざわざ見張り塔で聞くのは、付属施設に電波通信設備を備えているお陰で、ラジオチャンネルの電波の入りが非常に良好だからだ。


 戦争となれば、妨害電波や秘密通信の傍受を行うような設備ではあったが、今は灯台を兼ねていることもあり、暇つぶしにと、灯台守として一人仕事をしている老人が手ずからラジオの受信アンテナを電波通信設備に増設したのだった。


 もっとも、古い伝承や民話を聞かせてくれる老人は最近は腰が痛いとかでさぼりがちのようで、今日も案の定お休みのようだった。


 ファリルはラジオを聞きながら、海とは反対、今ファリルが来た街を眺める。街は多くが茅葺き屋根で占められている。茅葺きは一〇〇年前には単に二〇年や三〇年、それを使い終えた後に畑の肥料として売れるからという経済的な理由と、身近で手軽に手に入るからという理由からよく使われているものだったが、近年ではデザインを重視した綺麗なアーチを複数描く二階建てや三階建て家屋などが大半を占めている。


 これは、ファリルたちの暮らすダルマティア地方の伝統文化の再構築、再発見の過程で改めて茅を含めた伝統素材に目が向けられた影響だとファリルは思っている。


 また、茅の屋根の中から五階建てや六階建ての総石造の建物がいくつか立ち上がっている。そうした建物の屋根は黄昏煉瓦という赤みがかかった橙色に屋根を光らせている。


 変わらぬ街並みをぼんやりとしばし眺めたあと、次に左手の方へ顔を向ける。


 視線の向く先にはいやがおうでも目に入る『星』と呼ばれている巨大な球体がある。いつからそこにあったのか、なぜそこにあるのかはわからないオブジェクトだった。ファリルでも知っていることと言えば、球体の直径は数キロメートルはあると推定されていることと、『星』周辺に広がる街に電気と温水を供給しているエネルギー源として使われているということだけだ。


 明らかな人工物であり、その周囲の広範が盆地になっていることから空から落ちてきたのだろうということはわかるものの、ファリルがいくら調べても、どのくらい前に落ちてきたのかといった部分は書物にも老人たちの伝える伝承にも存在しなかった。


 一時間の時間がいつの間にか過ぎ去り、最後の一音まで集中して聞き取ると、そっとラジオの電源を落として肩掛け鞄の中に布で包んで仕舞い込む。


 帰ろうとして立ち上がるタイミングであることをファリルは思い出した。それは従妹の母親からの依頼で、ファリルと仲のいい彼の従妹を含む高等学院の後輩数名がログハウスでキャンプをしているので、様子を見てきてほしいというものだった。


 ファリルは見張り塔を降りる。


 見張り塔の入り口はちょうど太陽の光が差し込んで、夜の名残を感じさせる少し冷たい空気が暖められている。ファリルはこの時間が気持ち良くて好きだった。


 入り口で一度だけ伸びをしてから、ログハウスへ向かう。


 数分ほど歩いてログハウスまであとすこしというところで、何かが目に留まって、そちらの方へ意識を向ける。


 それは走っていく誰かの背中だった。意識を向ける為に足を止めていたファリルは、なにかあったのかと思い、駆け足でそのあとに続いた。

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