魄(縁・2)

桐崎浪漫

1 及川 浬


「あっ!」


かいりさん! また走って... 」


見つけた。

歩道に立ち尽くしたまま、口の中で ぶつぶつと何かを呟いている。恨み言だ。


「クソ... アイツが... 」


青黒い顔の その人は

「あの時、あの自転車を避けなければ... 」と 口から くらい墨色の靄を吐き出し続けていた。


墨色の靄は その人に沿って降ると、足元から纏わりついて 身体を重たくしていく。その場から動けなくなってしまう。

そして、目の前に立った 俺と柚葉ゆずはちゃんにも気付いていない。見えてないんだ。


「ユイカは、まだ、小学校に上がったばかりだったのに... 」


今 この人が言った “ユイカ” というのは、お子さんの名前なんだろう。

スーツを着ている この人も、働き盛りって歳に見える。


すぐ先の街灯の柱の下には、花や缶コーヒーが供えられていた。

走ってきた自転車を避けて、車に轢かれてしまったみたいだ。


柚葉ちゃんと目を合わせると、青黒い人に

「あの」と、声を掛けてみた。


「白い... 白い自転車だった」


やっぱり、聞こえないか...

俺も こうだったんだろうな...


歩行者こっちけるのが当然だとでも思っているのか? スピードも落とさず... 」


「あの、すみません」


「あいつ、振り返って睨みやがって...

すぐに俺が はねられた音が聞こえたはずだ。

突き飛ばしてやる。同じ目に合わせてやる。

俺を轢いた、あの車の奴も... 」


うん、悔しいよな...

どうやら、白い自転車に乗った そいつと、轢いた車を待ち続けているようだ。

どちらかというと、避けきれずに轢いてしまった車の人より、減速もせずにけさせた自転車の人への恨みを強く感じる。


轢いてしまった人は捕まっているだろうし、白い自転車の人も この場所は通らないだろう。

自転車の人に、多少でも 罪悪感を感じる人間性があるのなら、自分のせいで人が死んだ場所は けたくなるんじゃないかと思う。

こうやって、呼ばせたくない。


青黒い顔の鼻や口から 血が溢れだした。

ピリ... と、腹が痛んだ気がして、強引に、だらりと下げられていた青黒い手を掴む。


スーツの男は、やっと俺に気付いた。

血走った眼の焦点が定まっていく。

口からは まだ、ごぼごぼと冥い靄を吐きながら。


「何だ...  お前は... ?」


「あなたと同じ、死人です」


言葉を失っている男に

「あと、この子も」と、隣に 柚葉ちゃんが立っている事を知らせた。

すると ようやく、柚葉ちゃんにも顔を向けている。


「俺も この子も、殺されたんです」


掴んでいた手に もう片方の手を載せて、青黒い手を両手で挟むと、男の口から溢れ出していた墨色も靄が途切れた。


靄が途切れても、男は口を開けたまま 黙っている。

突然 俺らが現れた事に、理解が追いつかないんだろう。


「もう、ここに居ちゃ、いけないんです」


柚葉ちゃんが言うと、男は何か言い掛けたが、それを言葉にはしなかった。

男の足元に纏い、重く縛っていた靄は、地の底に沈んでいき、だいぶ薄まってきていた。

靄は、“常夜とこよる” という場所に送られるようだ。


かなくちゃ」


男は、柚葉ちゃんに

「でも、あんた達... 君達は、ここに居るじゃないか... 」と 唇を震わせた。

青黒かった肌の色は、灰色に変わっている。


「お子さんのこと、仰ってましたね」


口を挟んだ俺に 眼を向けた男は、また胸の中に くつくつと闇をたぎらせているのだろう。


でも、「見守りたくないですか?

お子さんも、奥さまのことも」... と聞くと、男の中から 何かが抜けたように見えた。


「俺も、あなたみたいに、相手に復讐することだけにらわれていました。

でも その間も、父さんや母さんは、俺のことを想ってくれていたんです。

二人を遺して、先に死んじまったのに」


「それは、君のせいじゃ... 」


「そうですね。

でも、何の恩も返せなかった。

だから、せめて見守りたいんです」


男は また口を噤んだけど、やっと、独りじゃなかった ってことを思い出したみたいだ。

闇は すっかり、消え失せている。


俺が 男の手を離すと、柚葉ちゃんが

「往きましょうか」と、男の背に手を添えた。




********




男を連れて 月に戻ると、男が落ち着くのを待って、家族や 会いたい人のところへ連れて降りる。

挨拶を交わすために。


月の宮。


地球から見上げる、あの月にある場所だ。

月には、亡くなった人が 一時的に身を寄せる。

こんな風に言ったら 身も蓋もないけど、“あの世への入口” って感じだ。


とは言っても、生前に信じたものによって、入口の どこへ着くか も 分かれている。

たとえば、生前 キリスト教を信仰していたのなら、御使みつかい... 天使たちが治める月の場所へ。

仏教徒なら 菩薩様が治める月の場所へ... って風に。


特に信仰してなかったのなら、日本人は ここ、“月の宮” に上がることになる。

月の宮は、月夜見大神つきよみのおおかみ... 月夜見命つきよみのみことという、日本の神様が治めているからだ。

日本人なら、自覚がなくても 神道を信仰してることになっていて、自覚もないのに 守護されている。


日本人が 月の宮へ上がるように、海外の人も同じく、生前 所縁ゆかりのある神様が治めている場所へ向かうと聞いた。


そして、伊耶那美命いざなみのみこと黄泉よみや、海の底にあるという根の国や龍宮、この月の宮も、幽世かくりよ と呼ぶらしい。生者の世界は 現世うつしよ

でも これも日本のもので、国や宗教によって そういう場所の呼び方や名前も それぞれみたいだ。


月から、また それぞれの “あの世” へ向かう。

そこで裁かれて、天国だったり 地獄だったり、修行に入ったり って感じなんだろうけど...

実際のところは、俺も柚葉ちゃんも よく知らないんだよな...

月の宮どまりで、先に進んでないから。


それは、月夜見大神の ご厚意によるもので、大神様の下について 仕事をさせてもらってるからだ。


さっきみたいに、地上に迷う霊の墨色の闇を 常夜とこよるに送って、月まで連れて来る。

ガイドみたいなものかな。


常夜 というのは、闇があるべきところ で、そこも大神様が支配者らしいんだけど、どんな場所なのかは よく分からない。

ただ、あの闇を支配する っていう大神様は、やっぱり すごい神様なんだと思う。

人なら、生きてても死んでても、自分で生み出したそれに、簡単に飲み込まれてしまう。


それに闇は、個人の問題に留まらない。

死者の闇に 生者が影響されることもあるし、生者の闇に 死者が引かれることもある。

生者が生者に、死者が死者に も。


それでも、俺らが常夜に送る闇は、死者のもののみだ。


... “生者の闇など 生者に任せるが良い。

幾らでも生み出しようが、生者ならば、自身の心の持ち様や、他の者が手を差し伸べる事、また自身が他の者に差し伸べる事により、打ち消す事が出来るのだ。

それが出来ぬ者は、そういった者であるからな”


そう教えてくれた大神様に、“はい” と頷いたものの、どこかで納得してなかった。

“神様なのに”... と。


... “俺が治めておるのは、月の宮だ。

月の宮ここは 死者の界である。

故に、お前の仕事も死者に限定されるのだ。

また、生のある内より 何の努力もせずこらえもせぬ者を、ただ 助けろ と言うか?

それが、その者に対して必要な事か?

何になる?”


説かれて、素直に謝った。

自分が恥ずかしかった。


生きていられた内に、自分の立ち位置を 何かのせいにばかりしていたりした。

誰かを助けたり ってこともしなかったから、さっきみたいな考えになるんだ...

出来ることは あったはずだった。それが小さなことでも。


それなのに 大神様は、俺がここで、いつか上がってくる 父さんや母さんを 待っていられるように、仕事を与えてくれているのに。


「浬」


「はい!」


大神様だ。


くせのある長い黒髪を、高い位置で ひとつに纏めている 大神様は、凛々しい眉に 奥二重の大きな黒い眼が、黒く長い睫毛に縁取られている。

高く整った鼻に、きりっと引き締まった唇。

なのに、瞼や唇にも色気があって、非の打ち所がない美男だ。

少なくとも俺は、こんな人に会った事がなかった。


神御衣かんみそという、日本神話の絵本で見るような 白い服を着ていて、小さな翡翠が連なって、幾重にもなっている首飾りを掛けている。

今みたいに、神御衣の両袖の中で 腕を組んでいる姿を よく見かける。


「お前と柚葉が 先程の連れて参った男は、柚葉が 連れて、現世に降りておる」


「えっ、柚葉ちゃん ひとりで ですか?」


大神様は 顔色も変えずに

「お前の時も その様であっただろう」と 言った。


そうだった...

父さんや母さんに挨拶に行く時、柚葉ちゃんが 連れて行ってくれたんだ。

まだ 16歳でも、ここでは 27歳の俺より、ずっと先輩なんだよな...


「お前も、頑張っておるな」


わ...  微笑った...


「ハイ!!」


力いっぱい返してしまった。

恥ずかしくなったけど、真顔でいれるようにしないと。


「そろそろ、仕事にも慣れたか?

月の宮ここと現世との行き来も、迷わん様だな」


これは、独り立ちなのか... ?

柚葉ちゃんは、俺が慣れるまで サポートについていてくれてたけど、本当なら “月の宮から別の界へ旅立つ人達を見送る” のが 仕事だ。


「ハイ!!」


また力いっぱいの返事になると、大神様は 袖から片手を出して、自分の顎に指で触れた。

何かを迷ってるように見える。


「死した事に気付かず、先祖の呼び掛けも届かぬ者がおるのであるが... 」


え...  事故で即死してしまった とか、急死してしまった人 ってことなのかな?


「まぁ、ある事情で、柚葉を向かわせる事は 気が進まんのだ」


事情? 何だろう?

何より、歯切れが悪い大神様なんて 初めて見る。

こんな風に 行き先が決まってることも初めてだけど。

いつもは 現世に降りてから、迷ってる人を探してるから。


「だが、生憎あいにく 他の者も出払っておるのだ」


「俺、行きます!」


「うむ... 」


即答したのに、迷われてしまった。

やっぱり まだ頼りないんだろうな、俺じゃ。


「では... もし困ったら、俺の名を呼べ」


大神様は、指先で 俺の額に触れると

「これで、その者の所へ 直接 降りるだろう」と 頷いた。

一人での仕事は 初めてだ...


「はい、ありがとうございます!

行って来ます!」


しっかり頭を下げて、月の宮に流れる 蒼白の星の河へと走る。

そのまま飛び込んだ。

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