百合の気配 春
坂餅
百合の気配
どこからかライラックの甘い香りが運ばれてくる。いつもなら気にしないはずなのに、なぜか今日は気になってしまう。きっと授業が退屈だったせいだろう。
高校生活が始まってもうすぐ一ヶ月。最初は高校生になったんだから、と気合を入れて授業に励んでいたけど、中学の時から真面目に授業を受ける習慣がない人間だ、一ヶ月も持たない。三日坊主にならなかっただけでも褒めて欲しいぐらいだ。
そんなことを考えながら私は窓の外へ顔を向ける。授業中だから、先生にバレないように。
私の席は窓側から二列目、外を見ようとすれば自然と一人、視界に入ってしまう。
確か……
外を見るはずだったけど、なぜか神乃さんを観察している私。クラスの人たちとろくに会話したことないのに、観察をしてしまうのは失礼じゃないのかと思ってしまう。多分バレたら変な人認定されるだろうなあ……。いや、変な人認定どころか、気持ち悪いって言われて、いじめの対象にされるかもしれない。
そうやって一人でモヤモヤしていると、不意に神乃さんと目が合う。視線でバレてしまったのかな。非常にまずい、少しでも話したことがあるのなら笑顔を向けて誤魔化せるだろうけどそうはいかない。
だけど、それは杞憂にすぎなかった。
神乃さんはあたしと目が合うと、少し口角を上げて見せたのだ。小柄な彼女から放たれた大人の余裕のようなものが私に衝撃を与える。なんなんだこれは、小柄で庇護欲をかきたてる少女の反応をするかと思えばその逆。『あら、どうしたの?』とでも聞こえてきそうなその微笑み、大人の女性に主導権を握られたような感じ。なんの主導権かは分かんないけど。
私は慌てて顔を逸らした。非常にまずい、さっきとは違う『非常にまずい』だ。
黒板に意識を集中させるけど、全く集中できない。頭の中でさっきの神乃さんの顔がちらつく。
私は立てた教科書に顔をうずめた。神乃さんがこっちを見ている気がしたのだ。
授業が終わり、休み時間に入る。私は脱兎の勢いで教室から出る。
十分しかない休み時間、あまり教室外に生徒はいない。いたとしてもトイレに行くぐらい、だから私が向かった先に生徒の姿は無かった。
私達一年生の教室は三階にあって、二年生は二階、三年生は一階に教室がある。私は階段を降りずに駆け上がる。三階の上は屋上で、当然鍵がかかっていて出ることができない、けど私の目的は屋上に出ることじゃなくて、誰もいないところに避難? することだった。入学から一ヶ月で校内のことはよく分からないからとりあえず今私が知っている人が居ないとこ、そう! 屋上へと続く階段。
私は屋上のドアに背中を預けるように腰を下ろす。そして深く、お腹の底から息を吐く。
どうしよう、頭から神乃さんが離れない。目が合った時間は一瞬だったはずだけど、ずっと見つめていたような気がした。なんというか、時間が引き延ばされたような時間の流れがゆっくりになったような、なんでこんなことになっているんだろう。
これから教室に戻るのかあ……、席に着くまでに私の視界には神乃さんの席があるんだよなあ……。
はあ、と私がため息をついたとき。
「大丈夫?
突如聞こえた私を呼ぶ声にハッとして顔を上げる。そこにいたのは私を見上げる神乃さんだった。
「し……神乃さん?」
なんでここに? という言葉は出なかったけど、表情で神乃さんに伝わったようだ。
「授業が終わった後、花灯さんが教室から走って出ていくのが見えたから。体調が悪いのかと思って、後を追ったら大きなため息が聞こえてきたの」
そういいながら神乃さんは階段を上って、私の隣に腰を下ろす。
「そして気になって覗いてみると花灯さんがいたから」
「そう……なんだ」
私は曖昧に頷きながら少しだけ、神乃さんから距離を取る。神乃さんは気にした様子もなく、私の顔を覗き込んでくる。
「体調、悪いの?」
形のいい眉を少しだけ顰めながら神乃さんは私に聞いてくる。
非常にまずい、というか私はどうするべきなんだろう。心配してくれるのはとてもありがたいけど、心配してくれている相手が、私がこうなっている原因なのだ。
それに神乃さんとはまともに会話をしたことがないのだ、そもそもクラスの誰ともまともに会話したことが無い私に気の利いた返事ができるわけない。
「あ、いや。大丈夫」
顔を逸らしながらしどろもどろに答える。
「そう、ならいいけれど」
顔を逸らしていたから表情は見えなかったけど、神乃さんがクスっと笑った声が聞こえた。小柄な身体相応の声の高さだけど、背伸びしている感は全くない、大人のお姉さんみたいな人だ。
「話すのは初めてね」
「え、あ。うん、そうだね」
「ふふっ、緊張しているの?」
「あ、う、うん」
あれ? 今のは教室に戻る流れだったと思うんだけど……。
神乃さんは立ち上がる様子もなく、隣に座りながら「そう……」と少し口角を上げている。私はどうしたらいいんだろうか、ここで教室に戻るのは心配してくれた神乃さんに失礼だと思うし、だからといって会話しようにもなにを話したらいいのか分からないし、ていうか休み時間長くない? まだ十分経っていないの?
そんな私の頭の中は、当然神乃さんに見えるはずもなく。
「わたしと友達になって」
そう囁く。私の耳元で。
なっっっぜ耳元で囁く⁉
「うぇっ⁉ いや、あの、その」
私は思わず身体を仰け反らせる。なんで? なんで耳元で囁くの? じゃなくて、なんで私なんかと友達になろうと思ってるの?
そして私が離れた分だけ距離を詰める神乃さん。こんなにグイグイ来る人なんだ、嫌な気持ちはしないけど。
そんなことよりこの体勢がキツイ。仰け反らせて離れた分だけ神乃さんが詰めているから私の軟弱な腹筋では耐えられない、神乃さんはそれに気づいていないのか、更に詰め寄る。
傍から見れば押し倒されているように見えるのだろうか。そんなことを呑気に考えながら私は階段に倒れる。
完全に押し倒された。
覆いかぶさる神乃さんの肩程までの髪の毛があたしの頬を撫でる。
「……嫌?」
神乃さんと友達になるのは嫌じゃない、むしろ私が友達でいいんですか? と聞き返したいぐらいだ。でも、聞き返したくても口から出そうになっている心臓のせいで動かない。頭を動かそうとしても神乃さんの目に吸い寄せられて動かない。実際には十秒も過ぎてないだろうけど、永遠にも感じられる時間そうしている感覚だった。
そしてその時、休み時間の終了のチャイムが鳴る。
「あら」
神乃さんが身体を起こして、ついでに私が起きるのを手伝ってくれる。
ようやく解放された私は、小さく深呼吸をする。そして落ち着くと声が出るのを確認すると。
「あ――」
私の開いた口に神乃さんの人差し指が添えられる。
私が固まると、神乃さんはその人差し指を自身の唇に当てる。
「また後で……。ね?」
そう言って教室へと戻っていく。
その姿に見惚れてしまった私は、ハッと我に帰る。そして、ブレザーを脱いで背中を叩きながら教室へと急ぐのであった。
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