双頭の竜

 * * *


 開戦から一刻を越えたあたりで魔獣の波が穏やかになり、いよいよ終わりが見えたかという時だった。

 魔獣の遺骸いがいを積み上げて疲弊した戦場に、斥候せっこうの声がこだまする。外壁に上がった騎士たちが声を張る。負傷して戦線を離れていた者たちが、陽の大きく傾いた空を見上げた。

 

 それは北の空。遠いアッシュフォーレン山脈から急速に王都へ近づいてくる。

 翼を持つ魔獣。ならばグリュプスかと、対空戦に向け指示が飛ぶ。鷲の頭部に獅子の身体を持つ大型獣。出現頻度は少ないが、黒騎士団に所属して一年も経てば一度は経験する相手だ。


 だがギイスはひとつの予感に胸をざわつかせ、ザシャを呼び寄せた。


「手を出すなと伝えてくれ」

「は? 団長、何言ってんです」

「あれは駄目だ。絶対にこちらから手出しするな」


 近づいてくる。まだ全貌ぜんぼうを捉えられないこの距離ですら、羽ばたきの音が届く。


 その翼は鳥のものではない。近しいものをあげるならば蝙蝠こうもり。獅子の身体には無い、鋭い鉤爪かぎづめが夕陽を跳ね返す。


 全身は深紅。身体は一。頭部は二。


 炎のようなたてがみがなびく。鱗の生えた胴は堅く、いかなる刃も通さない鉄壁の鎧。


「団長……あれ、なんです?」


 いつも飄々ひょうひょうとした態度のザシャが、今ばかりは身震いさせて空を凝視する。


「手を出せばアイクラントが消える。誰も動くな」


 ギイスでさえ一度もその姿を見たことは無かった。空想の産物だとまで思っていた。



 出会ってはならない。決して触れてはならない。

 

 運命が味方すれば、魔獣は此処を去るだろう。

 運命が顔を背ければ、明日の陽を見ることなく国がひとつ滅びるだろう。


 その魔獣が吐く炎は、骨の一欠片までをも残さず焼き尽くす。爪は城壁をものともせず国を砕く。尾の一打が大地を揺らし、後には瓦礫しか残らない。


 出会ってしまったならば。

 ただ祈るしかない。


 双頭の竜――ドゥオイグニシア。


 それは魔獣の長。

 アッシュフォーレンを統べる王の名である。




 王がたけり立つ。

 あらゆるものを畏怖させ圧倒する咆哮ほうこうが空を揺らす。

 両翼を持ち上げるドゥオイグニシアに向け、ギイスは両手を構えた。


「風壁!」


 上空に風を巻き上げる。同時に、竜が両翼を一度羽ばたかせた。

 広域に展開した風の壁に、どぅと圧し掛かる重み。城壁を踏む足元に亀裂が走るほどに重く、ギイスはぐっと顔をしかめた。


「散!」


 ぶつかった風をもろともに弾けさせる。北門の先に広がる草原を、嵐のような風が吹き抜けた。

 両腕にしびれを覚えながらギイスは笑った。


「いかんな。小手調べでこの威圧か」


 愉快愉快と軽口を叩く。胸中には、情をかけすぎた部下の顔が浮かんでいる。


 どれほどの魂を取り込み肥大すれば、ここまでのことを成せる。ベツィラフトの呪術はアッシュフォーレンの王までも掌握しうるのか。

 そんなリングデルの狂王に、クウィルは今も挑んでいるのか。あるいは、すでに――。


「ザシャ。全員、退かせてくれ」

「団長。らしくないですよ」


 ギイスに家族は無い。加護の切れ間の内に弔った。この手に残っているものは、城壁の下で畏怖に堪え、いまだ戦意を灯し続ける黒騎士団だけだ。

 帰す。ひとり残らず。


「人生で一度あるかないかの大物だ。年長者に譲るのが礼儀ってもんだろ」


 だが、その虚勢も逡巡も、魔獣の王は許さない。

 ドゥオイグニシアの左頭部が開口する。唾液をしたたらせた犬歯がびっしりと並んだ口の奥で、ちかりと光が生まれた。


「っ、氷術を張れ! 早くッ!」


 運命は背を向ける。退避の隙も無い。


 双頭を絡ませ合いながら、竜は胸を膨らませる。開いた喉奥に宿った火種は燃え盛る炎となる。

 ギイスが風の渦を作る。騎士たちが放った氷塊を乗せ、氷を纏う嵐の盾を生む。


 激突。


 吹き飛ばされかけたギイスの背をザシャが押し戻す。

 盾を食い破り、炎は削れ、突風を巻き起こしながら共に散る。


 ――刹那。王の右頭が、終焉の焔を放った。

 


 誰もが終わりを見た。


 アッシュフォーレンの王の火が、この騎士団の前線も北門も飲み込み、王都すべてを焼き尽くす様を眼裏まなうらいだいた。


 赤く燃える焔が迫る。


 命の終わりは時の流れをひどく緩やかにして。焔に捲かれるまでの、それこそ三つほどを数えるだけの猶予が与えられる。


 ひとつ目を数え、畏怖と、嘆きと、愛しいものへの情を胸に抱いた。

 ふたつ目を数え、せめて最後まで騎士として背を向けぬよう、剣を構え、前を見据えた。



 そして、終わりの三つ目を数え。

 誰もがそこに。


 焔を食らう、堅氷の盾を見た。




 ギイスは平原に立つ男の背に、言葉を失くした。

 おのれの血を厭い、周囲の目を厭い、憤りのままに剣を振ったいつかの少年をそこに懐かしく重ねる。堅牢な氷壁。その名にふさわしい男が、そこにいる。

 隣のザシャが笑いをこぼし、ギイスの背を叩く。ギイスはザシャの肩を叩き返した。


 竜の焔もろとも、氷の障壁が爆散する。


 霧が立ち昇る中。

 騎士クウィル・ラングバートは、アッシュフォーレンの王ドゥオイグニシアと対峙した。



 * * *



 ドゥオイグニシアの巨躯がけぶる。いまだ火炎の余韻よいんを残したアッシュフォーレンの王は、四つの眼全てでクウィルを捉えた。

 その眼は赤。血のような赤。

 クウィルの瞳に酷似した、柘榴石のような暗赤色。

 やはりこのベツィラフトの瞳は彼らによく似ている。クウィルは顔をあげ、真っすぐに王と相対する。


 王の前足が上がり、クウィルのすぐそばに着地した。風圧に足を取られぬよう、揺るがず立ち続ける。

 試されている。

 それは直感でしかない。だがこれほどの王が、あの狂王に屈してアッシュフォーレンを離れるはずが無い。


「見事な巨躯きょくだ」


 思わずつぶやいた自分の声が、記憶の中にかすかに残る父のものと重なった。


『見事と。かつて同じ言葉を我が身に寄越した者が居た』


 ぐる、と耳で拾った音が、頭の奥で言葉に変わる。その異様もすんなりと受け入れる。

 心がいでいる。あまりに穏やかで、ただ、目の間にいる王に惚れ惚れするような思いだけがある。


『ベツィラフトの血。王の子か』


 ドゥオイグニシアの声が問う。クウィルは笑って否定した。


「クウィル・ラングバート。アイクラントの騎士だ」

『良かろう。騎士よ。かの狂王よりも清く猛き呪を持つ者よ』


 竜は咆哮する。そして、開戦を告げるように尾を打ち鳴らした。


『証明せよ。その血が本物であると』

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