時を経た別れ
* * *
倒れたままのクウィルの左手を、リネッタは両手で包んだ。
息はある。鼓動も聞こえる。けれど、琥珀の瞳に光が戻らない。
「クウィル様」
クウィルはきっと聖剣の内にいる。今リネッタが炎を使えば、彼がどうなるかわからない。
もう一度鼓動を確かめる。重い身体を強く引き寄せた
青い石。
それを目にした途端、リネッタの胸がずくりと痛んだ。
彼の騎士服のポケットを探る。そこに、リネッタが断った誓約錠が入っていた。
この手で断ち切ってしまった、彼との縁。
婚約は破棄した。リネッタが立ち切った誓約錠は、とっくに捨てられたものと思っていた。
唇を噛み、彼の胸に誓約錠を戻した瞬間だった。
クウィルの身体が、突き上げられるように跳ねた。
「駄目!」
上から覆いかぶさり、クウィルを押さえつける。
溺れてもがくような彼の身体にしがみつくと、ちょうど三つ数えるほどで動きが止まる。リネッタの汗がクウィルの胸元に跳ねた。
そのとき、リネッタの乱れた髪を誰かが撫でた。
二度、三度と撫でられて、顔を上げる。
『あなたの力を貸してちょうだい』
まるで幼い子を
涙が滲んだ。聞いたことのないその声が誰のものか。会ったこともないのにわかる。
「でも……今炎を使えば、クウィル様まで」
『大丈夫。私が道を開きます。ともに願って、そして、あの子を想って』
「クウィル様を、想う……」
目を閉じて浮かべる、いつくもの顔。それはもう、十二歳の王子様ではない。
琥珀石の中でも希少な暗赤色。不器用で無愛想で正直すぎる、リネッタの婚約者。
クウィルと繋がる左手はしっかりと握り、もう一度、リネッタは胸中に炎を描く。
先程は耐え難いほど熱かった炎が、今度は温かく柔らかい。
『さぁ、迎えに行きましょう』
声に導かれるままに、リネッタは右手で聖剣を握った。
* * *
闇の中に突如湧き出た光は膨れ上がり、クウィルを守るように全身を包み込んだ。
温かな光が、クウィルの全身を撫でる。そのたびに傷が塞がり、喉奥からこぼれていた血が止まっていく。
この光が皆、聖剣から放たれる日を待ち続けたベツィラフトの魂だ。
「またも我の邪魔をするか!」
王が怒声をあげる。
髪を振り乱し血をほとばしらせながら、クウィルの剣から逃れようとあがく。
王の腕が再生し、両手でクウィルの首を掴んだ。ぎりぎりと絞めつけられ、足がゆっくりと浮き上がる。剣先はずるりと王の腹から抜け出た。
『王の子』
『ベツィラフトの御子』
光がささやく。
何をと返そうにも、気道を押さえられた声は声にならず、クウィルの視界が霞みだす。
『王の子。浄化の炎が来る』
『強い。強い、炎が来る』
『王の子よ。剣を』
痺れだした指に力を込め、再び両手で剣を握りしめた刹那。
剣身が燃え上がる。
剣は炎を纏い、赤い火華をほとばしらせる。火華は意思を持ったように王の手首に絡みついた。
「な、あッ!」
火に捲かれた王の手が、クウィルの首から離れる。闇にどさりと落とされたクウィルは、呆然として燃え上がる剣を見つめた。
柄を握ったままの手に、包み込む温かさを感じる。
まるで、ともに剣を振るおうと言うように。
「貴女は本当に……強いひとだ」
鮮やかな炎の華を手に、クウィルは笑って立ち上がった。
大きく一歩を踏み込み、王の身体を下方から肩へ斬り上げる。
「がああああああああああああッ!」
王の悲鳴が闇を揺らす。その顔が目まぐるしく変わる。
王の身体に縛られたベツィラフトの魂が、炎に巻き込まれる。ひとつ、またひとつと剥がれて燃えていく。
聖剣から放たれる願いは果たされないまま、ここで焼かれていく。けれど、どの顔も満足げに笑みを浮かべる。
クウィルを守る光もまた、少しずつ群れから剥がれ、燃えあがりながらささやく。
『悔いずとも良いよ、王の子』
『我ら果てるまで、炎より王の子を護ろう』
『どうか終わらせておくれ』
解呪の奇跡は起こせない。リネッタもきっと、それを承知で炎を届けてくれた。ともに運命に巻き込まれ、ともに背負うために。
ともに、戦うために。
炎を纏う剣を構える。
「亡国の王。その魂、ここで潰えていただく!」
振り抜いたクウィルの剣が、王の胴を分断する。
王の上半身が音もなく闇に落ちた。苦悶を浮かべた王の顔が痩せぎすの男のものへと変わる。切断された断面から炎があがり、じりじりと王を焼き尽くしていく。
「は、は」
乾いた笑いが王の口からこぼれる。それはしだいに強くなり、闇の中を響き渡った。
「ならば、ならばアイクレーゼンよ。
足元の闇が揺れる。
王の叫びに、遥か遠い彼方で、ギィィィィという遠吠えが応えた。
「何をした!」
「呼んだのだ。決してアッシュフォーレンを離れてはならぬものを」
「呼んだ……?」
そこで初めて、クウィルは違和感を覚えた。
――呼び寄せるとは、なんだ。
五日間で詰め込んだ、ベツィラフトの膨大な記録。呪術の研鑽の歴史。それが頭の中を駆け巡る。
燃え尽きながらも勝ち誇る王の顔。ただ使役を使っただけとは思えないその様相を前に、クウィルの中に芽吹いた違和感が膨れ上がる。
「なぁ、ベツィラフトの遺児よ。この地に縛られた我が、なぜ遠き山より魔獣を呼べると思う?」
「それは、使役の呪術を――」
当然と答えかけて、違うと自分を否定した。
紐解いた禁書の中に、一度として現れなかった使役の名。おそらく調和のことだろうとクウィルは理解した。魔獣を鎮め、共生していくための呪術。ベツィラフトの血が知るという、癒しにも似た力。
だが、それは本当に、魔獣を狂わせる力のことか。
けは、けはと。王の嗤い声が響く。
「呪術では、魔獣と対峙せねばあれらを従わせられぬ。つまらんだろう? ゆえに我は数多の呪術を喰らい、新たな術を編んだのよ」
「術を、編んだ?」
「呪術も転移術も、貴様らの魔術も。根を辿れば同じ。あらゆる秘術を知れば、この程度、造作もない」
――大昔の魔術は、もっと色んな系統に分かれてたんだと。
禁書庫で聞いたザシャの言葉を思い返す。
――ザシャとともにあらゆる秘術を研究してもらう。
リネッタを救うためだと思っていたレオナルトの言葉が、違う意味を持ち始める。
頭の奥が、すぅと冷えていく。
ベツィラフトとリングデル。失われたふたつの血を手に。その研究の行き着く先はどこだ。
王がにまりと口端を歪める。
「希少なベツィラフト。いずれおまえはアイクレーゼンに使い潰される。あるいはその前にアイクレーゼンが焼け
「……何を」
「我が朽ちる前に手を取れば、アッシュフォーレンがおまえのものになる。国を守るも陥とすも叶――」
耳障りな甘言を遮る。生身であればあるはずの王の心臓めがけて剣を突き立て、クウィルは自分の戸惑いもろとも断ち切った。
人を想う。
父を。兄を。レオナルトを。今日までクウィルを呪術から遠ざけ、守ってくれた人たちを。くだらない血筋に悪態をついて飲み明かそうと、笑いあった友を。
こんな言葉に、自分の積み上げた大切なものを消されはしない。
「国を守るのに、おまえの手など必要ない」
「……愚か者め。ならばここで我とともに朽ち果てよ」
走り出そうとしたクウィルの前に炎の壁が立ちはだかる。
闇を朱く染め、この場全てを浄化の炎が支配していく。このままでは王とともにクウィルも炎に捲かれる。
出口を求め見えない壁を剣で薙ぐが、手ごたえが無い。剣を振る滑稽なクウィルの背に、王の嘲笑がかかる。
だが。
『王の子。迎えがきた』
今にも消えようとしている魂たちが、喜びに湧く。もはや顔半分だけになった王の顔は、歓喜の渦の中で醜く歪んだ。
クウィルの頭上から一条の強い光が射す。闇を
『いけない子。大切なひとを泣かせるなんて』
「は?」
思わず返したクウィルの声は、上品とは程遠い。
光球は笑うように震えた。
『けれど、甘言に揺らがないのは立派だわ……急ぎなさい。後はきっと、あなたが持つもう半分の血が導いてくれるから』
クウィルは光球の中心へと目を凝らした。当然、そこに何も見えはしないのに。
知っている。この光が何者なのか。
聖剣という檻の中。リングデル王の魂の内側。
遥か遠い日、魂を削られながら、ラルスとレオナルトをここから救い出した者。最期まで同胞の魂を救うために抗った、解呪の担い手。
『ごめんなさい。ベツィラフトの血は、きっとこれからもあなたを苦しめるわ』
「いいえ!」
クウィルは叫んだ。目の前の光――母、オルガの魂の欠片に。
この血がなければ、もっと自由に生きられたかもしれない。まったく違う道が選べたのかもしれない。
けれど、この血があったから。
クウィルは騎士になり、そして、リネッタを呪縛から解放することができる。
「感謝申し上げます」
『あら、紳士みたいなことも言えるのね』
茶化すような口ぶりに、クウィルは苦笑で応じた。そして、深く一礼する。
頬に温かいものが触れたような気がした。それを指でなぞり、光が示す方へと走り出す。
心で別れを告げながら。
まっすぐに。帰るべき場所だけを見据えて。
王の身体が燃え尽きる。空になった魂の庭を、炎が満たしていく。
最後に残ったひときわ大きな光が名残を惜しむように揺れて、静かに灯を落とした。
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