最果ての花畑と三女神
一色まなる
第1話 最後の候補者
「エリナ! いつになったら棚の並びを覚えるの!? 香草は右! 薬草は左!」
イネスの声が温室から響いてくる。その声というのは、外にいるエリナには普通に聞こえるほどだ。色とりどりの花が咲き誇る花壇から顔を出した黒髪の少女は声を上げようとして、隣にいた男の子にさえぎられた。いたずらっ子のような笑い声をあげ、キラキラとした金髪が太陽に照らされて光っている。
「さすがは名女優の愛娘。声量まで似てやがるなぁ」
「聞こえていましてよ! フィデル! あなたがまたあべこべに教えたのでしょう!?」
いらいらした声に目の前にいたフィデルは肩をすくめて舌を出した。やれやれ、とエリナは雑草を入れた籠を持ち上げた。朝から休憩をはさみながら花壇の手入れをしていたから、籠の中には草がびっしり入っている。雑草の青臭いにおいに混じってハーブの匂いがしている。
「フィデル、いたずらばっかりするとドナ先生に怒られるよ。試練もうけさせてもらえないかもよ?」
その声にまたフィデルは笑った。よく笑う男の子なんだ、とエリナはこの一ヵ月で分かった。代わりにイネスはいつも怒ってばかりだ。
「試練、ねぇ。本当にそんなものがあるのかよ。だって、ずーっと花壇の手入ればっかりだし。こないだなんて山にピクニックだぜ?」
「それは……そうだけど。でも、ドナ先生は嘘をつくような人じゃないと思う……」
「嘘はつかないけど、全部素直に話してくれる人じゃないだろ? 昨日だって、薬草の調合比率教えてくれなかったじゃないか。そのせいで俺の髪がしばらく虹色になったじゃん」
「それは、先生の話を最後まで聞かなかったフィデルが―――」
「とにかく! あと一人だ。最後の候補者は誰が来るんだろうな。女の子だったらいいな! かわいくて花の似合う優しいお姉さんならいいな!」
えへへ、と顔をふにゃふにゃにして笑うフィデルにエリナはまた始まったと思った。フィデルは綺麗な女の人に目が無いのだ。それを見たイネスは不潔ね、とぼやいてけんかになりかけた。
(あと一人……かぁ)
ドナ先生が言っていた”四人の候補者”の事が頭に浮かんだ。
「いいですか、エリナ。あなたのほかにあと三人、候補者がやってきます」
右も左も分からなかったエリナを家に招いてくれたのは稀代の薬草師ドナだった。ドナは薬になる植物だけでなく、気持ちを落ち着かせる香草の調合も得意。いつもニコニコと静かに笑っている高齢の女性はエリナにこの世界の事を教えてくれた。
「あなたがもし元の世界に戻りたいのであれば、女神に御目通りをし、願いを叶えてもらう必要があります」
「女神様?」
そうです、とドナはゆっくり頷いて分厚い本をエリナの前に出した。ずいぶん古そうに見えたけれど、丁寧に使われていたようで汚れは見えなかった。表紙には三柱の女神とその紋様が描かれている。
「白き高潔なる女神カーミラ、赤き勇敢なる女神ヴァレンティナ、青き勤勉なる女神アマ―リス。彼女たちがあなたをこの世界に呼び寄せたのでしょう。思い当たる節はありませんか?」
そう言われても、エリナは首を横に振った。何も覚えていないのだ。エリナ、という名前だけが頼りだった。何も覚えていないエリナをドナは心配し、弟子として迎え入れてくれた。
「女神にお目通りがかなうのは数年に一人。何人もいる“候補者”達の中から選ばれたものだけが女神のおわす”果ての花畑”にいけるのです」
「果ての花畑?」
「ええ。この町、ガーベラのどこかにあるという花畑です。私はそれを見守る役を女神から与えられました。
他の候補者を待ちながら、あなたがこの世界でしたいことを探しなさい」
「……はい」
(あと一人、どんな子なんだろう)
エリナにとってイネスもフィデルもどこか壁を感じる存在になっている。一緒に過ごしているうちに話すようにはなってきてはいるけれど、何でも話し合える相手にはなっていない。
それもそうだ。エリナはこの世界の人じゃないんだから。花の名前、生き物の名前、町の名前、普通にこの世界に生まれて育ったなら覚えているはずだろうそれらすべてをエリナは知らないのだから。
かといって「自分はこの世界の人間じゃない」なんて言った日には、心配されるか、笑われるかのどっちかだろう。
「エリナ、空を見て」
「なに?」
「フー鳥が低く飛んでいる。じきに雨が降る」
フィデルが指をさしたのは低く飛ぶ鳥の群れだった。あの鳥は鳩と同じくらいの大きさで、夕方になると群れになって森へ向かう習性があるとフィデルが教えてくれた。珍しくもなんともないので、何の事だろうとエリナは首をかしげる。
「そろそろ雨が降るだろうから、早く部屋に入ろう」
「う、うん……?」
「フー鳥はこの国じゃ下手な天気予報より当たるんだ。高く飛べば晴れ、低く飛べば雨。そんなこと、常識じゃないか」
「……」
「二人とも! いい加減花壇の手入れは済みまして!? 洗濯物や掃除、薬の配達に……後いろいろ残っていますのよ!」
耐えきれなくなったのか、泡まみれになったイネスがドアを開けて出てきた。先ほど、ドナに洗濯物をするように言われていたのだが、まだ終わっていないようだ。
二人が家の中に入ると、ふわりとした香草の匂いがする。この匂いは洗濯物に使われるものだ。でも、それにしては匂いが強すぎた。臭い、とフィデルが呟いた。
「おーい。また洗剤用の調合間違ったな~」
鼻をつまんでフィデルが言う。エリナもポケットからハンカチを出して鼻を押さえる。
「匂いがきついよ……。イネス」
「そうは言いましても、あの量の洗濯物。洗剤の量を増やさないととてもじゃないけれど終わりませんことよ?」
「それにしたって、量を入れたところで落ちる量は変わらないぜ。匂いがきついだけで何も意味がない」
「そんな事、知りませんわ!」
「とりあえず換気から、だね」
窓を開けて新鮮な空気を取り入れた。それでもまだ匂いは全然抜けない。
「おかしいな。普通ならそろそろ消えてていいと思うんだけど」
「イネス。汚れを落とす薬草だけを使ったのよね?」
「ええ、そうよ? このかごの中のものを使いましたわ」
イネスが温室の棚に置かれていた小さなかごを持ってきた。そこに入っているのは汚れ落としの薬草で、これを組み合わせて汚れは落ちる。その配合もエリナ達の仕事の一つだった。
(だとしたら変なものは入っていないはず……)
小瓶に入れられた薬草を一つずつどかしていくと、奥底にあるものを見つけた。それは油紙に何重にもくるまれている。それなのに、くらくらするような甘いにおいがする。それは今部屋中に立ち込めているにおいによく似ていた。
「これ……レッドファム!?」
「レッドファム? あぁ、高貴なご婦人の香水によく使われる薬草だろ?」
「なんでそんなものが!?」
目を丸くするイネスにエリナも覚えたての知識を聞かせた。
「レッドファムはにおいが強すぎるから基本は蒸留水と混ぜて使うって先生がおっしゃってたのに。それに、洗剤には絶対向かないわ。こんなににおいが強いんだもの」
「おかしいですわね……。それに見て下さいまし。油紙に包まれているなんて、まるで買ってきてそのまま入れたようではありませんこと?」
「おかしいよね。買ってきたら紙から出して、瓶に詰めるのに」
「あ、ごめんそれ俺だわ。昨日先生から市場に買い物を頼まれて買ってきてたんだけどさ。どこにやったかすっかり忘れてたんだわ」
「フィーデールー!!!」
「おぉっと! 悪かったって!? だから泡を投げつけるなって!!!」
「いつもいつも! お使い一つまともにできませんの!? それでよく候補者に選ばれましたわね!!」
「ふ、二人とも……! まずは片づけを……」
バタバタと泡を投げつけあう二人を何とか制しようとしたエリナはどちらから止めようかと左右を見渡す。
「イネス、フィデル」
「そ、その声は……」
三人が温室のドアのほうを見ると、そこには長いローブをまとった高齢な女性が立っていた。紺のドレスには余計な装飾が一つもなく、銀髪は頭の高いところでひとまとめにされ、エメラルドが埋め込まれたバレッタが昼の太陽にきらめいている。
「ドナ先生!?」
「いつまでたっても洗濯ものが終わらないから心配して来ました。洗濯物はシーツ三枚だというのに……早く終わらせないと雨になるのでしょう」
「ごめんなさい……」
「それに、レッドファムはここにあったのですね。とあるご令嬢からご依頼があって、ちょうど探していました。こんなところにあったのですね」
「すみません……」
さっきまでの勢いはどこへやら、二人とも縮こまってしまう。エリナがほっと胸をなでおろそうとしたとき、ドナはエリナに声をかけた。
「エリナ、今日のレポート。あなただけがまだ提出されていませんよ?」
「え!??」
「また忘れたのかよ、エリナ。レポートは昼過ぎには終わるだろ?」
「文字を学ぶ機会がなかったとはいえ、ここは薬草師の館。その弟子であり、候補者でもあるあなたに”書けない”なんて言い訳はできませんわ」
「うん……」
「そこまで責める必要はありませんよ。二人とも。薬草のレシピは古代文字で書かれるのですから、あなた方より多少時間がかかるのは仕方のないことです。エリナ、夕食までには持ってきてくださいね」
「は、はい!」
「二人は片づけをしなさい。いつもエリナばかりに片づけをさせるのは不公平でしょう。バケツを取りに行きなさい」
「わかりました、ドナ先生」
「あなた達を預かったのは、こういう意味もあるのですよ。候補者という自覚を持ちなさい」
そういってドナは館へと続くドアから出て行ってしまう。エリナは二人にお辞儀をした後、自分に与えられた部屋へと向かった。机とベッド、そしてクローゼットがあるだけの殺風景な部屋。ほかの候補者はそれぞれ好きなように部屋を改造しているけれど、エリナは気が引けた。花一つ飾るのだって気後れしてしまう。
「今日のレポートは……確か、町の歴史ね」
この世界に来て初めて教わったこと。この世界の文字はエリナの知っているどの文字とも異なっていた。数字だけはかろうじて似ているようだったけれど、アルファベットでも漢字でもひらがなでもなかった(それらがどんな文字かは覚えてないけれど)言葉は通じるけれど、文字はわからない。
だから、まず文字を覚えることから始まった。自分の名前、町の名前、花の名前、動物の名前、少しずつだけれど名前を書けるようになるたびに、この世界の形が分かってくるような気がした。
それでも、すらすらと本を読めるようにはまだなっていない。二人は文字を書けるし読める。この世界では文字の読み書きができる人は限られているようで、二人とも不思議には思わなかった。そのことを聞いた時、少しだけほっとした。
(でも、私の世界ってどんなところだろう)
ドナに何度も訪ねてみても、わからない、の一点張り。二人にもそんな言い伝えはないかとそれとなく聞いてみたけれど、首をかしげるばかりだった。
お父さんやお母さんはどんな人だっただろう。子どもは親に似ている、というから黒い髪で緑色の瞳をしているのは間違いないだろう。けれど、それ以外のことは全くわからない。
農夫だったろうか、戦士だったろうか、学者だったろうか、医者だったろうか、それともイネスの家のように芸術家だったのだろうか。そうだったような、でも、そうでないようなあいまいなものばかり。
(ううん、今はこの課題に向き合わなきゃ)
こうして本と向き合うと、たくさんのどうして? が目の前を通り過ぎていく。
どうして女神さまは自分をこの世界によこしたのか。
どうして彼女たちは自分の記憶を消したのか。
どうして、候補者に選ばれたのか。
どうして、候補者は一人でなく複数なのか。
そして、どうやったら帰れるのか、という言葉も浮かんでくる。記憶がないならここにとどまってもいいじゃないか、なんて声も聞こえる。確かに、戻った世界が平和なんて確証はどこにもない。
でも、ふと感じるのだ。
二人が両親の話をしているとき、歌を歌っているとき、小さい頃の思い出を話すとき、エリナは”そこにいない”から。寂しいとも悲しいとも、悔しいとも違う。何か言葉にできない冷たくて暗い感情がエリナの手を引っ張るのだ。その手はひどく冷たくて、引っ込めてしまいたい。けれどどうしようもなくエリナを呼ぶ。
「この試練を乗り越えたら、私は帰れるんだ」
そのことをただ信じていくしかないんだ。悲しくても、寂しくても、つらくても。ぽとぽとと頬を伝う涙は誰にも見せたくない。心配させたくない、そう思えるくらいにはこの生活が好きだから。
「雨が降り出しちゃったね」
レポートの最後の文字を書き終えたとき、もう日は落ちてしまっていた。いいえ、日はあるけれど暗い雲に覆われて灰色の世界。しとしと、ぱらぱらと優しい雨の音はどこにいたって変わらない。ガラス窓にあたってしずくが下へと流れていく。
「そうだ、カーテン閉めなきゃ。ガーベラは冷えるのよね」
この町は山奥にあるから、夜の冷え込みは凍えるほどだ。まだ夜にはなっていないけれど、カーテンを閉めて少しは冷えを抑えよう。エリナは椅子から降りて窓へと近づいた。
「?」
なんだろう。視界の先、森の中で何かが動いた気がした。シカにしては小さく、ウサギにしては大きすぎるそれはふらふらと左右に揺れている。
「まさか、幽霊!?」
ふらふらとしているし、黒い影は何かを探しているようにも見えた。エリナはこわごわとその様子をじっくり見た。暗がりに目が慣れてくると、それはフードのついた長いローブで体を覆っている子どもだった。
明かりも持たないその影は、近づいたかと思えばふらりと遠ざかる。かと思ったら別のところから顔を出す。
「なんだ、子どもかぁ……って子ども!? なんでぇ!?」
こんな山奥に人、しかも子どもがいるなんておかしい。いつの間にか館にいたエリナはともかく、ほかの二人は大人と一緒にやってきた。
(もしかして、あの子が4人目!?)
バタバタと手元にあったろうそくに火をともし、カバーをかぶせてエリナは外へ駆け出した。まだ雨はひどくなっていないので、そのまま裏口から出ていく。
「そっ! そこ! そこの君!! こっち!」
バシャバシャと水たまりを踏みながらエリナは影に声をかける。影はふらふらとしていた足を止め、エリナのほうに顔を向けた。暗がりのせいで顔ははっきり見えなかった。けれど、窓から見えた人影はこの子で間違いない。
(近づいて気づいた……この子、けがをしてる!?)
ぼろぼろの長ズボンにはいくつもの穴が開いていて、ところどころに赤黒いしみがついていた。袖口からちらりと見えた指は、爪の間には泥がびっしりついている。
「ここは薬草師ドナ様の館です。事情をお伺いしても?」
「……?」
「ここは、ドナ様という方の家です。あなたがここに来た理由は何ですか?」
雨に濡れていることをすっかり忘れてエリナは声をかける。しかし、目の前の子供は何も話さない。ふぅ、ふぅ、と息切れの吐息だけが聞こえる。息切れとは違う、弱りきった音だ。エリナは声を抑えて、驚かさないように続ける。
「何も話してくれないとわからないわ。あなたは誰? どこから来たの? 治療を希望するなら案内します。迷子なら館から伝書鳩を飛ばします。答えて下さい」
「……」
背格好からして、エリナとそう歳が変わらないようにも見える。10歳を少し過ぎたころぐらいだろう。だったら、何か話すことができるはず。
それでも、何も話さない。男の子なのか、女の子かもわからない。ただただ、エリナのほうを向いて息をするだけだ。すみれ色の瞳が、伸び放題の暗い髪からちらちら見える。
(やっぱり、幽霊なんじゃ……)
「あなた、お名前は―――」
「待っていましたよ、レミリオ……ですね?」
「!?」
その声にようやく顔を上げた少年の顔は泥と切り傷まみれだった。涙にぬれたような顔はくしゃくしゃに歪んでいる。その顔を見てドナは深くうなずいた。
「気づくのが遅くなりましたね。エリナ、彼はレミリオ。最後の候補者です」
候補者、という言葉を聞いてエリナはほっとした。ドナが知っているということは、少なくとも迷子ではないのだろう。
(男の子だって知ったら、フィデルがっかりするだろうなぁ)
まぁ、男の子と女の子が同数ってことで、手を打ってもらおう。
「そうなんだ。レミリオ、とりあえず傷の手当てをしましょう」
「……!」
手を差し伸べるエリナはレミリオの手を取る。長いこと雨に濡れていたのだろう。その手はふやけていて、まるで柔らかい氷のようだった。
最果ての花畑と三女神 一色まなる @manaru_hitosiki
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